理者
  




 だいたい見当はつくと思うが、フリーの時計修理は稼ぎが良くない。
 技術と根気がべらぼうに必要なわりに需要がない。出張修理を依頼してくるお屋敷も、おじいさんののっぽの古時計も、もうおとぎ話と歌の中にしかない。高級時計の修理はメーカーに出され、若い奴はゴミ同然の安物を買い潰す。なんだかこの世から時計そのものが減ってる気がする。時を刻む使命を帯びた美しいものが滅びるなんてことあっていいのか?そのくせきっちり時間には追われているのだ。世の中のせいにしたくはないが完全に世の中のせいだ。

 という訳で純粋に趣味で歯車削ってた閉店間際の雨の夜、その客はやって来た。
 珍しく若く、美男子で、白い肌と深い緑色の目で、景気良くずぶ濡れだった。
 俺は景気の悪い店の主人なので普段は愛想が良いのだが、しばらく男を眺めてから、極めて無愛想に「修理?」と尋ねた。
 何故そうしたかと言うと、そのやたらドラマティックに雰囲気のある登場の仕方をした男には、無愛想で寡黙な主人が絵面的に合う気がしたからだ。だいたい見当はつくと思うが、俺は馬鹿だ。
 男は、それで初めて自分の入った店が八百屋でも床屋でもなく修理屋だと確信できたように安心した様子を見せた。再度店の扉を開け戸外に向かって服の水滴を払うと、ようやく店内に踏み込んだ。
「これなんですが」
 これまた綺麗な声で呟いて男が取り出したのは、何て事だ、今時滅多にお目にかからない年代物の懐中時計だ。大好き懐中時計。こっちが金払ってでも修理させて頂きたい。感謝のあまり抱きついてキスでもしたいのを我慢して、俺は極めて無愛想にそれを受け取った。受け取った途端「おまえな!」と叫んだ。男は飛び上がって一歩下がった。
「いつ壊れた!?」
 俺は清く正しく美しい時計ならどんなに酷くぶっ壊れようと生き返らせる自信がある、どんなに精巧で変則的な歯車でも削り出して血管を繋いでみせる、がその時計は、割れたガラス盤のヒビに経年劣化と見える汚れが入り込んでいた。例えるなら、心臓が止まって間もない人間より死後数千年経過したミイラを蘇らせる方が難しいということだ。難しいも何もできねえよ。
 オーケー時計と人間は違う。俺は時計ならミイラでも蘇生させられる。が大変だ。
 男は困ったように微笑んだ。
「すいません。すぐ直す気が起きなくて。直さなくてもいいような気もして」
「形見?」
 男は驚いた顔をした。壊れたのに直しも捨てもしないなんて形見でなければ何かの修行だ。特に時計の形見率は高い。俺はルーペをつけ、修理台に丁寧に置くと文字盤を、如何にも手慣れたふうに外そうとして、手間取った。細かい錆のせいで。
「…おまえな」
「はい」
「持ち歩いてたろ」
「はい」
「雨の日も雪の日もそれが機械だという認識もなくただの重く固く壊れた物体として」
「すいません」
 全然すまなそうでない。
「部品の大半総取っ替えになるぞ。見た目はそのまま別物になる。形見としての価値は無くなるかもしれねえけど、それでもいいか?」
 そう言ったほうが主人として絵になると思ったので、俺はものすごく余計な事を、無駄に渋い面持ちで言った。よくなくても修理させろ。すぐさせろ。
 男はしばらく迷っていた。俺ははらはらと彼の表情を見守った。
「構いません」
 八戒という名のその天使は手付けを払い、連絡先を残し、俺が貸そうとした傘を優雅に断った。帰り際に何故うちの店を選んだのかと尋ねると、当たり前のように「赤かったから」と答えた。だろうなぁ。

 業者を怒鳴りつけて部品を調達し足りないものは全部自分で削りだし、俺は修理に没頭した。
 カレンダーを見ると丸々一か月かかったことになっていた。頭の中がヘブン状態だった俺には数日程度にしか感じなかったが、人間である以上天国よりこの世のカレンダーと時計に従うべきなのは明白だ。すぐさま八戒に連絡をとり時間がかかったことを詫びると、八戒はその翌日の夜、雨の中を、景気よくずぶ濡れでやってきた。
「おまえはなにか、濡れてないと干乾びるのか。河童か」
「すいません」
 こいつのすいませんは「だからどうした」とほぼ同義だ。
 八戒はポケットから取り出したハンカチで丁重に両手を拭った。白かったせいで、というかこの際何色でもそうなっただろうが、ハンカチはぐっしょりと赤く染まった。そうしてからカウンターに滑らせた時計を手に取り、ネジを巻いた。

 カチン。

 まさに天国のドアの鍵が外れるような至高の音色。
「…ありがとうございます」
 秒針が動き出すと同時に、俺は八戒が指先から硝子の砂のように空中に散っていくのを見た。時を止めることでかろうじて保っていた心と体が崩れていく。
 ─動かしてはいけない時計がある。
 時計修理者なら誰でも知ってる文言だが俺はそうは思わない。そんな時計はない。時は止めてはいけない。あんな綺麗な男をいつまでも、雨の中に閉じ込めておくわけにはいかない。
 俺は後に残された懐中時計を綺麗に拭い、金庫に収めて鍵をかけた。八戒の時間を動かすために直した時計だ。もう誰も文字盤をのぞく必要はない。
 問題はこのての客が軒並み、手付金である修理代の一割しか払っていかないことだ。
 一か月の天国代としては差し引きゼロだが。
 




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