空気
ひとりぶん






 紅い髪の男には初めて会った。目も紅い。
 …人間だと思う。妖力制御装置らしきものが見あたらないから。ただ、純粋な人間にしては…なんというか。
 かといって本人に聞ける訳がない。
 人間だった場合「あなたは人間ですか」なんて聞いたらオオゴトになる。
 勿論、体中ザクザク切り刻まれた僕を担いで帰って治療してくれた恩人だから、何か聞かれたら正直に自分のことを話す気だった。名前も、僕が何をしてきたのかも、彼女のことも、全部。
 だが彼が聞かない以上、僕から切り出すのもおかしなものだ。見ず知らずの人間の救いようのない身の上話なんか聞かされたら迷惑だ。
 …ああ、「迷惑」は禁句なんだった。
 彼のベッドの上で目が覚めて、状況を把握した僕が迷惑をかけたことを詫びると、事もあろうに彼は初対面の僕の、しかも重傷で絶対安静の僕の頬をパチンと殴った。痛くない程度に。
「てめえが俺に助けてくれなんて頼んだのか?あ?死にたがってたおめえを勝手にお持ち帰りして内蔵いじくり回して煙草我慢してんのは俺の勝手だ。むしろ俺があやまれ」
 じゃあ殴るなよと喉まで出かかったが、荒い口調が心にしみとおるようで、嬉しくて。
「迷惑とか悪いとか、俺んちにいる間は言うのも思うのも禁止だ。同居人に気ぃ使われるほどうざってえことねえからよ」
「…じゃあ傷が治って、おいとましてからにします」
「あーそうしろ。この世のすべての女に俺が如何にイイ人だったか吹聴してまわれ」
 はっとした。髪と目の色に気をとられていたが、ちょっとないくらいいい男だ。いかにも女性にもてそうな。
「名前聞いてもいいですか」
「悟浄。沙悟浄」
「…ごじょう…」
 恩人の名前を、口の中で転がしてみた。僕と似ている。名前だけは。
「何故、助けてくださったんですか?」
「邪魔だったから。メシ食えるか?」
「…はい?」
「メシ。食った方がいいぞ、多分。ここまできて死なれたら気分が悪い」


 1週間ほど経つと、なんとなく悟浄のひととなりが見えてきた。
 表面上はぶっきらぼうで淡泊で、言動が荒い。
 信じられないほど優しくて情が厚いのに、そう見られるのが嫌なんだろう。
 ああ、この人は何も聞かないつもりなんだ。
 その方がいい。僕のことなど知らない方がいいに決まってる。早く傷を治して、早く彼の記憶から消えるべきなのだ。悟浄のために。
 彼はどうやら賭け事で生計を立てているらしく、活動時間は主に深夜だ。僕を拾ってからは相当な努力をして帰宅時間を早めてくれている。迷惑のかけどおしだ。
「なーんか、おめーのおかげで超健康的な生活サイクル…」
 朝のコーヒーを煎れながら、あくび混じりに呟かれた。
「すいませ……あ」
「何か言いましたか?」
「いえ」
「よしよし」
 にやりと笑いかけられて一瞬幸せにな気分になった僕を、彼の髪と目の深紅が引き戻してくれる。
 安らげる権利なんか僕にはないのに。


 その夜は、珍しく悟浄の帰宅が0時をまわった。
 ちらちら玄関を気にし始めた午前1時、外で微かな物音がするのに気づいた僕は、ついうっかり勢いよく扉を開けてしまった。
「悟浄?帰ったん…」
 悟浄の首に手を回し、身体をぴったり押しつけていた女性が、ぱっと飛び退いた。なんて野暮な真似を、僕としたことが。
「やだ、一緒に住んでる人ってホントに男の人だったの!?」
「だーからそうだっつったでしょー?安心したら今日は大人しくお帰んなさい」
 悟浄は腰がくだけそうに甘い声で囁くと、彼女を街の灯りの方へ押し出した。
「変な男にひっかかんないようにな」
「そんなの貴方だけで充分よ!」
 彼女は僕にまでウインクをしてくれて、小走りに去って行った。…気まずい。
「あの…悟浄」
「ちょうどいいトコで顔出してくれたわ。あのままだと俺あそこで犯されてた」
 悟浄にうながされて家に入るが、さっき見た光景がなかなか瞼から消えていかない。
「…悟浄、すみませ」
 頭にコツンと、全然痛くない拳固が降ってきた。
「…綺麗な人ですね」
「おめえの方がよっぽど綺麗だ」
「恋人なんじゃないんですか?」
「いんや。軽蔑した?」
「軽蔑はしませんけど、遊びであんなふうに扱われたら女性は誤解しませんか?」
「あんなふうって?」
「あんな愛しそうに触られたら。僕だったら好きになっちゃいますよ、きっと」
 悟浄は少し驚いたようだった。
「…あんたに好かれたら女は幸せだろーな」
 悟浄は知らないのだ。これまでもこの先も、僕のことを何も知らないまま生きていく。それでいいはずなのに、僕は僕のことを悟浄に知って欲しがっている。そして彼のことを知りたがっている。毎日毎日新しい顔を見せてくれる、泣きたくなるほど優しい彼のことを。
 もう傷もほとんど塞がった。
 早く出ていかなければ、取り返しがつかなくなる。きっと死にたくなくなってしまう。
「綺麗な目」
 いきなり、悟浄が僕の顔を覗き込んだ。
「凄い緑だな」
 睫が触れるかと思うほど近い。…息が苦しい。好きになるなと思えば思うほど彼が食い込んでくる。
「…酔ってるんですか?」
「酔ってることにしてもいいけど」
「貴方の目の方が綺麗ですよ」
「それ禁句」
 禁忌の子供だ。
 何故今まで気がつかなかったんだろう。悟浄は妖怪と人間の間の子供だ。
 「悟浄…お話しておきたいことがあるんです」
 ここを出たら二度と逢うこともないだろう彼に、せめて妖怪の僕と人間だった僕の懺悔を残していこう。きっと彼は黙って聞いてくれるだろう。「そっか」なんて素っ気なく言って、黙って送り出してくれるだろう。
 ここには僕の居場所はない。
 その証拠に、息が苦しい。



fin

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