「おらよ」
悟浄が投げ出した背丈15センチほどの仏像を三蔵は一瞥し、つまらなそうに鼻から煙を吐いた。
「…ご苦労さん」
「金!」
 旅が終わってからも、三蔵はしつこくしつこく悟浄を呼び出してはなんのかんのとバイトを言いつける。こちとら本職は夜中だから構わないっちゃ構わないが、第一に慶雲院はうちから遠く、第二に労働に見合った代価が支払われるとは言い難く、第三にバイトしなきゃ食っていけないほど家計が逼迫してる訳でもない。それでも断れない。断れる訳がない。第一に暇だ。第二に好き嫌いは別にして今更縁を切るには惜しいほど、こいつらと長く付き合いすぎた。第三に…
「何、悟浄、また来てんの〜?」
「来てさしあげてやってんだバカ猿。もう終わった。帰る」
 三蔵の手から「給与」とスタンプの押された封筒をひったくって、悟浄は2階の窓をバンと開けた。坊主たちの冷たい視線を浴びながら回廊をグルグル5分も歩くのは面倒極まる。ここから飛び降りりゃすぐ裏口だ。
「悟浄、明日来れば?お祭りがあるから」
「祭りぃ?」
 もう半身を宙に浮かせていた悟浄は、危うく窓枠に捕まり踏みとどまった。
「何の」
「夏祭りに決まってんじゃん、夏だもん」
「気が向いたらな」

 断れる…わきゃねーよな。

 夕方になっても一向に下がらない気温と耳鳴りのような虫の音。ダラダラ流れる汗もそのままに家に辿り着くと、ノブに触れる前に戸が開いた。悟浄が玄関から居間を横切って洗面所へ移動する間、行く先々で勝手に明かりがついては消える。脱衣所で汗でベッタリ貼り付いたシャツを引き剥がすと、途端に風呂場の電気がついた。
「…八戒」
「はい?」
「風呂とトイレには入ってくるなっつーに」
「…トイレになんか入りませんよ。変態じゃあるまいし」
「風呂も!」
「何です今更」
 悟浄は一応溜息をついておいて、シャワーの栓を捻った。今日の暑さはまた格別だ。冬場は延々待たされる給湯が、今日は捻った瞬間なまぬるい湯が出てきた。
「あーあ、勿体ない」
「何が」
「貴方の汗の匂い、好きなのに」
 変態。つぶやくと同時に頭のてっぺんにべちょっと冷たいものが降ってきた。
「ひっ!」
「…シャンプーですけど」
「余計なことせんでいいから出てけ!」
 不満そうにではあるが、八戒は、いや正確には八戒の気配は案外素直に消えた。
 三蔵と悟空に会わせてやれたらいいのに。
 明らかに多すぎるシャンプーが湯に溶けきれず、髪を伝って肩にまで流れてきた。
 
「はいビール」
 ブシュ。
「枝豆出します?」
「…いいから座れ」
 八戒は、悟浄の向かいにストンと「座った」。
「あのね、八戒」
「はい」
「成仏しろ」
「どうやって」
「俺が知るか!」
 八戒は最初、自分が死んだことに気が付いていなかった。今でも半信半疑だ。それを納得させるのに、三蔵と悟空にはおまえが見えないし話もできないことを直接引き合わせて分からせるしかなかった。それはとても残酷なことだったが仕方がない。八戒にとっては見たい物は全部見えるし、生きてる時と世界は何も変わっていないのだ。三蔵は坊主のくせに来世も信じないような堅物だから、物の例えで「幽霊を成仏させるにはどうすればよいのか」と真剣に尋ねた悟浄の頭の方を疑った。
  八戒を死なせたことは三人三様に辛く哀しい出来事に違いないのに、二人は同居人である悟浄に格別に気を使ってくれている。それは勿論非常に有り難いのだが、悟浄とて好意に甘えてセンチメンタルに浸りたい気もするのだが、これじゃ浸りようがない。
 もしかしたら自分の妄想かもしれない、この八戒は。
 しかし現実にビールのプルトップは、悟浄の見てる前で勝手に吹っ飛んでしまった。
「何かやり残したことがあるんだろ、おまえには」
  実は悟浄は昔、八戒に告られて断っている。だからそれをしつこく根にもっていて、どうにかしたいというのが心残りなんだったら抱くなり抱かれるなりしてやろうかと言ったら「思い出させないでください僕の人生の恥部を」という凄まじいセリフとともに煙草に近づけていたライターから火柱が上がった。そうだったら話は簡単だったのに(幽霊とヤれるとしてだが)。 
「…別に?」
「別に?じゃねえ、あるの。思い出せ。そんでさっさと消えろ。お盆も近いことだし」
 八戒は軽く首を傾げた。
 悟浄には軽く揺らいでいるような、彩度が薄いような、輪郭が惚けてるような不確かな影に見えるが、それでも見ようと思えば見える。
「心当たりないですけど。それより消えろって何です、傷つきましたよ。いいじゃないですかこのままでも」
「いいわけねぇだろ」
 幽霊でもいいからここにいろなんて言えるほど悟浄は血迷っちゃいない。現実にしろ妄想にしろ明らかにあってはならないことだ。
「成仏してさっさと生まれ変わってこい。俺はおまえが20歳以上年下だって一向構わねぇ、どうせならいいとこのお嬢になれ。多少性格と顔がアレでも持参金込みなら嫁にもらってやる」
「余計なお世話です」
 参ったな。
 とっとと何とかしてやらないと、こっちが先にくたばったら八戒は永久にひとりでここから動けない。


 祭りは盛況だった。来いよと言ったくせに悟空は境内に座り込んで買い込んだイカ焼きチョコバナナ焼きとうもろこし焼きそばフランクフルトその他を次々口に放り込み続け、三蔵はその横で疲れたとか人が多いとかぶちぶち言いながら煙草をふかすだけで情緒のへったくれもない。
「境内禁煙じゃないんですか?」
 八戒は欄干に凭れてうちわでふたりを仰いでやっているが、勿論ふたりはそんな好意になど気付かない。
 4人でいたのに。
 …今も4人でいるのに。
「…散歩してくる」
 悟浄がふらっとそこを離れると、八戒は後からついてきた。人でごったがえす石畳を避けて裏に回ると、おそらくショバ代が安いのだろう、ひと気のない屋台がひっそり並んでいる。最近は人気がないのか、飴細工、綿飴、くじ引き…射的。
「祭囃子って情緒ありますよね〜」
「…祭りに幽霊って情緒ありますね」
 悟浄は射的の銃を手にとると、屋台番のオヤジに小銭を放った。
「幽霊幽霊言わないでくださいよ」
「幽霊だから幽霊っつってんだ、おまえはもっと自覚を」
 パン!
 20点の的が跳ね上がって倒れ、続いて30点と10点に命中した。
「へえ〜うまいもんですねぇ」
「おっちゃん、30点の景品って何、それ腕時計?」
 ふたりの後ろを、真新しい浴衣を来た子供の集団がきゃあきゃあ騒ぎながら駆け抜けた。
 悟浄は急に振り返った。
「なんです、いきなり」
「いや、なんか…今」
 思い出しかけた。
「悟浄、顔色真っ青ですよ」
 八戒に腕を掴まれて、やっとふらついたことに気が付いた。
「…わり、平気」
「平気って感じじゃないです。休んだ方が」
 八戒に掴まれたのは左腕だった。
 その上から、屋台の奥から伸びてきたもうひとつの手が、まったく違う意図をもって重なった。
「…兄ちゃん」
 腕に食い込む指の強さに耐えて、悟浄はゆっくり振り向いた。
「でっかくなったな」
 銃が、音を立ててベニヤ板の上に落ちた。



 10年前も、こうして夏祭りに来てた。母親が連れてきてくれる訳はないから、多分兄とふたり。食べ物より射的がしたくて随分屋台を眺めていたから、店番の男の顔も覚えてた。その後今夜のような人混みで兄とはぐれ、境内の裏に回ってみて、悟浄は初めてそれを見た。
 女のほうは知らない顔だが男は射的屋だった。いくら悟浄でも当時は10歳やそこらの子供だったから、男と女が暗闇で縺れ合って何をしているのか、はっきりと理解できた訳じゃなかった。
 後に兄と母親が同じ事をしているのを知った。
 兄はいつか母親を殺すんじゃないだろうか。
 だって。
 神社の森の中で、あの女は二度と起きあがらなかった。地面に半裸で放り出され、見開いたままの瞳を力無く宙に向けていた。
 あれをしたら、女は死ぬ。
 逃げなきゃ。頭の中では分かっていても、悟浄は茂みの中でただ目を見開いて震えているだけだった。
 そうして、見つかった。
「おい、ガキ」
 小枝を踏んで、男が茂みを掻き分けた。
「…見ちゃったか?」
 男の声は妙に優しく粘ついて、悟浄は首を縦にも横にも振れなかった。
「変な目の色してんな。白子か?見えてんのか、ちゃんと」
 恐怖で人形のように強張った悟浄の両肩を掴むと、男は耳元で囁いた。
「このままおうちに帰って寝て、おじさんのことは全部忘れちゃいな?誰かに話したら、お父さんやお母さんに二度と会えなくなっちゃうよ?」
 勿論、悟浄は言われたとおりに家に帰って、誰にもひとことも言わなかった。母親と兄が鳴らす声を聞くたびに恐怖で吐き気がした。日が経つにつれて、あれは暑さの中で見た幻じゃないか、祭り独特の空気とただでさえ不安定な年頃が見せた夢じゃないかと本気で信じた。
 誰にも話さなかったけど父親にも母親にも会えなくなったし、何度抱いても女は死なない。そんなに弱い生き物じゃない。

「目と髪がソレだから、頭が足んないガキかと思ったのに」
 祭囃子が不意に遠のいた。あの夏、湿った土が掌にかいた冷や汗を吸い取っていった、あの夏。
 男は40代前半だ。悟浄より背が高く体格はいいが、今の悟浄の敵じゃないはず。なのに、握られたところから血の気がひく。体が震え出す。あの時みたいに。子供の時みたいに。
 ああ、幻なんかじゃない。忘れる訳がない。
 逃げられない。
「あんたの事、毎晩夢に見ちゃってさ。…寝られないんだよね、あんたがいると」
 屋台の奥に引っ張り込まれた。裏は、雑木林。喧噪が遥か遠い。
「悪いね」
 …夢でも見てるのかな。
 腹の奥に、冷たいものがすっと入ってきた。
 …夢だろ、おい。

 どこから?
 八戒は?


 
 …畜生。根性だけはあんだよな。
 悟浄は一旦遠のいた自分の意識を根性で叩きのめして瞼を押し開いた。
「……ああ、いんじゃん」
 八戒は、不思議な表情で真上から悟浄を見下ろしていた。四つん這いになって覗き込んでいるには遠すぎるし、傍らに普通に立ってるにしては近すぎる。
「…刺された…?」
 微かに、八戒は頷いた。
「何で助けねーのよ…」
 そういうことはできねーのかな。幽霊だもんな。でもビール開けられんだからちょっと何とかしてくれたって。ほっんと役立たず。冷血漢。突っ立ってねえで三蔵でも猿でも呼んでこいって。ああ無理か。
 手足がどこにあるのか分からない。さっきとうってかわって腹が灼けるように熱い。
 おいおい、やばいじゃん。腹だぜ。こら。ちょっと。ほっといたら、出血多量でくたばっちま…
「……八戒」
 何でこいつ、こんな顔してんの。泣くのと笑うのの中間みたいな顔してんの。
「……知ってたのか?」
 返事はない。でもそこにいて、俺を見てる。
 知ってたのか。そんで、待ってたのか。
「……一緒に行きてぇの?」
 どこか知らないけど、八戒と一緒に、あっちへ。
 ……それって俺の運命かな。八戒がいようがいまいが俺は祭りにきただろう。射的をしただろう。それは八戒のせいじゃない。俺はこいつを責められない。でも。
 でも。
「……死にたくねぇ」
 死にたくない。おまえには悪いけど死にたくない。やだ、オヤジに刺されて死ぬなんて。
 なんつって…死ぬけど多分。
 視界がいきなりぐらっと暗くなった。
 唇に、八戒が触れた。


 目が覚めたら慶雲院だった。
「…あれ」
「あれじゃねえ」
 いつもの不機嫌顔の三蔵が、悟浄の傍で煙草を吹かしていた。
「どしたの俺」
「貧血だ。境内の裏でぶっ倒れてた」
 貧血。凄い勢いで起きあがった、その勢いでまたふらつきながら、悟浄は腹を撫でた。
 治ってる。
「祭りっていつだった!?」
「昨日」
 三蔵は哀れむような視線を投げた。
「もうすぐ夜があける」
 八戒が治した。俺をあっちに連れてくために、そのためにそのへんをうろついていた八戒が。
「帰る!」
「…帰るっつっても」
 三蔵が威厳を保ちつつ悟浄を引き留めるセリフを思いつく前に、悟浄は窓から飛んでいた。夜が明けきらない前に家に辿り着いたが、扉は開かなかった。荒い息のまま鍵を回して戸を押し開けた。思ったとおり、明かりもつかない。

 消えた。

「…行ったか」
 安堵と疲れと訳の分からない脱力感で、悟浄はどっとソファーに倒れ込んだ。
 良かった。やっと、ちょっとは泣ける。
 最後のあれは何だろ。
 …キス?
 やっぱ、何だ、あいつ、まだ俺のこと好きだったんじゃん。強がっちゃって。
 最後の最後でいい奴だったんじゃん。




   …バイバイ。









 悟浄が本格的に眠り込んだ頃、タオルケットがバサッと上から降ってきた。

「諦め悪くてすいませんね」
 八戒が、細く開いたままの戸をパタンと閉めた。


fin
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