ラフカット
初めて八戒に会ったのは俺が高校1年、八戒が3年の時だった。
部活でもしていなければ学年違いの知り合いなどできないから、帰宅部の俺は当然八戒のことは知らなかった。
そもそも当時の俺は丸一日学校にいるということがなかった。かといって家にもいなかった。とにかく一カ所に長くいるということができなくて、町中やら女の家やらを常にフラフラし、広く浅いその場限りの顔見知りばかり無駄に増やしていた。
日も暮れかかった日曜日に電話が鳴り、たまたま自宅にいた俺が、たまたま電話の前を通りがかったのは実に奇跡だ。
今でもよく考える。なんでいたんだろうと。
なんでいつものように外をぶらついていなかったのだろうと。
電話の相手が悟浄かと尋ねたので、俺はそうだと応えた。
「話があるので出てきてもらえませんか。下の公園で待ってます」
妙な言い分と反比例したその声は、実に落ち着きはらってハキハキしていた。言い忘れたが俺の家は集合団地の4階で、夕餉が始まるこの時間に児童公園に出没するのは人さらいか痴漢だ。
俺はしばし考えて、ようやく合点がいった。
「そっちは何人?」
「は?」
喧嘩じゃねえのか。
下で待ってると言われて放っとくのも気味が悪いので出掛けてみたら、人っ子ひとりいない公園で奴は呑気にブランコを漕いでいて、俺を見てにっこり笑い、初めて自分の名前を言った。
不思議な顔で笑う奴だなあと思った覚えがある。知らない奴への愛想とも違い、知ってる奴への親愛の情とも違う。
俺たちはそこで15分ほど話し、別れた。
そこから先のことは巧く説明できない。事実だけ述べると、八戒はその日を最後にいなくなった。高校3年の初夏。まあ、色々大変な時期だ。
翌日昼休みに学校に行ってみたら、既に隣の席の悟空まで騒いでいたので驚いた。真っ当な親は息子が一晩帰ってこなかったぐらいで学校に連絡するのか。いや待て、何で1年の奴らが八戒を知ってる。俺は廊下側の窓をガラリと開け、身を乗り出した。教室で、廊下で、学校中のあちこちで奴の名前が聞こえる。
いなくなったって 誘拐 事故 駆け落ち 家出 失踪 まさか 八戒が まさか八戒が なんで八戒が 八戒
「…何だっつの」
思わず唸ると近くの女が飛び上がって逃げた。こんなオオゴトになるなんて聞いてない。俺が突然消えたって、この世の誰ひとり騒がない。
「悟空、目玉パンいる?」
「いる!」
目玉焼きとベーコンをのっけた購買の一番人気を悟空にくれてやると、悟空は簡単に屋上まで着いてきた。俺に借りがあるつもりでいる悟空は、ろくに授業に出ない俺に頼みもしないのにノートを回してくれる。
「八戒、生徒会の役員してるから。みんな名前ぐらいは知ってるよ」
暗澹たる気持ちになった。生徒会?
「知らねーなあ。会長だったら入学式で顔見たけど」
悟空は口の端についたマヨネーズを舐めた。
「書記」
ますます知るか。
生徒会の書記になるために如何様な才能が必要なのか俺にはさっぱり分からない。字が綺麗とか?
「掲示板に名前出てるよ。読書感想文コンクール入賞かなんかで」
読書感想文が巧くて字が綺麗な書記?
八戒の名前が聞こえるたびに心臓が跳ね上がるのに疲れて、5時限だけ受けて早々に教室を抜け出した。毎度のことなので誰も止めない。気がついたら生徒手帳が入った内ポケットを上から抑えていて、俺は慌てて手を離した。傍から見たら何かの発作でも起こしたように見えただろう。
そこまできてようやく、我が兄が同じ高校の3年であることに思い当たった。本気で忘れていた。何せ兄貴は学校からバスで3駅というところに実家がありながら部屋を借りて下宿していたから、滅多に顔を見ないのだ。そのへんの兄の心理も俺にはよく分からない。俺と違って母親とも仲良くやれているのに。出ていくなら俺だろう。
高校3年生。謎だ。
「あぁ、八戒なあ。親が学校来て大騒ぎしてったな」
兄貴を捕まえたのは、またその翌日だ。間をおかずに誰彼構わず聞きまくったら怪しい。
急に下宿を訪ねて、話題がないので単位の話なんかふってみて、散々怪しまれた挙げ句、何とかそっちに話をもってった。
「真面目な子だから家出なんかするはずがない絶対誘拐だ!とか何とか」
俺が誘拐犯だったら、17だか18だかの読書感想文が得意な男子なんか狙わない。
兄貴も同意見らしく牛丼屋の水を飲みほしながらの棒読みだ。
「おまえ、いっぺん会ってんじゃん悟浄」
「嘘」
「俺が一年の時実家に何人かで来た中に混じってたぜ。…うん、おまえそん時、家にいた」
そんな記憶はどこを探してもなかった。あったとしても兄貴の客にいちいち顔だして挨拶するような可愛い弟でもないのだ俺は。
「女以外チェックしねえよ」
「はっは、そりゃそーだ」
兄貴は俺の額で生卵を割った。
「悪かったな」
3日経っても八戒失踪事件は校内を騒がせたままだった。いや3日も経ってしまったので余計酷くなった。俺と八戒に接点はない。全然ない。兄貴の知り合いだったからって俺とは関係ない。なのに俺は警察手帳とともに「この男、御存知ですね」と八戒の写真を見せられるという夢を見て飛び起きた。何もあいつを公園で絞め殺して砂場に埋めた訳でもねえのに、何の因果で俺がこんな気苦労を。
飛び起きたついでに布団から這い出して、手探りで鞄を引き寄せ、生徒手帳を捲った。
「…あれ?」
ない。挟んどいたのに。やばい、落としたか?
飛び上がって部屋の灯りをつけ鞄をひっくり返すと、八戒から渡された紙片がひらひら落ちてきた。
一直線に並んだ数字。
どこだか知らないが、今、八戒がいる場所につながる電話番号。
あの書記にどういう事情があって消えたくなったのか俺が知る訳ないが、そういう気分なら、まあ分かる。誰だって一度は思うだろう。急に逃げたくなることがあるだろう。毎日どこかの誰かが自分の意志で消えている。俺だって血の繋がらない母親やら行きたくもねぇ学校やらと縁を切りたくてしょうがない。誰も自分を知らないところへ行きたくなる。実行しないのは、多分、怖いから。
八戒はした。しかも随分時間をかけて周到に準備した。
「これ、行き先なんですけど」
八戒はきちんと畳んだ紙片を差し出し、俺は思わず受け取った。
「持っててください。誰にも言わないで」
俺は数秒おいて、100人いたら100人そう言うだろうメジャーな返事を返した。
「…何で?」
「下手に友達になんか渡せないでしょう」
「何で?」
「親から探りがいって吐かれたらどうするんです」
「何で?」
「頭悪いんですか?」
「何で俺かと聞いてんだ!」
八戒はほとんど名残も消えかかった夕日を背に、2、3度鎖を鳴らした。
「僕と知り合いじゃなけりゃ誰でもいいんです。貴方入学してすぐ停学になったでしょう。それで名前覚えてて、貴方なら優しいし、僕と接点もないから」
優しい?
「全然説明になってないんですけど先輩。家出?失踪?すんのは勝手だけど何で連絡先残すのよ。俺にこれどうしろっつの」
「別にどうも。持っててくれるだけでいいです。おまじないみたいなもんです」
おまじない?
俺はこいつから分かりやすい説明を引き出す努力をやめて、生まれ育った環境と縁をきる気持ちを必死で想像してみた。
「…安心すんの?」
不思議な色の眼が俺を見た。
どうもさっきから落ち着かないと思ったら、こいつは真正面からじっと目を見るのだ、一直線に瞬きもせず。俺にそんなことをする奴は誰もいない。
「誰かが知ってれば安心すんの?つまりここと繋がっときたい気持ちはあんの?何もねえと怖い?」
八戒は俯いて少し笑った。肯定ととって、俺は紙片を慌てて突き出した。
「断る!もしなんかあったら面倒」
「じゃあ捨てていいです。気休めですから」
八戒はぽんとブランコから飛び降りた。
「それじゃ」
それで終わりだ。俺と八戒が交わした会話のそれが全部だ。
1週間経った。
持ってるぶんには紙一枚、だが捨てたら取り返しがつかない。何を取り返すのかよく分からんが。
八戒はわりとモテたようで、女子の中には八戒が帰ってこないとふんで涙ぐんでるやつもいた。八戒に告ってOKされた奴は誰もおらず、女嫌いだという噂があったと、出席番号が俺と同じ女が言っていた。
女嫌いで読書感想文が巧くて字が綺麗な書記。
10日。
夏休み直前のHRに、生徒会役員選出のお知らせが回ってきた。もう欠員補充か。
「…生徒会役員って、なってなんかいいことあんの?」
「いいことってゆーかステイタスじゃないの。あ、内申がよくなるとか」
「ああ、じゃ俺はもう無理か」
責めるつもりなどまったくなかったが、俺が呟いた途端悟空は急に押し黙った。俺が停学をくらったのは別に悟空のせいじゃない。
1ヶ月。
誰も八戒の話をしなくなった。
夏休みの間に八戒にまつわる記憶が溶けて消えでもしたみたいにふっつり途絶えた。
こんなもんか。こんなもんだろうな。
安心したような腑抜けたような気分で、俺は保健室の戸をあけた。
「せんせーひさしぶりー」
保健医は年の頃30そこそこで美人だが、アタリがきついので生徒にはあまり人気がない。俺はほとんど姉妹みたいな同級生より年上のほうが断然好みなので、わりと頻繁にお世話になる。その先生は、俺が喧嘩でこしらえた傷を乱暴に殺菌しながら溜息をついた。
「あの子、帰ってこなかったね」
俺は思わず顔をあげた。
「書記の子。行方不明になった子。3年の。可愛い顔しててお気に入りだったのになぁ」
その可愛い顔がよく思い出せなくなっていた。あの時は別に真剣に観察していた訳でもないので、やたら印象に残った目と思い詰めたような態度以外は時と共に容赦なく薄れた。
捜索願は出たのだろうか。出たんだろうが、ガキとも言えない男の家出なんかで早々警察が動くまい。ていうか動かないでくれ。
「ひっでーな先生、俺のこたお気に入りじゃねえの?だいたい優等生は保健室なんか来ないっしょ」
「ところがどっこい貴方の次ぐらいによく来てたわよ」
「何しによ」
「昼寝しに」
昼寝?
「昼寝っていうか朝寝っていうか。凄い低血圧で」
サボリじゃねえか。
「彼、勉強嫌いなんだって。でもできちゃうんだって。貴方もちょっと頑張りなさいよ悟浄、授業さぼってて成績も悪いんじゃそのまんまじゃない」
…可愛い顔で低血圧で勉強嫌いで女嫌いで読書感想文が巧くて字が綺麗な書記。
「あいつ何か悩んでた?」
先生は俺をまじまじ見詰めた。
「…何だよ。保健医はカウンセリングも仕事じゃねえの?あ、守秘義務ってやつか」
「そりゃ進学だなんだで悩んではいたけど、そうじゃなくて。貴方八戒と友達なの?」
あ。
「いや全然!全然知らねえけど」
「じゃあ何でそんなこと聞くの?」
「何でだろ」
…何でだろう。
3ヶ月。
八戒の退学届が出た。もう奴はこの学校の生徒じゃなくなった。
教室から机がなくなり、名簿からも名前が消えた。
…何かの罪になるんだろうか、これは。
俺は何となく八戒と会った公園へ行って、八戒が漕いでいたブランコに座ってみた。まだ夕飯に呼ばれる前のガキどもがそのへんで騒いでいて、俺のほうを不思議そうに眺めた。
八戒が見たいものはブランコに座ったぐらいじゃ見えなかったんだなあ。
当たり前だが教室の椅子より遥かに低い。一気に変わった視界が新鮮で、俺は寄ってきた坊主が「お兄ちゃん5分だけ譲って」と言うまでそこにいた。別に誰が夕飯に呼びに来てくれる訳でもなし。
「悟浄」
来た。
「…何、兄貴。何でいんの」
「たまには家帰っかーと思って荷物取りついでに。母さん仕事だろ。晩飯食うなら作るけど」
俺のところに八戒の所在を聞きにくる奴なんかいないから、俺は何ひとつ嘘もついてない。八戒に繋がる番号を持っていたと言うだけで罰せられるのだろうか。もし突然八戒の親御さんが死んだりしたら呪われるのは俺じゃねえか。
呪い。
俺は兄貴の炒め物の音を聞きながら、気持ち黄ばんできた紙をまた手帳に入れてパタンと閉じた。俺、一生このメモ持ってんの?縁もゆかりもねえ通りすがりの男がぽんと残してった紙切れを。
知らない奴の思考回路をいくら辿っても無駄だと分かっていながら、俺は何遍も繰り返した作業をまた繰り返した。ほんとに誰でもよかったのか。誰でもいい中から俺を選んだのは何か理由があったのか。
俺の何千倍も人望があっただろう人間でも、未来の展望が開けた優等生でも、俺の何千倍も親に愛されたであろう子供でも、こうして少しずつ消えていく。
…怖くないかな。
怖くないだろうか。
帰る場所がなくなること。
忘れられること。
「悟浄、おまえ最近真面目に勉強してんだってなー。担任が気味悪がってた」
普通喜べ。
「ちょっと影響受けて」
「あ?」
「勉強ができるってどういう気分かと思って」
半年。
「おまえら、もういいよあがって」
俺と悟空はうっかりまだ店内にいるうちにエプロンを引き剥がし、店長に怒鳴られながらスタッフルームに駆け込んだ。校則でバイトが禁止されていないのと、学校の傍なので部活帰りに出勤できるという理由で、このファミレスのバイトはほとんどが同じ学校の生徒だ。教師もよくメシを食いに来るのが難といえば難だが。
「悟浄、中坊ん時ずっとGSでバイトしてたっつってたじゃん。なんでファミレス?」
「母親いい顔しねーんだよ、髪に臭いつくから」
「八戒がここでバイトしてたのとは関係ない?」
悟空の口調にはまったく屈託がなかったが、不意をつかれて手が滑った。季節が半回転して今は冬、コートやらマフラーやら大量の荷物は、やたら時間をかけてロッカーからドサドサと床に散らばった。
ここでバイト。知らなかった。俺と同じことしてたのか。
「…どしたの悟浄」
「手が滑ったんだ、見て分かれ」
「俺思うんだけど、悟浄が停学になった時に廊下にいたの、八戒じゃないかな」
1年。
八戒と同学年の連中および兄貴が卒業していった。
何事もなかったように、ひとり欠いたまま。
去年の今頃、俺は喫煙現場を取り押さえられて三日間の停学をくらった。とうの昔に煙草の味は知っていたが、校内に持ち込むような真似はしたことがなかった。好奇心で校舎の裏手で火をつけたのは、実は悟空だ。教師の怒鳴り声が響いた途端、俺は咄嗟に悟空の手から火のついた煙草を引ったくった。教師は疑いもせず俺を連行した。
言っとくがまだ会って間もない悟空との友情がどうしたとか考えた訳じゃない。俺はそこそこ真面目な悟空と違って処分なんか屁でもない。
ところがその一部始終を見ていた奴がいた。真上を走る渡り廊下の上に生徒とおぼしき男がいて、こっちをじっと見下ろしていた。凍り付いたままの悟空の肩が震えた。東館と南館の間。2年か?3年か?
俺は教師に腕を引っ張られながら廊下を見上げ、人指し指を1本立てた。
黙ってろ。
…あれが八戒。
そうか、あれが八戒だったか。優しいってそういう意味か。
バーカ。
2年。
いつの間にやら滞りなく俺は3年に進級した。ついでに「生徒会の書記」というのになってみた。わりと真面目に授業に出て体育祭を景気よく仕切ったりしてたら、さくっとなれちゃったのだ。俺はどちらかというと悪筆だが、今のご時世、書記に字の良し悪しなんか関係なかった。
「なーんだ。たいしたことねーじゃん」
俺はぶちぶち言いながら、鞄を掴んで放課後の生徒会室を出た。
おまえ、たいしたことねーんじゃん。なんか、もっと凄いのかと思った。
あいつがあちこちに残した欠片を拾ってみても、俺と奴が見てる景色は違うし誰が見た八戒も八戒じゃない。そんなこた分かってる。分かってるけど。
ひさしぶりに誰か殴りたい気分になってきたが、少々成長した俺は壁で我慢した。
「…いったぁ」
誰かじゃねえ、八戒だ。殴りでもしねえと気がすまねえ。
もう一度会って確かめないと。自分の目で確かめないと。
俺は2年間ずっとずっとおまえのあれを抱えてたよ。おまえが軽い気持ちで投げたあれを、俺はずっと握ってたよ。もういない奴の残骸を拾って集めて引き延ばしてちぎって寄せ集めて、一生こんなことさせる気か。一生おまえのことばっか考えさせる気か。知らないのに。これから知ることもないのに。
逃がしてくれ。
もう逃がせ。
ひさしぶりに開いたメモは、何度も鞄に入れたまま傘にしたせいで雨に滲み、折り目から半分千切れかけ、蓋の閉め忘れでインクに汚れと燦々たる有様だったが、かろうじて読めた。
「悟浄?」
番号の先はどこかの店だった。電話に出た女が八戒に取り次ぐまでかなり待たされた。声は遠く、酷い騒音に紛れていて、俺から電話があったことについて奴が驚いたのかどうかも分からない。懐かしいとも言えないほど、八戒の声を覚えていなかった。相手が八戒かどうかすら確信が持てなかった。
俺が喋らないので八戒が喋った。
「もう3年になったんでしたっけ。元気でやってます?」
おまえは親戚の叔父さんか。
「悟浄。何かあったんですか?」
「…何もない」
「じゃあどうしたんです」
何なんだこいつは。何でそんな普通。この番号を回すのに俺がどんだけ。そもそもどういう反応を期待したんだろ。何言いにかけたんだろ。2年もたって。
「…何もない。おまえひとりいなくなってもなーんも変わってない」
帰ってこい。
「それを言いにかけてきたんですか?」
そんで殴らせろ。
「もう番号捨てるからな」
頼むから。
八戒は、俺の気のせいじゃなきゃ、笑った。
「捨てたきゃ捨てていいって、随分前に言いましたよ」
頭の中でぶちっと音がして、俺は受話器を本体に叩きつけ、それでも足りずにモジュラーを引っこ抜き、それでも足りずにまとめて壁にぶん投げた。
むかつく。バカみてぇ。俺は。俺。
「俺はなぁ!」
「うるせぇよ悟浄!」
ノックもせずに部屋の戸を開けたのは兄貴だ。卒業したら家に戻ってきたのだ。普通逆だ。訳わかんねえ。
「おまえらの考えてること全然わかんねえよ俺は!」
一日もおまえを忘れたことねえよ。
顔も声も覚えてねえのに忘れたことねえよ。
おまえのこと考えなかった日が一日もねえよ。
ヤツ当たられた兄貴は、何も聞こえなかったように部屋に入ってきて壁際の電話を拾い上げ、モジュラーを繋ぎ直し、うっかり出しっぱなしのメモを中身も見ないで元通り畳んで机の上に置き、俺の前にペタンと座った。
「…おまえのほうがよっぽど分かんねぇ。いきなり更正するわいきなり泣くわ何なんだ?」
高校3年生。謎だ。
3年。
卒業式の翌日がバイトの最終日だった。
絶対向かねえと思ったバイト先だが女性客限定で愛想もよく酔っぱらいを蹴り出すのが大得意だった俺は意外と重宝され、給料に少し上乗せした額を店長から受け取った。新たな自分発見だ。
そんな訳で、スタッフに最後の挨拶をして、桜どころか風花が散りそうに肌寒い戸外に、わりと機嫌よく一歩出た途端。
「卒業おめでとうございます」
そいつの登場は俺の理性を崩壊させた。考える前に突きだした拳を八戒は恐るべき身の軽さで避け、悠々と薄手のコートの裾を払った。
「随分な挨拶ですね。この寒空でバイト終わるまで延々張ってたのに」
「なん、何、何で、何でてめぇがここにいやがる!!!」
大声出したつもりが途中でひっかかって消えた。
見たら思い出した。こんな顔だった。そうだった。全然変わってない。
相変わらず遠慮無い視線で俺を上から下まで眺めてから、八戒は「誰かに見つかるとまずいんで」と俺を促して歩き出した。同じだ。俺が来ないはずはないと信じ込んでる態度だ。
この3年、俺はどれだけこいつのせいで変わったか。
「何で今更のこのこ帰ってきやがった!」
「別に帰ってきてませんよ。そろそろ親と和解して向こうに住民票移さないと」
向こうってどこだよ。
「殴らせろ!」
「嫌ですよ痛いから。何怒ってんです。迷惑でした?」
「俺は3年間丸々おまえに捧げたようなもんなんだよ!」
八戒が立ち止まって、ゆっくり振り返った。
ああ今俺は告ったよ。告りましたよ。何たって高校3年生だからな。
またじっと見詰められる前にと、俺は都合3回替わった手帳の間からメモを、勢いよく引っ張り出したいところだがそうすると破れるので摘み上げ、八戒に突き出した。
「…まだ持ってたんですか」
「悪いか」
ようやくこいつの呪いから逃げられる。
逃げられる。
ところが八戒は、こちらに延ばしかけた手を、途中で止めた。
「背、伸びましたね」
パチン、と小さな音がして、八戒の真上の外灯が点った。
「…何?」
「背。前に会った時は僕のほうが高かったのに。7、8センチは伸びたんじゃないですか?」
7.6センチ。
「声も変わった。今のほうがいい」
声を覚えるほど喋ってない。あの時おまえはずっと座ってた。俺を立たせといて。
狐に摘まれたような俺を見て、八戒は少し笑った。
「…鈍いなぁ」
俺は思わず天を仰いだ。何度か躊躇ってようやく吹っ切ったみたいに、ひとつずつ蛍光灯が点ってく。
おまえのまじないって何だったの。
5年。
今でもよく考える。
会わないまま好きで好きでたまんなくなるなんてあの時の俺はどうなってたの。
人を何で好きになるの。いつ好きになるの。どこが好きなの。説明できるの。本当に?
今、俺は向こうにいて、八戒と晩飯なんか食っている。「おいしいね」なんて言いながら。
fin
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