ゼリーナイフ
両側から子供の腕を引っ張って手を離した方が本当のお母さん
愛する人を痛がらせて泣かせることなんかできないはずだから
「手を離して永久に奪われるよりは腕の一本くらい千切れても手に入れるのが愛じゃないですか?」
「どっちが本当のお母さんかなんて子供に決めさせりゃいいんじゃないの?」
休憩に立ち寄った森の外れで、三蔵一行は立ち往生していた。
八戒が、ふたりいる。
「どうなってんの!?」
「最初は悟空、次は悟浄、今度は八戒の偽物か。よくもまあ次から次へと…」
ジープが、ふたりの八戒の間を右往左往する。
「ジープ、冗談やめてくださいよ。おまえに僕が分からないはずないでしょう」
八戒Aは困惑気だ。
「ちょっと三蔵。悟浄と僕は貴方の中では同レベルだったって訳ですか!?」
これは呆れたような物言いの八戒B。
「うわ、なんかどっちも八戒っぽい…」
軽い口調で言いながら、悟空の声は微かに震えている。判断がつかない自分に怯えているのだ。四六時中行動を共にしている仲間を見分けられない。今、この瞬間にも本物の八戒を傷つけているのに。
「ジープに見分けがつかないものがおまえにつく訳ねえよ。おまえのせいじゃない」
三蔵は悟空を制して一歩前に出た。
「こんなとこで足止めくってる暇はねえ。おい、どっちが偽物だ?」
口調は冷静だが、何も言ってないのと同じだ。当然の如く沈黙する、ふたりの八戒。
「おい悟浄」
三蔵は、さっきから腕組みして黙りこくったままの悟浄を振り向いた。
「見分けろ。てめえなら分かるだろ?」
たっぷり棘を含んだ三蔵の言葉に、ふたりの八戒の肩が同時に揺らいだ。緊迫した空気の中4人の視線を浴びて、悟浄は軽く溜息をつくと、初めてゆっくり目を上げた。
「……悟浄」
微笑もうとして失敗したような、八戒の曖昧な笑顔。一緒に暮らし始めた頃に八戒はよくこんな顔をした。自分の存在意義が把握できなくて、雨の日には一晩中眠らずに頬杖ついて、悟浄の帰りを待っていた。
「………」
何か言いたそうに開きかけた唇を噛んだもうひとりの八戒。瞳が落ち着きなく揺れている。
「三蔵よぉ」
悟浄は俯いて、地面に靴の踵を打ちつけた。
底についた草を払ってる…。気づいた悟空は目を丸くした。悟浄はまったくいつもどおりだ。いつもの動作。いつもの口調。動揺で心臓がばくばくいっている自分と比べて、この状況下でこの落ち着きようは何だろう。もし自分が三蔵に見分けてもらえなかったら、その時自分はどうなるだろう。
「偽者はどーすんの?殺せばいいの?」
「敵だ」
ジャリ。
悟浄の足下で小石が弾ける。
錫丈を使う瞬間にはいつも微かな風に似た音がする。生臭い血を浴びる前にはいつも、空気が流れる済んだ音を聞く。代償に手を汚していると言われても納得できるくらい、悟浄はこの音が好きだった。
下がれ、と三蔵が悟空に目で合図を寄越す。悟空が凍り付いていると、強い力で腕を掴まれ背後に押しやられた。
その脇をくわえ煙草で通り抜け、ふたりの八戒の前に悟浄が立った。
八戒は見えない壁に押されたように、一歩後ずさった。もう一人は悟浄をまっすぐ見つめたまま身動きもしない。
なんだこれ。見たくない。どちらが偽物だろうと見たくない。こんな悪趣味な茶番とっとと終わらせてほしい。
悟浄はあっさりと錫丈を振り上げた。
「悟浄…なん……」
切り裂かれた喉から液体と気体が同時に噴き出す奇妙な音が、「八戒」の最期の声を握りつぶした。
悟浄。
何で…
堅く閉じていた瞼と耳を塞いだ手からそっと力を抜くと、悟空の目に飛び込んだのは地面に転がった血まみれの八戒だった。また瞑ろうとした途端、その体は不意に輪郭を失ったように溶けて風になぶられ、ふたつともかき消えた。
「どっちも偽だ」
返り血を掌で払い落としながら悟浄がつぶやいた。
「び…びっくりしたぁ……」
悟空はへたっとその場に座り込んだ。
「とすると本物は迷子って訳か?もしくはさっきの奴らに結界でもはられたか…」
ガッ!!
三蔵の言葉が終わらないうちに、錫丈の刃が大木の幹に食い込んだ。
「悟浄?」
「…ジープがこの辺しつこく旋回してっから」
刃の先からぼろぼろと、光の破片が崩れ落ちてきた。鏡の残骸。結界の媒体だ。
さっきまで確かに目の前に広がっていた生い茂る木立が、舞台の幕を引いたようにさっと消えた。悟浄の頭上を飛び回っていたジープが猛スピードで幕間に突っ込んでいく。
「…あ、解けましたね…」
ジープに袖を引っ張られて現れたのは、紛れもないジープの飼い主。
「よかったあ。突然透明な壁みたいのに囲まれちゃって出られないし、このまま飢え死にするかと思いましたよ。どうもご心配おかけしました」
八戒は笑顔で3人を見渡した。
…透明な?
「悟空、顔真っ白ですけど大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫じゃねえよ!!腹も減ったし!!」
「あはは、ごめんなさい。それじゃ急ぎますか」
ひとりでさっさと日常に戻る八戒に、三蔵は勢いよく煙を吐いた。
「…人騒がせな奴だな」
「わざとじゃないんですから苦虫噛みつぶしたような顔しないでくださいよ。ジープ、ほら、甘えてないで。行きますよ」
何事もなかったようにテキパキと指示を出す八戒。何事もなかったように後部座席に身を沈める悟浄。
ふたりが目を合わせることは夜になるまで一度もなかったが。
サイドボードに無視できないほどの芳香が漂うコーヒーカップを置いて、八戒は悟浄を見下ろした。
「どうぞ」
「…さんきゅ」
言いながら悟浄の視線は天井に向けられたまま、ベッドから起きあがる気配もない。
夜長をもて余し始める午前0時にコーヒー。まだ寝るなと言外に悟浄に伝えたつもりだ。この街は夜が早い。光も音も途絶えて、開け放した窓から入ってくるのは湿った風だけ。今晩悟浄を部屋からおびき出すものは何もない。
「怖いんですか」
八戒がベッドの隅に腰を降ろした。ふたりぶんの体重を受けてベッドが軋む音がやけに大きく響く。
「何が?」
「昼間のことが」
「何で?」
八戒は両の手を膝の上で組み、柔らかく微笑んだ。
「僕に昼間のことを追及されるのが怖いんですか」
ようやく悟浄は両肘をついて上半身を起こした。八戒は怯みもせず悟浄の目を見つめ返す。
「どうしてふたりとも偽物だって分かったんですか?って聞かれるのが嫌なんでしょう」
「…いいぜ、聞いても」
「嘘ですね」
時々、悟浄には八戒の意図が読めなくなる。挑発してまで自分を傷つけるような言葉を引き出したがる八戒の意図が。
「おまえ結構不幸好きだよな」
「心外ですね。最悪の事態に心を備えてるだけですよ」
不意に八戒は微笑を消した。中途半端な姿勢の悟浄の両肩が、優しく決然とした力でシーツに押し戻される。
悟浄は人に見下ろされるのは大嫌いだった。八戒に会うまでは。
「どうしてふたりとも偽物だって分かったんですか?」
睫が触れ合うほど、顔が近づく。
「…答えられないんなら質問変えましょうか。あの偽物、凄くよく化けてたと思いません?」
ああ腹立たしいほど似ていたな。自分の宝だった表情や仕草を真似て、挙げ句の果てに断末魔の声まで鼓膜に焼き付けていった。
「別に?だっておまえ、もっと腰細いし美人だし」
「悟浄」
唇が、悟浄のふざけた口調を咎めるように耳元に墜ちてきた。痛いほどそこを吸い上げられる。腕力では悟浄のほうが明らかに上で、その事実がいつも悟浄を悩ませる。力で敵わければ、はね除けない言い訳ができるのに。
好きなのにな。ちゃんと見てたのに、何故俺には見分けがつかなかったんだろう。
本物なら俺の真正面からの攻撃は絶対に避けられるし、偽物が本物と同時に現れたところで何の得もないとは思ったが、死体が足下にふたつ転がる瞬間まで、悟浄には確信がもてなかった。
「…分かった。降参。これ以上嘘つきたくねえから聞くな」
「はい」
微かに笑って八戒は悟浄の体を引き寄せる。
「二度と聞きません」
悟浄。
こんなことで気持ちが試されたなんて思ってるなら救いがたいほどの子供だし、僕が傷つくなんて考えてるなら甘すぎる。
いざとなったら貴方の腕でも足でも引き千切るつもりの僕には、貴方はまだいい人すぎる。
空気を切り裂く風の音に悟浄が気を奪われないよう、八戒はそっと窓を閉めた。
fin
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