名
前
が
な
い
最初にそれが起こったのはいつだったか。
きちんと兆候があったのかどうか分からない。
俺は自分に向けられる好意にはとことん敏感なのだが、八戒は笑いたい時も、笑おうとして失敗した時も、はたまた怒っている時も、一見同じような微笑を浮かべるのではっきりしない。
でも、確かにそれはやってきた。
静かに、少しずつ。
「…完敗」
「おやまあ」
朝の食卓で、八戒はのんびりと、なみなみ注いだコーヒーを手渡してくれた。
同居を始めてそろそろ半年。性格も生活サイクルも正反対のわりに、たいした喧嘩もなくうまくいっている。時々ぶちぎれるが基本的には優しいし、男気があっていい奴だ。好きだった。多分。
「ここ最近不調ですねえ」
「ひとり厄介なのがいてよ」
俺は正式ではないにしろ、賭場の専属ディーラーみたいなもんだ。必ず席をとってもらい酒を奢ってもらう代わりに、状況に合わせて勝ちすぎないよう負けすぎないよう客を長居させる。ところがここ何日か続けて相手した男がやたらと強い。明らかにイカサマをやらかしているのだが、イカサマというものはその瞬間に見破らなければイカサマじゃない。
「あーいーつーさーえー狩り場変えてくれたらな〜…ここらじゃ見ない顔だからあちこち流して荒稼ぎしてんだと思うんだけど、居座られたら困るな」
「おや消極的。ギャンブラーのプライドはどこへ消えたんです」
「なんとでも。俺にはプライドより守るべき家族がいるの」
八戒は不意にとろっと笑った。
「…何。嬉しい?」
「ええ。うまくいくといいですね」
うまくいった。翌日、男は消えた。
マスターが俺にウインクを寄越し、俺も返した。
次にあれだ。
「あーもーうるせー!!」
朝っぱらから家も揺れそうな轟音で叩き起こされた。
「何なんだありゃ!」
「裏手で工事。家建てるみたいですよ。ちなみに今は前のを壊してる最中」
「じゃあ何、あの音しばらく続くの」
「昼間だけでしょう」
「俺は昼間寝るんだけど!?」
「僕に言われても」
窓を開けると騒音が、風にのって雪崩れ込んできた。音の大小は問題じゃない、問題は種類だ。人のざわめきは平気でもヒソヒソ声だと耳につくのと同じ事で、家が壊される音というのは非日常だから余計に勘にさわる。
「はっか〜い…」
「壊すだけならすぐですよ」
ところが壊した後に建てる音がまた凄まじかった。どうやら向こう2ヶ月はそれが続くと聞いて、俺はこうなったら工事が終わるまで女んちに泊まり込むと喚く羽目になった。こちとら生活がかかっているのだ、夜働かない訳にいかない。
八戒は俺の目の下にうっすら浮かんだ隈を、冷たい指でそっと撫でた。
「まあ、なんとかなりますよ」
「ならねえよ」
なった。
翌日、音はぴたりとやんだ。
建設途中の家はそのまま放置された。
「…おいおいおい。どうなったんだ裏の家」
突如として降ってきた静寂が恐ろしい。
「どうしたんでしょうね」
八戒は俺に背を向けたまま、トントンとキャベツを刻んでいる。
「どうしたんでしょうねって。まだ建ってねえじゃん」
「工事の途中でトラブルがあったって、近所の奥さん方が話してましたけど」
「…へー」
「嬉しいですか?」
八戒は振り向かない。リズミカルな包丁の音が、淡々と喋る八戒の声とだぶる。
「これでゆっくり眠れますね。貴方、寝不足するとすぐ顔に出るから」
…俺、何を考えた。
商店街の入り口に、古い石碑がある。俺の腰よりちょっと低い程度だが、何故だか道路の真ん中だ。おかげで町中に車が入れず、年中歩行者天国になっている。
「あの石碑ってなんなんですか?」
八戒も同居してすぐ、俺に尋ねた。
俺らはともかく他の連中は、町の入り口で肩に止まらせて、町を抜けたらまた車になるような便利な乗り物など持ち合わせていないので、全員町の外に車や台車を止めている。
「場所移しちゃえばいいのに」
「仏が彫ってあるから動かし辛いんだろ。ほら、八百屋のじーさんがガキの頃からあそこにあったっつーし、ご利益があるのかも」
ふうん。八戒は口の中で呟いた。
「でも危ないですよね」
危なかった。いつかそうなると思っていたが、よその町からやってきて商店街を通り抜けようとしたバイク軍団の最初の一台が、石碑を避け損ねてタイヤを捕られた。ビリヤードの如く次から次へと後続が跳ね飛ばされて舞い上がる様は壮観で、誰も命を落とさなかったのは不幸中の幸いだが、それがちょうど賭場を出てきた俺の目の前で起こったことは実に不幸だ。乗り手を振り落としたバイクが俺に向かって飛んできて、思わず命の次に大事な顔をかばったはいいが、かばった腕がぽっきりいった。
「この間抜け」
「しょーがねーだろ酔ってたし暗かったし!誰が空からバイクが落ちてくるなんて思うよ!」
ソファーに腰掛けた俺の前に跪いて綺麗に包帯を巻いてくれながら、八戒は深々と溜息をついた。
「…こんなに複雑に骨割るぐらいなら、ちぎれてくれたほうがマシでしたよ」
「何じゃそりゃ」
「治しようがない」
八戒は不意に視線を上げた。
「…ひとつぐらい、僕の言うこと聞いてくれてもいいでしょう」
翌日、石碑が消えた。
砂のように粉々になって。
石碑のあった場所に蹲って、八百屋のじーさんが手を合わせていた。
…なんだろ、これ。なんか…おかしい。
早々に仕事を切り上げて家に戻ると、八戒が食卓につっぷして寝ていた。
こうして待ってくれている夜が、時々ある。寝てると余計に綺麗な顔で、揺り起こそうとしたが思い直し、着てたネルシャツをかけてやって台所で水を汲んだ。
八戒はなんでここにいるんだろう。
いや、そうじゃなくて。考えなきゃいけないのはそんなことじゃなくて。
「…あ、お帰りなさい」
シャツの下から八戒の、寝起きで回らない声がした。
「わり。起こしたか」
「んー…なんか…悟浄の匂いするなと思って」
八戒はもぞもぞ言いながら、俺のシャツを前で掻き合わせた。
「おまえ、俺のこと好きなの?」
いきなり口からとんでもないセリフが飛び出た。
言った俺は驚いたが、八戒は眠気のせいか、そもそも動揺するにも値しない質問なのか、また目を瞑り、俺のシャツに腕を通して顔を埋めた。
「好きですよ。凄く。…知ってたんでしょ?」
知って…。
知ってた、か?
口の中がからからで声が出ない。
なんで。普通、告白されて、そんでそいつのことが嫌いじゃなかったら、ちょっとは嬉しかったりするんじゃないのか。
「…ああ、悟浄。首、凄いキスマーク」
「え?あ、うん、ちょっと、しつこい女がいて」
別に言い訳する必要もないのだが、俺はしどろもどろになった。
「別にそういうんじゃなくて、俺はやめろっつったんだけど向こうが勝手」
「やなんですか?」
八戒の声は、微笑っていた。
「その女、邪魔ですか」
邪魔…って言ったら、消えるだろうか。
本当はここ数日悩みの種だった。毎晩俺の指定席で待っていて、しつこくまとわりついてくる。
相談すれば済む。こいつに言えば、全部、済む。
「…邪魔」
「そうですか」
八戒はゆっくり立ち上がった。
「部屋で寝ますね。おやすみなさい。これ、借りてていいですか」
俺が返事も忘れて流しの前に突っ立っていると、八戒はちょっと首を傾げて、俺のシャツを着たままふらっと居間を出ていった。
知ってたよ。
いくら微笑でかわしても、深い深い藻の入り組んだ沼のような瞳から、こぼれ落ちる八戒の中身。
怖かった。俺は八戒が怖かった。でもそんな八戒が、あいつ特有の一途さで、それこそ病的な一途さで、何でもするのが心地よかった。認める。最高に気持ちよかった。
寝る前にそっと部屋を覗くと、八戒は俺のシャツを枕カバーのように頬に押し当てて、穏やかな寝息をたてていた。
翌日、女は消えた。
「おかえりなさい。お茶?お水?もう一杯呑みます?」
「…お茶」
八戒が俺の帰りを待ってる日。
いつも何かが消えた日。
「…昨日言った女さぁ、いなくなっちゃった」
「へえ。よかったじゃないですか」
八戒は振り返らない。
「嬉しいですか?」
止めないと。
止めないとこいつは、いつまでもやめない。きっと人でも、世界でも、俺のために壊す。
「嬉しいよ」
地獄に堕ちるのは、俺だ。
fin
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