俺は優しくなかったかもしれない
部屋から天蓬が出て行くのを見送って、さてと振り返ったら、部屋の中にまた天蓬がいた。
捲簾にとって一番印象的な天蓬の姿は、2年前の夏の日だ。
見たはずがない、見られたはずがない、オレンジのテントの中で振り返った瞬間の天蓬。
あの日、捲簾は下界遠征中に包囲され、ちょっとしたピンチに陥った。そこへ頼みもしないのに天蓬が飛んできて割って入り、結果二人とも怪我をした。
ここまではよくあることで済むのだが問題はその後で、捲簾のほうは胸をやられたわりに傷も残さず完治したが、天蓬は日頃の行いが悪いせいで右足の軽傷を化膿させ、完治した後も気温が下がるとしつこく疼いた。
結局生涯天蓬を苛立たせることになった疼痛に、結局生涯傍にいて付き合うことになった捲簾は、最初は少し、次第に強く後悔し始めた。
反省はしても後悔には縁がなかった捲簾の、生まれて初めての後悔だった。
その証拠に、後悔しながら後悔していることに気付かなかった。
ただ、嫌だった。天蓬が痛みに耐える姿を見せられるのが迷惑だった。もう、ただひたすらに、とんでもなく嫌だったのだ。
捲簾がピンチを迎えたその時間、天蓬は既にノルマをこなしてお気に入りのテントの中にいたらしい。蛍光オレンジの、どう見ても大ファミリーキャンプ用レジャーグッズ。軍の備品にこんな平和の象徴みたいなものはない。天蓬が勝手に落とした経費で勝手に発注した。
「目立ってしょうがないではないか」
「気でも狂ったのかおまえ」
竜王と捲簾の意見は珍しく合った。
「綺麗じゃないですか」
「おい敖潤聞いたかテントは綺麗ならいいのか馬鹿元帥でも綺麗ならいいのかえぇ?」
「誰もそんなこと言っとらん」
馬鹿元帥はうっとりと宙に目を据えた。
「テンションがあがりますよ」
テントの中でテンションあげる必要がどこにある。怪我の原因の2%はおまえのテンションを無駄にあげたテントだ馬鹿野郎。そのテントの中で煙草に火をつけたところに部下が飛び込んで、元帥に大将の危機を伝えた。部下によるとこうだ。
“元帥は、煙草を踏みつぶし、支柱を一蹴りしてから銃を掴み、あの間抜け、と悪態をつきながら外に飛び出した”
捲簾はその証言を元に幾度となくその光景を思い浮かべ、もう終わってしまった事態を四方八方から検証し、何とか彼を止められないものかとあの日の天蓬に手を伸ばした。
待て。焦るな。そのテントから出て来るな。
たいしたことじゃない。おまえが来なくても誰も死なない。おまえの怪我はまったくの無駄だ。
だから待っ…
その瞬間捲簾はあの日のテントの中にいた。
「あの馬鹿、間抜け、役立たず、自分勝手に動くなと何度、ああもう!」
今にも外へ飛び出そうとしていた天蓬が、ぎょっとして振り返った。視界の端で、今蹴られたばかりの支柱が怯えたように震えていた。
あの夏。地鳴りのような虫の声。春の夜から夏の夕方に一気に飛んだ気温の落差で、視界が揺れる。夕日のようなオレンジの布がはためいて、ただでさえ気味が悪いほどの天蓬の美貌を3割増に見せた。
後悔していることに気付かなかった捲簾は、他のことにも気付かなかった。
俺は祈っていた。こいつの無事を。天蓬は俺に初めて後悔をさせて初めて祈らせた。
何にせよ目の前の天蓬に付き合って驚いてる暇はなさそうだったので、捲簾は慌てて言いかけた。
「待……」
…待て?俺は今まで何度この野郎にそう言った?
勿論天蓬は待たない。待ったためしがない。李塔天を殴りに行った時も勝手に囮になった時も一秒も待たない。待つぐらいなら最初からしない。行動に移す時には誰が何と言おうと断固行うのだとよくよく考えて決めた後だ。
待つのが苦手。俺と似て。俺がこいつをもし気に入ってるとしたら、例えば、そういうところじゃなかったか。
捲簾は口にするのを躊躇った。
躊躇った瞬間にそこにいる理由を失い、捲簾はそこから消え失せた。
「痛むか?」
「貴方の心配性は昔から鬱陶しいです」
気のせいか声音は柔らかい。
「日が昇れば平気ですよ。走れます」
もうすぐ最後の夜が明ける。気温が上がる。天蓬は立ち上がり、右足をとんと床に打ち付けた。そして盛大に欠伸した。
「寝とけばよかった。今更眠い」
じきに眠気など吹っ飛ぶ。その後は好きなだけ眠れる。夢も見ないで、深く深く。
「実は、おまえのために祈ったことがある」
天蓬は“呪ったことがある”と言われたのと同じ顔をした。
「嘘でしょ。何に。貴方がそんな腹の足しにもならない他力本願するなんて見損ないましたよ」
「うん。無駄だった」
「あはは。もっと冷たい言葉を投げますよ?」
「でも綺麗だったな」
「何が」
「テント」
天蓬はほんの2,3秒、黙った。
「…先に外の様子見てきます。悟空たち、起こしといてください」
…おまえに会えてよかったよ。人生からおまえを引くと、人生と呼ぶにはちょっともの足りなくなるぐらい。
部屋から天蓬が出て行くのを見送って、さてと振り返ったら、部屋の中にまた天蓬がいた。
抜いた刀を握りしめ、白衣を返り血で真っ赤に染めて、肩で荒く息をしていた。たった今まで全力疾走していたみたいに。
額から流れた汗が床にぽたんと染みを作り、背後から昇りだした朝日がその上にはっきりと影を落とした。
どこから戻ってきた。
俺がいつ、何をおまえに祈らせた。
荒い呼吸がようやく声になった。
「待っ…」
おい。おい。
待てか。待てってか。これから何が起こるか知らないが、どうせろくなことにならないだろう。だからって俺を止めようってか。
俺は止めなかったのに。あの時も、いつだって、俺はおまえを止めなかったのに。
天蓬は予想外のことを言った。
「待っててください!」
おまえが言うなら頑張るけど、できなかったらごめん。苦手なんだ。待つの。
捲簾はせめてもの礼に、一番印象的な天蓬の姿を上書きした。
本当は一番なんて選び難かったが、推敲してる暇はない。戻れる恋も、既にない。