先生


act1/現国教師


「あと5分」
 八戒がのんびり文庫を捲りながら呟くと、教室のあちこちで小さな悲鳴が漏れた。この悲鳴にたいした意味はない。教師に対する媚びみたいなもんだ。彼らは嫌味でなく自然に、爽やかに、そういうことができる。
「せんせー勘弁」
「私語減点」
「きびしー」
「ほら最後まで粘りなさい。2点ぐらいは稼げます」
 と言ってはみたものの1分1秒を争う科目でもないので、早くも空気はまったりしている。しかもこの現国で期末の全日程が終了する。生徒たちの小さな頭の中は、この後の遊びの予定でいっぱいだ。
「先生、この後お疲れ様で奢って」
「採点があるでしょ僕は」
「あ、そーか」
 八戒はやれやれと本を閉じ、教室をのんびり一周して窓際で立ち止まった。2階の窓からは丹念に作り込まれた美しい緑と、煉瓦造りの図書館が見える。入学案内パンフに必ず載るやつだ。流石に莫大な授業料に膨大な寄付金を巻き上げるだけはある。立地もいい。敷地も広い。設備も最高。好きな学科。規則正しい休暇。そこそこの給与。中高一貫の穏やかな校風。生徒たちに至っては恐ろしいほどに無邪気だ。昔の自分みたいなのはひとりもいない。八戒は彼らを尊敬さえしている。この子たちときたらなんて優しいのだろう。よく言えば感受性豊かな時期、些細な事で上がったり下がったりする自分を抱えて生きてるだけで重労働だろうに、そのうえ理不尽な集団生活に耐えて教師の機嫌までとってくれる。八戒は彼らに何度も、心から、深く感謝してきた。一緒に過ごしてくれてありがとう。僕は貴方達が好きです。
 ぼくは、あなたたちが、すきです。
 でも。

 答案の束を抱えて階段を降りようとしたところが、下からバタバタ上がってきた悟浄が速度も落とさず体当たりしてきた。
「何ですか!」
「それ」
 悟浄は不機嫌極まりないといった調子で八戒の荷物を顎で指した。
「うちのか」
「そうですけど」
「全員100点取れるんだろうな!」
「取れる訳ないでしょうが!」
「け」
 悟浄は理不尽な怒りを撒き散らしながらさっさと八戒の脇を通り抜けた。
「イジメやがって」
 でも。

 あのクラスだけは嫌いだ。



act2/養護教諭


「養護教諭っていいですねぇ」
 天蓬は煙草のビニールをくるくる解きながら歌うように言う。
「自分の城が持てて。学科準備室なんか他の先生方がわんさか」
「…俺の城は禁煙だが?」
「ああ、そうなんですか?ふーん?」
 会うたびこれだ。養護教諭っていいですねぇ捲簾。僕もなれば良かった。
「おまえ養護教諭舐めてるだろ」
 教師だと自己紹介して養護教諭と付け足すと、誰もが「なーんだ」と目や口に出す。確かに他の教師とは立ち位置がかなり違う。だがよりにもよって数少ない同僚に、 しかも仕事熱心とは言い難いこいつにそう思われたくはない。学長の介入すらシャットアウトできるある種治外法権の保健室には、自分なりに誇りもあるのだ。
 あったはず。
「あのなぁ一応トリプルで国家試…」
「知ってます」
「しかも俺は1種免…」
「難関なのは分かってますよ。知識のみならず豊かな人間性が求められ…ってやつでしょ。凄いですね。貴方にそんなもんがあればね」
 天蓬はくるりとこちらに向き直った。
「ねぇ捲簾。養護教諭っていいですね」

 30分後に試験が終わると、天蓬と入れ替わりに常連がやってきた。
「…コーヒーください。濃いの」
 まるで嫌いな人参を無理矢理食わされるような顔で一口啜ると、八戒は中指で眼鏡を押し上げ、深く溜息をついて前髪の解れを直した。少し痩せた。1週間前より微妙に線が細い。これから文化祭体育祭と鬱陶しい年中行事が始まると、またこの偏屈な優等生は学校に出てこなくなる。その代わりせっせと塾に通い詰め、いよいよ出席がやばくなると調整に入り、その合間に保健室で寝る。頭から馬鹿にしているのだ。学校も、教師も、世の中も。
「お疲れ様」
「…途中から暇で暇で…」
「結構だな」
 八戒は小さく欠伸した。長い睫が震えるように動く。
「HR出なくていいのか?」
「煙草ありますか」
「…アークなら」
「なんでも」
 話すのも面倒といった態度を隠しもせず煙草に手を伸ばし掛けて、八戒は灰皿からまだ長い吸い殻をつまみ上げた。
「先客ですか?」
「ああ」
「ふーん…」
「…教師だぜ」
「ま、どうでもいいですけど」
 八戒は慣れた手つきで三口ほど吸うと、あっさりもみ消して立ちあがった。
「ちょっと寝ていきます。塾まであと40分程余裕あるから」
「どうぞ」
 八戒がベッドに潜り込むのと同時に、捲簾は仕切りの白いカーテンを勢いよく閉めた。時間がくれば八戒は、自分で起きてカーテンを引く。それまでこの布に触ってはいけない。絶対に。
 何かするぐらいなら何もしないほうがマシだ。教師としてすべきことすらしないほうが、何かするよりまだマシだ。
 灰皿の中の吸い殻は計ったように同じ長さで、どちらがどちらのだか分からない。捲簾はしばらく眺めたあと、適当に片方をつまみ上げて火をつけた。
 空が遠い。捲簾が今か今かと待ち望む、次の春はまだ遠い。
 …早く。
 早く俺の前から消えてくれ。

 理性はときに目に見える。白い布だ。




act3/生物教師


 授業中に泣き出した女生徒を保健室に連れていったほうがいいか。
 と聞かれた時、何を言われているのかさっぱり分からなかった。冷たいのだ自分は。きっと。
「…はい?」
「だから。3班の女ども」
 6時限目、天蓬の授業で騒動が起こった。ハツカネズミの解剖実習中に、3班のネズミだけが途中で麻酔が切れてしまい、半分胸を開かれたままじたばた動き出したのだ。完全に天蓬のミスである。いくら天蓬でも多感な少女たちにはショックな出来事であったろうぐらい分かる。本当に申し訳なかった。本当にごめんなさい。
 だからといって保健室に行かれたら困るのだ。
 あの外面だけはべらぼうにいい保健医に何があったと優しく聞かれて「天蓬先生の授業で云々」と泣かれたら困るのだ。
 天蓬は思わず目の前の骨格標本に手をついた。教師だろうが自分は。自分の都合でまた生徒をないがしろにするのか。
「ああ、でもベッドで寝るより友達と騒いでるほうが気が紛れるかもね」
 悟浄は自分の質問に自分で結論を出し、解剖後のネズミを埋葬するため一体ずつ紙にくるむ作業を再開した。いくら週番の仕事でも、この手伝いは男でも嫌がる。…そもそも悟浄は今週の週番だったっけ。
「チクられたら父母会に怒られるんじゃねえの先生」
「ああ…あり得ますね…もう今更って感じですけど…」
「来年から魚にすれば。将来魚捌く練習になる」
「魚なら解剖していいって理屈は好きません」
「まったくこの教師は。人が大義名分ってやつを考えてやってんのに」
 悟浄は長い指で犠牲者を木箱にきちんと並べ、蓋をし、そうして表面を軽く撫でた。
 見た目こそ派手だが悟浄の言動は酷く地味で大人しい。その地味さは天蓬の目には過剰に見える。あらゆることに手を抜いている。きっと誰もが「更正した」とでも思ってるだろう。
 悟浄が高1の頃、天蓬は悟浄の担任だった。明るく快活で、クラスでも一際目立っていた。反して助教授の席を蹴って系列下に降りてきた天蓬は、派閥争いからはじかれて教師に敬遠され、研究室に閉じこもって標本弄りに夢中だった。まったく臆さず懐いてくれたのは悟浄が初めてだった。だからつい、 構った。あのあからさまな贔屓の仕方は、教師の枠を越えていた。ただひとり特別扱いされれば誰だって舞い上がる。ほんの、軽い、保護者気取りの無責任な愛情が、別のものに変わりかけた。たかだか16歳、舐めてかかった天蓬を悟浄は危うく虜にしかけた。もっとも何かが起こる前に全部終わった。休日に悟浄を食事に連れ出したところを他の生徒に目撃通報された。叱責されている最中に、悟浄は学長室に乗り込んできて、自分の悪行三昧を並べ立てた。不純異性交遊だの暴力行為だの窃盗だの。嘘ばかりだ。どこかの安いドラマで見た嘘ばかり。しかし学長は騙された。悟浄の停学処分を、天蓬は突っ立ったまま、黙って聞いた。黙ってさえいれば自分にお咎めはない。「素行不良の生徒を更正させようとしていた」ですむ。分かっていて、黙り通した。
 悟浄の卒業まであと2年。時間が経つのは遅かった。たまに廊下ですれ違うと、天蓬のほうから目を逸らせた。悟浄は校内で息を潜め続け、天蓬の教師としての評判は、ほんの少し上がった。

 謝んなくていいよ。俺が馬鹿だったよ。だって先生だもんな。
 先生は皆の先生だもんな。

 まさか悟浄が最後の選択で生物を取るなんて。化学のほうが成績は良かったのに。教室の隅にあの男がいるだけで息苦しい。あと半年。あと半年でいなくなる。そうすればなかったことになる。
「…悟浄」
「ん?」
「最近、何してるんですか?」
「何してるって?」
「…喧嘩とかしてますか」
「たまには」
「ちゃんと寝てますか」
「先生よりは」
「…そっちの寝るじゃなくて」
 ちゃんと楽しんでるのか。自分が叩き壊した学校生活の代わりに。
 悟浄は一瞬視線を宙に浮かせた後「まぁそこそこ」と真顔で答えた。
「学校の外で?」
「近場の奴相手にすると後々面倒だし」
 悟浄は木箱を抱えて立ち上がった。そこで初めて、悟浄の視線が自分より上であることに気付いた。
「先生もさぁ、やめたほうがいいよ」
「…何を?」
「校内で恋愛なんかやめたほうがいいよ。ばれるから。俺に」
 悟浄は木箱を抱えたまま、微かに笑った。
「…あと半年ぐらい、うまく隠してくれても良かったんじゃねえの?」
 それくらいしてくれても、良かったんじゃねえの。

 中には胸を半分開かれたまま、麻酔の切れた小さなネズミ。



act4/体育教師


 卒業式って桜のイメージあるけど、咲かねえよな3月には。まだ。
「悟浄先生ー」
 花が似合うのは入学だ。入学式。卒業なんてちっとも目出度くねえしよ。寒いしよ。
「悟浄先生ー!さっきからガンガン呼ばれてますよー!」
 うるっせぇな。俺にも耳はあるよ。
 目立つ頭だとこういう時損だ。苦手な教頭が向かいの校舎から喚き散らすのを無視して、悟浄はまた煙草に火をつけた。外階段の踊り場に吸い殻が溜まっていく。首に引っかけただけのネクタイがバタバタと、まだ冷たい風に煽られる。
 あー嫌だ。何度やっても嫌なもんだ。だいたい何で俺は毎年3年の担任だ。確かに人気者だよ俺は。男前だし。生徒には優しいし。クラス全員に絶対評価で4以上つけちゃうし。それに今日は1年でただ1度、俺のスーツ姿が見られる日だ。もー女ども先月からドキドキですとも。毎年大概の女と一部の男は馬鹿みてえに見とれるね。で、少し泣く。
 諦めが悪く悟浄の名前を連呼していた放送部員の声が「ガコン」という音とともに聞き慣れた声に切り変わった。
『悟浄、5分以内に教室に戻らないと校舎から閉め出しますからそのつもりで』
 うーわ。
『その前に国語科に来なさい。どうせ締め方分からないんでしょう。ネクタイ』

「…また変な噂がたつ」
 悟浄のぼやきに八戒はネクタイを結んでくれながら、茶を飲んだ後のような溜息をついた。
「いや、もうたっている」
「自業自得です」
「まだ時間あんじゃねえかよ。ギリで登場しねえと効果が薄れるんだよ」
「1年中ジャージだとスーツ如きでときめいてもらえるから得ですね」
「まあな」
「…僕、来年着物着よう」
 いつもと代わり映えしない姿の八戒は、悟浄の胸をぽんと叩いた。
「はい終わり。ほら早く行って自慢の黒スーツ皆に見せてあげなさいよ」
「…もう一本だけ煙草」
「あのねぇ」
 それでも灰皿代わりの空き缶はちゃんと放って寄越した。機嫌がいいのだ。自分と違って八戒は、卒業式が好きなのだ。清々しい。八戒は卒業式をそう形容する。
「生徒が一新ですよ」
 すがすがしい。ねえ。
「…泣かれるのがどーもな」
「雰囲気に酔ってるだけですよ。明日になったら忘れます。子供ってそういうもんですから」
 正確には泣かれるのが嫌なんじゃない。あの目が苦手だ。
 泣きながらでも「決別する」という断固たる意志できっぱり澄んでいる、あの目が嫌だ。
 卒業式が嫌いなのは、自分の時を思い出すからだ。壁際に並んだ教師の列を無意識に辿って、あっという間に生物教師を捜し当てた。目があった途端、奴は俺を見たまま、泣いた。涙は零さなかったがはっきり泣いた。一瞬、別れを惜しまれたのかと思った。
 惜しんでなんかいなかった。そんな未練たらしいものはなかった。
 保健医もスーツ姿を騒がれながら、講堂の隅で同じ目をしてた。
 さぞ嬉しいだろうよ。自分たちを波立てて引っかき回した面倒な生徒がやっといなくなるんだから。清々しく、さっぱりと。

 俺はあの時葬られた。
 花も無しに。

「さて、変な噂に拍車がかかる前に行きますか。かかったところで連中、卒業ですけど」
 姿勢が悪いのですぐ歪む悟浄のネクタイを、八戒が腕を伸ばして直した。
「…かっこいい?」
「かっこいいですよ」
 八戒はにっこり笑った。
「お葬式みたい」

だな。




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