■6月1日■
目蓋を開ける前に目が覚めた。
首筋にまとわりつくさらさらの髪。
八戒はまだ目を閉じたまま、胸のあたりに押しつけた悟浄の頭を抱えなおした。
腹立たしいほど規則的な呼吸。腹立たしいほど安定した悟浄の日常。
…悟浄と眠れるのは、あと何日だっけ。
数えかけてやめた。意味がない。
それでもまだ性懲りもなく、朝がくるたびに祈る。
今朝の新聞の日付が6月1日じゃありませんように。
八戒は自分の諦めの悪さを恨みながら、そろそろと瞼を開けた。やっぱり雨だ。
夕方、八戒は怪我をする。包丁で、ほんの少しネギと一緒に指を切る。
ネギを使うまいとこれでも努力したのだが、ネギ抜きで中華は無理だ。
「あ」
呟いた次の瞬間、背後でけたたましい騒音がした。悟浄が絆創膏を取り出そうとして救急箱を開け、中がごちゃついていると見るや盛大に中味を床にぶちまけた音。「あ」から騒音までその間、数秒。
「貴方なんでそんなに無駄に素早いんです!」
何もぶちまけなくても落ち着いて探せば見つかるでしょうが諦めるのも早けりゃあっちも早いし、と八戒がぶちぶち言う間に、床に散らばった体温計や目薬や正露丸や綿棒やピンセットの中から絆創膏を拾い上げた悟浄は、さっさと八戒の指をひと舐めしてクルッと傷を塞いでしまった。
「…どうも」
「ネギは?」
「は?」
「ネギは何用?」
「…生姜と一緒に炒めて鳥を」
言い終わらないうちに、悟浄はさっさと台所で包丁を洗い出す。指にネギの匂いでもついてたらしい。
「今日の夕飯、俺やるわ」
ダメですよ。
言いかけて、呑み込んだ。
悟浄、火力を上げすぎて跳ねた油が手の甲に飛ばないように気をつけて。
結局口には出さず、八戒はそっと片づけたばかりの救急箱を引き寄せて薬を探す。
「あちっ」
八戒はひとつ溜息をついて、床に中味をぶちまけた。
救急箱を引っかき回してる暇なんか、自分にはないのだ。
風呂上がりの悟浄が浴室の扉を開けて、閉めて、まだ水気の抜けきってない髪から滴を落としながら鼻歌交じりにこっちにやってくる。机に頬杖をついて、もうとっくに読み終わった文庫本のページを捲りながら、八戒は息をつめて目を瞑る。
来るな。止まれ。 来るな来るな来るな来るな来るな来るな
「八戒」
声と一緒に首筋に軽く、軽く触れる唇。
「……っ!」
何故か腰から、触れられた箇所に向かって快感が逆流する。唇を噛みしめてやり過ごしたところに、まったく普段通りの悟浄の声が降ってきた。
「お風呂、どーぞ」
髪の滴が八戒のシャツの襟をどんどん濡らして、悟浄があっさり離れた後も舌のようにまとわりつく。 何度か首周りを引っ張ってみて、そのたびピッタリ肌に貼り付きに戻ってくるシャツが自然乾燥を期待しても無駄だということを確かめると、八戒はようやく顔を上げた。
「…濡れましたよ」
「だろうな」
「たまにはストレートに誘えませんかね」
悟浄はちょっと笑ったが、答えなかった。
「さっさと脱げとか、さっさと風呂に入って出てきてヤろうとか」
「風邪ひくぜ、そのままじゃ」
八戒が大人しく浴室に向かおうとしてふと盗み見ると、悟浄は烏龍茶のパック片手に、冷蔵庫にマグネットで貼り付けたカレンダーを指で辿っていた。
「明日って不燃ゴミだっけ?」
慌てて扉を閉めた。思いの外大きな音がして飛び上がった。
明日だって?
夜が怖い。朝も怖い。悟浄とのあの夜がもうすぐやってくる。あの夜を超えてしまったら、もう二度と悟浄に触れられない。抱いて抱かれて自分の肌より馴染んだあの熱が1日1日遠ざかる。
■5月22日■
「…八戒…ちょい起きて…」
珍しく悟浄に揺り起こされる。
「……おはよ…ございます」
「痺れた…」
「あ、すいません」
急いで頭を上げるとずるずると自分の下から悟浄の腕が抜けていく。
「あー失敗したっ!くっそ〜いつもはちゃんと首の下に入れんのに」
「へーいつもっていつですか」
てめえに好き勝手やらせてやってんだから寝る時くらい主導権とらせろ、とか何とか言って、最初で最後の腕枕記念日じゃなかったか。
「かっこつけるのは女性相手で充分ですよ」
鬱血した腕をブンブン振りながら、悟浄は八戒の言葉を完璧に聞き流した。
「朝飯、どーする八戒さん」
「貴方、本当に僕のこと好きですか」
「好き好き大好き。朝飯は?」
器用に片腕をついて体重を支え、悟浄は八戒の真上に真っ赤な髪をぱらぱら振らせてくる。自分の見せ方をとことん心得た男だ。痺れた腕を思いっきり掴んで叫ばせておいてから、八戒は髪を指に巻き付けて引き寄せた。
「…随分余裕ありますよねえ貴方」
「んー?何が?」
八戒の乾いた唇を舐めあげるその絶妙な技。 唇の表面だけで性感帯が何カ所もあるなんて、悟浄と寝るまで知らなかった。
「僕が優しいのは今のうちですよ。そろそろ無茶させますから、辛いときは辛いって素直に言わないと、腰が立たなくなっても知りませんよ」
悟浄は一瞬目を丸くしたが、すぐ笑った。
「楽しみ」
ただちにもう一発ぶち犯したい気分になったが、八戒はわざと悟浄を乱暴に押し退けてようやくベッドから降りた。
「朝ご飯ですよね…えーと、何でしたっけ…」
呟いてしまって慌てる。何でしたっけじゃない。これからのことだ。
そろそろ記憶があやふやだ。今日あたり何か大きな買い物をしたはずだ。今日もいい天気…
ああそうだ。洗濯機。
生憎悟浄と最初に過ごした夜の日付だけは正確に覚えている。5月2日。あと20日。
八戒は洗面所に直行し、洗濯機を開けて中を覗き、電源を入れて、切り、足で一発蹴飛ばしてから大声で叫んだ。
「悟浄〜!洗濯機壊れてます」
■5月3日■
悟浄は一日死んでいた。
「…起きられます?」
太陽が西に傾きだした頃、ベッドに俯せたままピクリとも動かない塊に遠慮がちに声をかけると、たっぷり30秒かかって悟浄はゆっくり体を起こした。服を着ようと一応は努力したらしいが、これも諦めの早い悟浄らしくシーツ1枚巻き付けた蓑虫状態のまま、それでも何とか居間まで体を引きずってきて、今度はソファーに倒れ込んだ。ペンギンでも飼ってる気分だ。頭を撫でて餌でも放ってやりたいが。
「………俺は真理に到達しましたよ」
「それはおめでとうございます」
「ホテル代を男がもつのは当然だ」
真顔だ。
「こっんな痛い目みるんだから、金くらい男が払って当然だ」
「…貴方、ホテル代なんかもったことあるんですか」
「…勝った時は」
「処女なんか抱いたことあるんですか」
「しょじょお〜?」
それこそ目で刺されそうな視線が飛んできて、八戒は思わず天井を見上げた。
「…あやまりませんよ合意の上ですから。だいたい貴方だって結構」
「あやまれなんて言ってねえ、労れ!」
「はい」
八戒が差し出したコーヒーカップを、悟浄はマジマジと眺めてから受け取った。
「煙草吸ってもいいですよ。特別に」
いつもなら、掃除したばかりの部屋の真ん中でなんか吸わせない。
まだぶつくさ言いながら勢いよく煙草をふかす悟浄を、八戒はソファーの端に腰掛けてコーヒーを啜りながら眺めた。
悟浄のほうは微妙に照れがあるようだ。当たり前だ。同性の友人と裸で絡み合って、翌日けろっとおはようなんて言えるほど、どうでもいい関係じゃない。余裕の欠片もない悟浄に、ようやく会えた。
そして、もう会えない。
「…驚いた」
次のセリフは分かっている。自分の記憶力が憎らしいが、何度聞いても嬉しいことに変わりない。新鮮な感動の代わりに懐かしい懐かしい愛おしさ。
ゆっくり言ってくれ。お願いだから。
「…痛いは痛いけど、なんかこう」
悟浄はそこで言葉を切り、視線を宙に泳がせた。
「…合うんじゃないでしょうか、ね。体」
八戒がそっと呟くと、悟浄は微かに眉を顰めた。
「…か?」
「合いますよ」
「突っこんだ方のセリフじゃねえだろ」
「そりゃそうですけど」
欲に任せて貪った悟浄の口の端に、少し血が滲んでいる。
「…ヤバいよな」
「何がです?」
「またしてえわ」
八戒は柔らかく笑った。
「しましょうよ」
明日も明後日もその次も、ずっと一緒にいましょうよ。
■4月29日■
息苦しい。
悟浄が、初めて八戒にそれを言った。
おまえといると息苦しい。
悟浄につられて、八戒にも蘇ってくる4月の記憶。
悟浄とは友達だった。まだ友達だった。勝手に好きになったのは自分だ。眺めていて飽きないのは、その容貌のせいだけじゃない。悟浄の言葉尻をとらえていちいち気に病むのは自分が卑屈なせいだけじゃない。
優しい男。優しくて冷たい男。
姉のことを話した時も、これといって反応は見せずにポツンと「今、辛ぇの?」と呟いただけ。今。
二重三重の罪を犯した自分の今だけを直視してくれる悟浄は、昨日も一昨日もすっぱり切り離して今日だけを生きている。自分が浴びせる熱に浮かされた視線の嵐にとうの昔に気付いていながら、実際に八戒が言葉に出すまで動揺も警戒も欠片も見せなかった。
好きですよ、悟浄。
見たくて触りたくて忘れられたくなくて。
貴方に誰よりも優先されたいんです。貴方に文句を言っていい権利とか、浮気を責めていい権利とか、横に並んでいい権利とか、伝言を受けてもいい権利とか、そういうものが欲しいんです。三蔵たちに「あいつら」って呼ばれて一緒にされたいんです。
「…やりてえの?俺と」
「できることなら」
ある程度覚悟はしていたのだろうが、流石に悟浄は即答はしなかった。
でも知ってる。悟浄は絶対に、自分に真剣に向かってくる相手から逃げたりしない。
「友達だと思ってたけど」
「友達は友達ですよ」
嫌なら無理にとは。言うのは簡単だったが嘘になる。無理にでもしたい。
「今、俺といて辛ぇの?我慢してて辛ぇとか、俺の返事待ちは辛ぇとか」
八戒は無理にではなく微笑んだ。
「いいえ。幸せが勝ってます」
好きになったのが、この人で良かった。
悟浄は丸二日悩んだ挙げ句、ふっきったように自分から誘ってくる。きちんと自分から欲しがってくれる。
もう、遠い昔。
また今日の悟浄に会えるなんて思わなかった。あの濡れた瞳。困惑と照れと、その奥に確かにあった自分への欲望。
今頃悟浄はベッドの上でゴロゴロ転がりながら、自分のことを考えてくれている。悟浄と自分が一緒にいられるために一番いい方法を、真剣に考えてくれている。
部屋に戻って扉を閉めた途端、膝が崩れた、背中をドアに預けたまま、八戒はほんの少しだけ泣いた。
このまま死んでしまいたいほど幸せだった。
■10月15日■
覚えのある腹の痛み。
呼吸するたびにはしる激痛。
夢か。
八戒は無我夢中で、追い立てられるように目を開けた。
見慣れた天井。
悟浄の顔が目の前にあった。
「…遅ぇんだよ、目ェ覚めんのが」
悟浄。
呼びかけそうになって、喉元でくい止めた。
とうとうここまで戻ってきた。
悟浄に拾われて、初めて会話をかわした日。
悟浄との、最後の日。
ねえ。
何でこんなことが起こるんだと思います?
夢だと思いましたよ。信じないでしょうね。
朝起きるたびに、僕だけ、僕だけが一日一日時間を遡っていくんです。
新聞の日付が巻き戻っていくんです。
うんざりしますよ。また花喃を失って、彼女に会う前に戻って、孤児院に戻って。
それから…母親のお腹の中まで戻っちゃうんでしょうかね。
きっと何かの罰だと思うんですけど、あんまりじゃないですか?
どうせなら、もっと早く折り返したかったですよ。貴方と会う前に。
もっともっともっと言っとけば良かった。
もう一度好きだって、あと一回でも余計に言っておけばよかった。
悟浄、生まれ変わりって信じます?
今、ちょっと思ったんですけど。
猪悟能に生まれる前にどこかで生きてたとしたら、また貴方と会えるかなあって。
どうせ人生のどこを切ったって貴方が好きだし。
またこんな目に合うんだとしても、貴方に会えないよりいいかなあって。
…逆行しだしたのが6月なんですよね。
貴方と夏を過ごしたことがなかったもんだから。
それだけが、ちょっと、残念で。
fin
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