千年の居留守
act11




 いつでしょうね。
 …崖から飛んだ瞬間ですね。悟浄のこと思い出したんですよ。
 それまでは、全然。悟浄でも誰でも同じことです。
 あんまりにも怒ってたから。




 怒ったまま、知らない部屋で目を覚ました。喋るごとに腹の傷がずきずき痛む。紅い髪が目の端でチラチラ揺れるたびに、糸のように散ったあの時の血を思い出してまた腹が立った。
 気まぐれだか何だか知らないが自分を拾った恩人の頭すら怒りで叩き割ってしまいそうで(ちなみにそうしないですんだのは健康上の理由だ)目を逸らせた。自分が生きるために人の頭をかち割ってたら、怒りが収まる頃には世界中に人っ子ひとりいなくなる。
 個人的に知り合う人間としては最後になるであろう悟浄は、食事を二人前作るのと包帯を巻き直してくれる以外に特別なことは何もしなかった。勝手に夕方出ていって、夜中に帰ってきてそのへんで寝て好きな時間に起き、暇になると急に怪我人の存在を思い出したように「ポーカーできる?」と言ってみたりする。非常に気楽な彼の存在は怒りをまったく和らげることもなく、だがとにかく元気になったら一刻も早くここを出て、せめて悟浄が気づかないところで死んでやろうと思う程度には恩を感じだした。
「どう、調子。腹はともかく目は顔だから。大事にしねーと」
 論旨が無茶苦茶だが気遣ってることに変わりはない。
 またフツフツと怒りが湧いた。とめどない。
 あからさまに怪しい男に優しくするという、その事自体が不可解で気持ち悪い。素直に好意だなんて思えない。ありがたくも思わない。これ以上気遣わせないために微笑うしかなかった。
 花喃と住んでた村の連中だって最初は優しかった。余所者の僕らをあっさり受け入れて、余計な詮索もしないまま世話を焼いてくれた。だから許せなかった。百眼魔王の一族よりも許せなかった。既に深く根付いた怒りだけが血を心臓から押し出している。
 もうどう考えても修復不可能だ。死にたいなんて、どう言い訳しようが誉められた感情ではないが、もう時間がない。何をしでかすか分からない。
 怖かった。
 心の底から怖かった。
 早く止めないと悟浄まで憎み始める。
 早く、一刻も早く傷を治して、誰からも何からも離れないと。
 あの崖から自分の背中を押したのは確かに悟浄だったし、飛んだ瞬間心を引き戻したのも悟浄だった。なんでそんな顔を。なんでそんな世界の終わりみたいな顔を。
 悟浄のあの優しさは特別だったのか。
 自分は悟浄にとって特別だったのか。
 だったら、このまま終われない。

「…戻るか?」
 三蔵。
 もう目も耳もないのにどこから聞いたのか。
「戻るか?悟能」

 生きてれば、変わる事もある。
 
 ただでさえ借り物の体は、当たり前だが人間のものじゃなかった。人の体なんか、死体だっておいそれと手には入らない。指1本思うようには動かなくて、ある程度使えるようになるまで随分かかった。悟浄が誉めてくれたシャッフルはもうできない。彼がいいと言った手を自分で壊してしまった。走ろうとしても膝が震える。
 大事なのは心だと思う。今でもそう思う。
 でも、外見が違ったら悟浄は気づかないんじゃないだろうか。いや、本当に悟浄にとって自分が特別なら気づくかもしれない。でも。
 悟浄に会いに行く気になったのは悟空のひと言だった。
「悟能でしょ?」
 悟空は、違う体の自分を見るなり何の躊躇いもなく言った。悟空が気づくんだから悟浄も気づく。絶対気がついてくれる。



  誰、あんた。



 よく倒れなかったもんだ。もうやり直しはきかない。もう悟能には戻れない。
 1から始めて、もう一度好きになってもらうしかない。
 1ヶ月も一緒に暮らした。眺めてるうちに癖も覚えた。高い体温。煙草とコロンの匂い。反応が単純で分かりやすい。次に何を言うかすぐ読める。悟能だった時には鬱陶しいだけだったそれが今は、全部、たまらない。
 こんな修羅場があっただろうか。敵が自分だなんて。自分への嫉妬で気が狂いそうだなんて。
 悟浄は悟能より自分を好きになってくれるだろうか。
 死んだ奴に勝てるだろうか。
 支えは今、自分の中で死んだ花喃より悟浄のほうが大きい事実だけ。
 悟能は貴方のことなんか好きでも何でもなかったんですよ。感謝もしなかった。眼中にもなかった。貴方の気持ちに気づきもしなかった。挙げ句、貴方から逃げた。最低じゃないですか。いっそ死んで正解ですよ。
 なのに何で悟能のことばかり考えるんです。
 あの時自分に向けていた目を、何で宙に向けるんです。
 そんなに好きなら、何で僕が分からないんです。悟空が気づいたのに、何で貴方が。それとも悟能の外見が好きなだけだったんですか。その程度の人だったんですか。そもそも好きってそんなものなんですか。僕が我が儘なんですか。貴方にばかり期待した僕が悪かったんですか。じゃあどうやったら好きになってくれるんですか。悟能みたいにただただ微笑ってればいいんですか。
 もうできない。
 だって貴方が好きなんだから。
 いつ、何度、どんな顔でどんな生き物に生まれても貴方に会いたい。

 八戒。

 呼びかけてくる声がだんだん甘くなる。
 もっと。もっとだ。あと少し。必ず僕は貴方より先に戸をあける。
 僕は貴方を変えられる。




「…相変わらず居心地悪ぃお住まいだこと」
 2階の窓からは慶雲院の中庭が見える。小坊主たちが一心不乱としか言いようのない熱心さで庭を清掃している様は、俺の目には痛々しかった。ガキは泥だらけになって遊ぶもんじゃねえのか。
「こんなとこに悟空置いとくなよ。なんかムショみてぇ」
 俺は三蔵から頂いた封筒を破ると中の札束を数え、また懐にしまった。
「なんだ、文句ねえのか?いつも少ねぇ少ねぇブツクサたれるじゃねえか」
「別に。病み上がりらしくしとこうかと思って」
 まだ少し微熱はあるが、丸2日寝まくって8割方復活した。
「八戒は?」
 俺が聞くと、三蔵は5秒ほどおいて重々しく答えた。
「帰った」
「あ、そう」
「おい、どこ行く」
「家に帰るに決まってんじゃん」
 どうやら三蔵は、調子を戻した俺に罵倒されるか噛みつかれるかする覚悟をしていたらしく、俺がすたすた部屋を出ると、何だか気の抜けた顔をしてついてきた。確かにあの八戒のツラ見りゃヒくだろう。パワーダウンしていたとは言え本気でぶん殴った。
 悟空が気づいたのに俺が気づかなかった?
 それはあいつが中身まで丸ごと変わったからだ。
 俺は気づきすぎた。あいつのことが好きすぎた。

 もの凄い夕焼けだった。
 ひとりで歩くのはひさしぶりだ。
「三蔵よ。八戒のあれ、あの体。おまえが退治した妖怪?目つぶしかなんかしたのか?だから片目っきゃねえの?」
「しばらく死んだままほっといたら腐って落ちただけだ」
 聞かなきゃよかった。
「で?」
「ああ?」
「いつまで保つの」
 三蔵は答えなかった。単に知らないのかもしれない。三蔵にだって知らないことはあるのだ。
 ぶん殴るのはその時が来てからにすることにして、俺は軽く手をあげると家への長い長い路をゆっくり歩いた。
 一度死んだ体だもんな。そりゃいつか心より先に駄目になる。相性とかあるのかもしれない。俺の喉に噛みついてくれたあの坊主、映像と音声がなんかぶれてた。
 何年後か。何ヶ月後か。仮に明日だったとしても構わない。八戒が泣こうが喚こうが断固としてあの世に送る。人間でも妖怪でも犬でも猫でも鳥でも木でも何でもいい、今度は自分の体で会いに来るまで待ってる。
 …まあ、あれだ。案外、俺のが先にくたばるかもしんねえし。
 煙草屋できちんと自分で煙草を買うと、久しぶりのニコチン摂取にふらつきながら坂を上がった。ノブに触れる前に戸が開いた。
「おかえりなさい悟浄」
「なんか子供みたいだぜ、ほっぺた腫れ上がって」
 八戒は複雑な顔で頬を撫で「その前に言うことがあるでしょう」と言った。
 そうそう約束したんだっけ、八戒と。挨拶はきちんとする。
「ただいま!」
 俺は八戒を力いっぱい抱き締めた。
 奥まで、心まで、そのまた奥まで届くように、今はもういない悟能まで、丸ごと全部。
 こいつを全部。

 
fin

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