今生では、もうお会いしません。


 トン。
 桜の幹に手をついて、俺はゆっくり息を吐いた。
 何本目か数えるのは、とうに止めた。
 永遠に続く桜、桜、桜。頭の中にあるのは次の桜の樹に辿り着くことだけ。
「…つめて…」
 腹のあたりが、氷を長い間押しつけられたように痺れて感覚がない。次の桜まで5メートル。気を抜くと浅く早くなる息を抑えて、ようやく一歩踏み出した。あの桜まで。せめて次の桜まで。足下だけを睨みながらじりじり前へ進み続け、気の遠くなるような時間をかけて、ようやく次の幹に手をついた。

「死に場所をお探しですか」

不意の声に驚かない自分が、意外だった。聞き飽きすぎた声だからか。
「…おまえか」
 ごつごつした樹肌に額を押しつけ、また息を吐き出した。視線がうまく上げられないが、多分声の主は幹の反対側に凭れている。いつものように腕を組んで、髪を風に好きなように嬲らせてやっている。
「露払いが必要ならご命令を」
 いつもとまったく変わらない淡々とした口調の天蓬。いつもと変わらない桜。自分だけがいつもと違うのが合点がいかなかった。嘘みたいっていうのは、こういう時に使うんだろう。
「…露払い?」
「介錯です」
「…いらね。もうあんまり…痛くねえから」
 言った途端、膝が崩れた。喋る事と体を支える事。ふたつを同時にこなすのは困難だと悟って、俺は後者をあっさり諦め背中を木に預けた。
「どこに行くつもりだったんです」
「考えてなかった」
「考えずに500メートルもその体引きずってきたんですか」
 500メートル。
 何時間前から、俺はこんなことしてたんだっけ?
「…おまえに会いたいと思ってた」
「僕の部屋は方向が全然別ですよ」
「合ってる」
 天蓬が、微かに笑った。…ような気がした。
「ああ…いい風ですね」
 よくもまあ飽きもせずに、毎日毎日同じ事を。
 かたまりそうになる右手を叱咤激励しながら胸ポケットに突っ込んで、煙草を抜き出した。
 フィルターが真っ赤に染まっているのに気がついたが、しばらく考えたすえに無造作に銜えた。苦いような甘いような自分の体液をフィルターごと噛み千切る。
「捲簾。人の死に様見たくないんで、死んでからそっちに行きますから」
「……生きてるうちに煙草に火…つけて欲しーんだけど」
 聞こえよがしに溜息をついて、天蓬が花びらをサクサク踏んで目の前に回りこんできた。
「はい。…ちゃんと吸わないと。火、つきませんよ」
「…ん…」
 頷いたものの、息の吸い方を急に忘れた。喉に穴があいて、いくら吸っても空気が漏れていく。
 天蓬は舌打ちしていきなり唇から煙草を引き抜いた。自分で銜えて一息吸い込み、しっかりと火を灯してから口元に差し出してくれる。
「どうぞ」
「…間接キス」
「口の減らない男ですね。貴方の体は僕がいただいて悪戯なり解剖なり好きにさせてもらうんですから、逝くなら逝くで潔くさっさと逝っちゃってくださいよ」
「ひっでぇな」
「手持ち無沙汰なんですよ。駅に見送りにいって、なかなか電車が出ない。…それとも遺言でも聞きましょうか?」
「…ねーよ」
 なんだかめちゃくちゃ気持ちいい。このまま眠りたい。
 そりゃ桜に風に天蓬だ。気持ちいいに決まってる。

 ナタクに袈裟懸けに切られた時、動かなかったのは気合いに押された訳じゃない。剣でも射撃でも闘神に匹敵する腕だ。本気でやり合えば一太刀、深手は必ず負わせた。
 でもよ。あいつガキだもん。悟空と同年代の子供だぜ。
 女子供に怪我させたら、自分が気持ち悪くて生きていけない。
 つきつめれば俺の抹殺が天帝の命だというのは誰もが知っていたから、俺が盛大に血まみれになって部屋からここまで来るのを、あえて止める奴も、駆け寄る奴も、追い討ちを掛ける奴もいなかった。そりゃ明らかに腹の真ん中やられてんだから遅かれ早かれ死ぬに決まってる。
 何人か泣いてた奴も、いた気がするけど。いけすかない上官が複雑な顔で見てた気もするけど。
 俺は見たいのはもっと綺麗なものだ。

 天蓬が好きだった。
 尊敬の念も、恋愛感情も、友情すらあったかどうか怪しいが、とても好きだった。
 ただただ好きなだけでよかった。
 そばにいなくてもいいし、話さなくてもいい。
 どこにいても何をしても俺は必ず天蓬の味方になる。

 こいつを、この変わり者を、この世の何もかもから永遠に放っておいてやってくれ。
 守る必要はない。俺みたいに荒療治が必要なガキでもない。
 ただ邪魔をしないでやってくれ。

「今生では、もうお会いしません」

 俺が覚えている最後の天蓬の言葉は、とても不思議だった。
 うっかり「次」を信じてしまいそうな、甘ったるくて不思議な嘘だった。






fin

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