電気 act13




 天蓬、夢だと思えよ。
 全部夢だと思え。
 取り返しがつかないことなんか何もねえし、何が起こっても平気だ。おまえだけは何をしても許される。この本も壁も金蝉も桜も空も、おまえのためだけにここにあるんだ。おまえが望んだからここにあるんだよ。考えてみろ、おまえの願いが叶わなかったことが一度でもあるか?何でも思い通りになってきたろ?
 俺のことが気に入らねえってのは嘘だな。ずっと戦う相手が欲しいと思ってたんだろ?ほんとに嫌ならすぐどっかに飛ばしちまえばよかったんだ。
 金蝉が手に入らねえのが不満ってのも嘘だ。本気で金蝉が欲しかったか?心のどっかで、このままの関係で満足だって思ってたろ。他の誰にも真似できないような「長年の友情」に優越感感じてただろ。
 上層部が気に入らねえ?おい、しっかりしろよ。おまえが軍人なのは何でだよ。おまえがなりたくてなったんだろ。あいつらを選んだのはおまえだよ。あいつらを潰すことだって、その気になればおまえにはできるんだ。しねえのはおまえの意志だ。面倒だからはなからやる気がねえんだよ。
 天蓬、おまえの幸せって何。好きなだけ本読んで?軍事戦略練り回して?全部おまえの思うとおりになってるじゃねえか。
 なあ、人生めちゃくちゃ楽しいと思わねえ?退屈なんかしてる暇ねえだろ?怖いもんなんか何もねえだろ?いざとなったら目を覚ましてやり直せばいい。何度でも。機会があったら教えてやるよ、「起き方」を。

 捲簾。
 貴方…






     …起きたんですか?





「ああ!?聞こえねえよ、なんだこの雑音!何時だと思ってんだ!?」
 怒鳴り声の主は金蝉だ。天蓬はテントの柱に凭れて立ったまま、床に直に置いた通信機のボリュームをブーツの爪先ではね上げた。
「天気が悪いんですよこっちは。いきなり雨は降るわ風は吹くわ雷は鳴るわ暗いわ寒いわ捲簾は行方不明だわ、見事に八方塞がってます」
「あーあー分かった。大変だな。まあ頑張れよ、俺は寝る」
 間髪入れずに相槌を返してきた金蝉に、天蓬は思わず微笑んだ。全部きちんと聞こえたくせに。
 だから貴方が好きですよ。
「元帥、抜刀隊の連中が呼んでます。下に降りますか?」
 ずぶ濡れになった部下がテントの外から声をかけてきた。
「それじゃ金蝉、ひと仕事してきます。貴方の声が聞けて落ち着きました。どうもありがとうございます」
「おまえ、帰…」
 金蝉の言葉が終わる前に通信を切り、天蓬は白い息を吐きながら戸外に出た。雨は幾分小振りだが気温のせいでみぞれ混じり、時刻は俗に言う丑三つ時というやつだ。並んで歩きながら報告を促す。
「森の中の妙な仕掛けを一掃するのは朝まで無理ですね。だいたいの位置は把握して撤去できるものは撤去しました。仕掛けた連中の居所も掴んでますが…」
「後で僕が行きます。監視をつけて。逃がさないでください」
 部下は一瞬はっと顔を上げたが、天蓬の冷静極まる横顔を見ると思い直したように報告を続けた。
「抜刀隊の連中が崖の下に降りてます。高さは12,3メートルってとこですか、微妙な感じですね」
「頭から落ちたら死んでますし足から落ちても死んでますし死んでなくても今にも死にそうでしょうね。足場も視界も悪いし銃器も使えない。二次災害を防ぐために朝まで待ちたいんですが、万が一死因が雨にやられて出血多量だったなんてことになったら査定に響きます。やれることはやりましょう」
「了解しました」
 無意識に軍服の中に手を突っ込んで、限界まできつく縛った左肩の包帯の上から傷を撫でた。感覚はある程度精神でコントロールできる。痛みはない。が、熱い。冷え切った体の中でそこだけ灼けそうに熱い。神経が爆ぜるバチバチ言う音まで聞こえるようだ。
 崖の下は一口で言うと樹海だった。抜刀隊のひとりが懐中電灯の明かりを向け、天蓬だと分かると敬礼してにっこり笑った。
「元帥、業務外手当はまた焼き肉ですかね?」
「スポンサーが生きてたら。死んでたら本人焼いて食うしかないですね」
 部下は、また笑った。
 天蓬も、ひっきりなしに頬を伝う雨を払って微笑いかえした。
 軍大将を失うかもしれないという時に悲しまない者などいない。泣いて捲簾が助かるならそうする。慌てれば慌てるほど早く捲簾が見つかるならそうする。そうでないからそうしないのだ。それだけ。
 足もとの赤い粘土層。庇っても庇っても包帯に染みこむ冷たい水。

 …傷が熱い。

 あの手。あの手が離れた途端、こちらに伝染った熱。
 天蓬は右手を服の中に突っ込んだまま闇の中で目を凝らした。捲簾が何をしても驚いたし、驚くのが楽しかった。思うとおりにならないのが楽しかった。泣いても怒っても何もないよりは楽しかった。今でも捲簾が残ってる。あの人に噛みつかれた熱さが傷になって残ってる。
 もし彼と二度と会えなくても楽しいと思えるだろうか。
 捲簾は一足先に「目を覚ました」だけだと思えるだろうか。
 同じ部屋で捲簾と迎える朝があるかもしれない。何百年も先で目覚める未来があるかもしれない。捲簾は首を締め付ける軍服が嫌いだし、同じ時間に起きて出勤するのが嫌いだ。目を覚ませば、好きな服で好きな時間に寝起きできる世界があるかもしれない。

 そこは、あの人の好きな下界かもしれない。

 天蓬は、自分の思わず突っ走った思考に苦笑した。まだ早い。
「天蓬元帥」
 不意に、部下が横から怪我をしていない方の腕を掴んだ。先ほどとうってかわって射るような、真剣な眼差しと声。
「今、何考えてました?」
「…何故です。後でも追いそうに見えました?」
「ええ。幸せそうでしたよ」
 天蓬は雨で嫌というほど洗われた眼鏡を外して軽く振った。
「冗談じゃないですよ。気に入ってるんです」
「…何をです」
「天蓬の名前と元帥の肩書きを。まだしばらくは使うつもりでいますから、考えてたのは別のことです」
 捲簾に会ったら、どう口説こうかと。
 上司に柔らかく腕を外されて部下はその場に立ちつくし、道標でもあるようにザクザク茂みを剣で払いながら踏み込んでいく背中を眺めた。
 寒気が這い上がるたびに左肩に触れる。指先に感覚が戻ってくる。自分が見つける。絶対に。

 おまえの願いが叶わなかったことが一度でもあるか?

 ありませんね。一度もない。
 幸せですよ、貴方と会えて。
 でも会えただけじゃ何もならないですよ。好きなだけでも仕方ないんですよ。だいたい僕は貴方のことを好きなだけじゃないんですよ。もっと色々あるんです。ここまで来て先に逝かれてたまるもんですか。それじゃ何のために僕の前に現れたんだか分からないじゃないですか。隊の連中を洗脳するだけが貴方の役目じゃないでしょう。僕と金蝉の間に揺るぎない友情を築くために現れた訳じゃないでしょう。望んでさえくれれば、見事な罠をはってくれた方々を皆殺しにしてあげますよ。貴方が舌を巻くくらい見事に。だから。
「何でもいいから出てきてくださいよ!」
 まだ熱い。まだ「こっち」にいるはずだ。
 危うい足場に気を張りつめて歩いていたから、抜刀隊があちこちに飛ばすライトに、雨に流れて消えかけた血痕に反射するのに気がついた。
 しばらく血溜まりを眺めてから、天蓬は無意識に止めていた息を大きく吐き出し視線を上げた。
「長い夢みたいですよ、捲簾」
「………お」
 事もあろうに幹に凭れて小さく欠伸した捲簾は、雨には濡れていなかった。自力で幹の下まで這ってきたのだろうが雨の代わりに他のものでびしょ濡れだ。この期に及んで、見惚れかけた。
「……眠ぃ…」
「落ちたと思いましたが」
「落ちた」
「死んだと思いました」
「死ぬな」
 雨音にも消されそうなその声のあまりの掠れ具合に、天蓬は背後を振り返った。部下達にかけようとした声を、ずぶ濡れた手で塞がれる。むせ返るような血の匂いと初めての味に思わず動きが止まる。ずるっと背に凭れてきた捲簾の異様に熱い息がちょうど左肩に染みこんで、焼き鏝を押しつけられたかと思うほど熱くなる。
「何です、僕ひとりじゃ担げませんよ、クタクタなんですから!ほんとに死にたいんですか!?」
「…ほんとのこと、言ってやろっか」
「…何」
「俺がおまえに冷たくした、ほんとの理由、教えてやろうか?」
「…言いたいならどうぞ、手短に」
 夜が明ける。
「…すっげ、好きだったから、殺したんだよ。昔、人を」  






 
 そうか。

 この男は、自分の目を覚ましにきたんだ。








fin

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