1回目。
 
 2秒前まで部隊編成について何の色気もない熱弁をふるっていたというのに、天蓬のなんの脈絡もない不意打ちにまったく動じない。動じないどころか視線も動かさない。肩も揺れない。一瞬、天蓬は自分が白昼夢でも見たのかと思った。
「…で、おまえは」
 捲簾が軽く指先で唇を拭った。反応らしい反応と言えばそれだけ。
「抜刀隊を後方につけたいって言ってるように聞こえるな。先発部隊を本部より後ろにつけるってことは即ちそっちが前だろーが。頭おかしいんじゃねえか馬鹿天」
 馬鹿天?
「…貴方ね。僕はさっきから壁に向かって話してるんですか?先方後方という考えをまず捨ててくださいって言ってるんです。隊列を縦列にして先発部隊を前後におくんです。本隊は真ん中!名付けてミミズの頭はどっちだ作戦」
「そりゃまたステキに致命的なアイデアだな!横から突かれたら総倒れじゃねえかよ。地図寄こせ地図…」

 2回目。

 また無反応。
 しかも今度は拭いもしない。
「地図貸せっての。ほら、ここからここまでは」
 捲簾はペンのキャップを無造作に口で抜くと、地図の上にキュッと赤い線を引っ張りポンと閉めた。それだけの音がスピーカーでも通したように静まりかえった部屋に響く。
 今夜は風もない。夜間演習もない。
 下手したら耳も目も動物並みに利くこの男に体の中の音まで聞かれてしまう。
「百歩譲っていいとしてだ。迂回して遊軍と合流してから後ろの先発部隊とやらをどう動かすんだか説明してもらおうじゃねえか。いっとくがひとりでも怪我させたら承知しねえからな」
 書机にバンと両手をついた捲簾の胸元で揺れる髑髏を、天蓬はぼんやり眺めた。
 見えもしない、軍服の、奥を。
「おい聞いてんのか。どうすんだ後方の先発部隊!」
「…聞いてますけど」
 語尾が宙に浮いた。
 まただ。喉が軋む音だとか。水分を求めて口の中で勝手に動き回る舌の音だとか。心臓から血が押し出されるリズムがどんどん狭まっていく音だとか。
「天蓬?」
 
 3回目。

 捲簾は何か言いかけて軽く溜息をつき、ようやく天蓬と目を合わせた。
「…俺はあと何回同じ質問を繰り返せばおまえの戦略が拝聴できるんだ?」
 貴方こそ。何回させる。
「今、何時ですか」
「あ?」
「2時ですよ2時。夜中です。1分1秒争う訳でもない1週間も先の遠征の軍議、意味ないですよ。やめましょう」
 捲簾はちらっと壁の時計を見上げ、もう一度天蓬に視線を戻した。
「そりゃ悪かった」
 天蓬は自分でも気がつかないうちに、銜えた煙草のフィルターを噛み締めた。
 公式軍会議のあった木曜日の夜中に捲簾がふらっとやってくるのも、昼間の議論の続きをお互いが納得するまでやりあうのも、明け方になってくたびれきってふたりしてソファーに倒れ込むのも、もう半年以上続いてる習慣だ。今日に限っていきなり「意味ないからやめましょう」などと言われたら、普通文句のひとつも返すだろう。こんなに分かりやすく喧嘩を売っているのに何が「悪かった」だ。どこを叩いたらそんな台詞がでてくる。
 捲簾は極々自然に煙草を懐に突っ込み、地図を丸めて机の上にぽんと置いた。
「明日仕切直そ。おやすみ」
 ブツ。
 今度は頭の中で音がした。
 あー…。色々、うるさい。
「捲簾。何で無視するんです」
「何のことだか分かんねえけど」
「なんでなかったことにするんです」
 ドアノブに手をかけようとしていた捲簾は、振り向きもしないでつっと体をひいた。そのすぐ脇を、重いだけで使いにくいことこの上ない天帝聖誕祭五百六十回記念卓上ライターが轟音をたてて飛び、扉に激突して床に転がった。
「あっぶねーなーおい。死ぬとこだったぞ」
 台詞のわりに口調は余裕だ。
「そんなもんで死ぬ程度の反射神経ならとっとと死ねばいいんです」
 捲簾は呆れたように溜息をついただけ。
 いったい何をどうすればこの男は波立つ。
「八つ当たりもたまにはいいけどよ、俺じゃなきゃ頭割れてんぞ?眠いんだか生理なんだか知らねえが、あたるのは俺だけにしろよ」
 眠くも生理でもないですよ。ただ体がうるさくて。
 捲簾は馬鹿じゃない。むしろ度を越したお人好しが何時か彼を滅ぼすんじゃないかと心配になるほど人の感情に過剰に聡い。心の機微を知り尽くした捲簾の掌握術はそれはそれは見事で、行けと言えば火の中にでも地の果てにでも突っ込んでいく捲簾直下の抜刀隊は最早親衛隊同然だ。
 その捲簾が気がつかない訳がない。
 知らない訳がない。
 知っていて、かわす気だ。
 天蓬はライターを投げつけた勢いのまま立ちあがると捲簾の両肩をひっつかみ、開きかけていた扉を捲簾の体を押しつけてバンと閉めた。

 4回目。

「…天蓬、服の裾踏んでる」
 抗議するでも非難するでも抵抗するでも歓迎するでもなく殴り倒したくなるほど普段どおりだ。殴るかわりに天蓬は、おそらく無意識だろうが唇を拭おうとふっと上がった捲簾の手を払い落とした。
「…僕は先刻から貴方にキスしまくってる訳ですが。都合4回」
「だな」
「何かないんですか、怒るとか驚くとか困るとか」
「だから裾!おまえは大将の軍服に便所下駄の跡つけて平気なのか!?」
「貴方には僕より支給品の軍服につく足跡のほうがオオゴトなんですか!?」
「誰が軍服の話なんかしてる、てめえの話だ!」
 捲簾が床から目をあげた。
「行くなってんなら足じゃなく口で言え」
 そうした。

 最初は好きというより怖かった。よく喋るしよく笑うしよく怒るのに、何考えてるんだか分からない。自分が今まで付き合ってきた人間とも世界とも馴染まない派手で雑な男。懲罰房から笑顔で帰ってこられる男。
 一度でいいからこの手で思いっきり揺さぶってやりたくなった。
 今日は捲簾が会議資料を抱えて威勢良く部屋に乱入してきたその時刻がいつもより30分ばかり遅くて、その30分で心臓の位置が変わるかと思うほど動揺した。毎日会ってるのにいつも見足りない。離れた瞬間からもう懐かしい。
 なのに顔を見た途端、噴き出したのは理不尽な怒りと体中がたてる騒音。
 振り回されるのが悔しい。
 死ぬほど悔しい。
「正直に言います。貴方のことが好きかもしれません」
 捲簾はちょっと笑った。
「そりゃどうも」
「好きかもしれませんが、貴方如きに惚れ込むのは非常に不愉快です」
「俺は楽しいけど」
 頭の中や胸や喉の音が騒がしいせいで、自分の声も捲簾の声もよく聞こえない。
「…失礼、何て仰いました?」
「俺はおまえが好きで毎日楽しいけど。そんなに不愉快なら、おまえはやめれば?」
 睫が触れ合うほどの距離で互いの息が混ざりあい、たちまち空気が薄くなる。
「俺を嫌いになれば?できるもんなら」
 殺そうか。
「…もう1回してもいいですか」
「何度でもどうぞ」
 
 5回目。

 触れているのは唇と唇だけ。何度も何度も表面を撫でたあと、離そうとしたら捲簾が追ってきた。

 6回目。

 手が勝手に這い上がる。捲簾の指が、髪の中に滑り込んでくる。
 物理的にこれ以上奥には入れないのに、まだ足りない。皮膚も骨も肉も全部邪魔だ。
 信じられないくらい大きい水音。
 唇すら血管が許容量を超えて決壊するんじゃないかと思うほど脈打つ。
「…いっ」
 捲簾の後ろの扉が、ふたり分の体重を押しつけられて軋んだ。

 7回目。

 最初は鈴の音くらい。邪魔にもならないくらい。むしろ癒されるくらい。
 天蓬はそれを風流だ、ぐらいに呑気に構えて聞いていたのだ。鈴がトライアングルになりティンパニに出世しシンバルになり銅鑼の乱打になった時にはもう手遅れだった。
 捲簾がいたらいたで、いないならいないで、どこもかしこも騒ぎ出す。
 これじゃ落ち着いて本も読めない。

 8回目。

 でも。
 何も聞こえないより、全然マシ。






fin

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