「…大雨の次に雷、次は火事、おまけに地震かい」 煙草屋の主人は手元の紙巻に火をつけるのも忘れ、地鳴りが収まるまで身構えたまま待った。 いったい誰がご立腹なんだ。神様じゃなきゃ、伯爵様か? 火柱が上がると同時に、地面が揺れた。 八戒と悟浄は軒先で、悟空と三蔵は2階で、花喃は車の中で、金蝉は書斎で、独角は翌日に新聞でそれを見た。 珍しくもない大雨、死者2名で済むはずだった事故。尾鰭のついた噂が飛び回り、鎮火するまで1年かかった。 かつて9人、正確には8人もいた伯爵の血をひく兄弟達は、その日を境にゆっくりと散り散りになる。 随分後で、三蔵は言った。 …もう、とっくにこうなることになってたんだ。 おまえが来る前からこうなりかけてたんだ。そんなことは俺以外、皆知ってた。 家なんて、誰かから譲り受けるものじゃない。兄弟が減っていくのは、この家に限った話じゃない。 これからは自分で選ぶんだ。家も家族も、これからのことも。 「遅い!」 悟浄がほろ酔いで夜道を戻ってくると、独角が玄関の前で仁王立ちしていた。 「…まだ10時じゃねえか」 「俺より遅いんだから充分遅い。未成年だぞおまえは」 「そうだっけ。はたちだと思ってた」 「19だ!」 怒鳴った後で独角は、悟浄が思わず吹きだしたのを見て気まずそうに目をそらせた。 「…晩飯は」 「食った。奢りで」 「おまえな、女にたかるなんて真似はもっと大人かもっと子供がするものでだな」 まだ背後で小言は続いていたが、悟浄はさっさと洗面所へ行き、無駄だと知りながらも煙草の匂いを消すべく口を濯いだ。これじゃまるで年頃の娘に気を揉む父親だ。10時帰宅で小言を食らうなんて伯爵家にいた頃よりまだ厳しい。もっとも伯爵は小言などすっ飛ばして家の為に鞭を当て、兄貴は自分の為に玄関で怒鳴ってくれてる訳だから、比べようもないけれど。 「…いや〜…ありがたいね兄貴ってものは…」 「悟浄。座れ」 相手の反応などまったく頓着せずに言いたいことを言い終えた独角は、湯飲みを置いた食卓を指で叩いた。素直に目の前に座った後も珍しく逡巡し、悟浄に急かされてようやく口を開いた。 「…聞きたいことがあってな」 「何」 「…あの家にいた時な」 悟浄は思わず背筋を伸ばした。ふたりで暮らし始めて以来何年も、独角は伯爵家の話を避けてきた。 「あまり…俺が見るにってことだが…いい思い出なんかはねえよな?…俺が言うのも何だが、嫌な奴ばっかりだっただろ。末っ子はともかく、上のは。…だよな?」 「そうでもない」 「…そうでもないか」 「いい奴もいたし」 「……いい奴もいたか」 「なんなんだよ」 独角は頭をガリガリ掻きむしり、ようやっと唸るように呟いた。 「…いい奴かどうか分からんが、来ててな」 「は?」 悟浄の手から湯飲みが滑り落ちた。 「…どこに」 「俺は嫌なんだけどな?なぁ分かるだろ、もうおまえはあの家とは何も関係ねえしこれ以上関わって目立つのはまずい、特に俺はどーも奴には虫酸が」 「どこ!」 「でもなぁ悟浄、俺はどうかと…」 悟浄は飛び上がって玄関を蹴破り外に出た。町明かりから外れた家の周囲は真っ暗で、勢い余って気の早い虫が鳴く草むらに片足を突っ込んだ。やけにうるさいと思ったら自分の呼吸だ。焦って辺りを見回した悟浄の肩に、ぽんと掌がのった。 「おひさしぶりで…」 「八戒!!」 不意の体当たりを充分予測していた八戒は、それでも受け止め損ねて仰け反った。 「何だよおまえ!信じられねえ!何でここが分かった?こんなとこひとりで来ていいのか!?10時だぞ!?ていうかもう八戒じゃなかったっけ?ごぼう?ごのう?あー何でもいいや、ほんとにおまえか!よく顔見せろ!」 夜更けに往来であんな騒ぎ方されるぐらいなら、家に入れるべきなんだろうが。 独角にとってはどうしても、伯爵家と母の死が直結する。今更貴族に生活の場に踏み込まれたくない。しばらく隙間からふたりの様子を眺めてから、独角はそっと戸を閉めた。 …だいたい、こんな狭い家に入れたらふたりきりにもしてやれない。 「気がすみました?」 「すむもんか!もう会えねえと思ってた!何でここが分かった?ひとりで来ていいのか?10時だぞ!?」 いつまでも返事させてくれない悟浄を手で制し、八戒は町明かりへ悟浄を促した。 「女と賭博で食ってる赤髪を探してくれってね。動かせる人手は腐るほどあるんです」 「…ああ。侯爵様だったな」 双子は生母の実家である侯爵家に戻っていた。嫡男筋が絶えたのだ。 系譜を外れた八戒すら呼び戻されるほど、爵位持ちの跡継探しはどこの家でも苦労の種という訳だ。 「…そんな顔すると思いましたけど、そんな顔しないでくださいよ。もうこのご時世貴族なんか名前だけ。爵位なんて時代に合ってません、数年後には廃れます。今のうち肩書き使っても許してくださいよ、貴方探す為に使ったんですから」 「嬉しいよ」 ぶっきらぼうだが染みこむような実感がこもった懐かしい声で、八戒は思わず泣きそうになった。実際は大変だったのだ。独角は見つけたと思った途端に住まいを変え、侯爵家の領地からも金蝉からも遠く離れた土地を選んだ。もっとも苦労に見合うだけの歓迎は受けたが。 悟浄は行きつけの酒場を外し、あえて混んだ店に入った。力を失いつつあるとはいえ八戒は充分に有名人だ。侯爵位を継いだ時には写真入りで記事が出た。 「しっかし侯爵にも嫡男ぐらいいただろ。バトルロイヤルで全員死んだのか?」 「病死。全員といってもどこかの種馬伯爵と違って子供がひとりしかいませんでしたし」 「9人は多いがひとりは少ねえな。花喃は?元気?」 「元気すぎます。嫁いで出戻って嫁いで出戻って、帰ってくるたびに何故か財産が増えてるし。僕の事より悟空のほうが吃驚ですよ」 あの嵐の日、伯爵家は兄弟の中でももっとも優秀な、2番目と3番目の息子を失った。 5番目は生まれて初めて自分の意志で、爵位継承権を放棄した。7番目が侯爵家に取られ、8番目が籍を抜いたあの家で、残ったのはただひとり。もっとも八戒や悟浄がいたところで、金蝉は悟空を選んだだろうが。 悟空は了承した。成人するまでの補佐に三蔵が就くことと「悪しき伝統」を受け継がないことを条件に。あんな事件があった後では流石に口うるさい親戚筋も、庶子を云々する体力など残っていなかった。家名が残るだけでも有り難い。 何より悟空は皆に好かれた。 爵位制度が廃れて後も上流階級が庶民に慕われて生き残っていくために必要なものを、悟空はきちんと持っていた。 「伯爵の名を絶やすと不動産のほとんどを没収されますからね、悟空はそれが嫌だったんです。おかげでいわく付きのビルも人手に渡らずに済みました」 「おまえは悟空に会えるんだよな」 「ついこの間会ってきました。後期の成績12番ですって。理系全滅の三蔵の教え子にしては上出来です」 「上出来どころかおまえ。三蔵もっと下だろ」 「言ったら怒りますよ」 「言えねえよ。会えねえもん。会ったら言うけど」 「貴方に会いたがってましたよ、ふたりとも」 悟浄は三蔵が自分に会いたがる理由を懸命に考えてみたが、“悟空が喜ぶ”以外は何も思いつかなかった。 「…金蝉は。爵位譲って悠々自適ってわけでもないだろ」 「優しい貴方はご心配でしょうが、僕は金蝉があそこまでショックを受けてくれて嬉しいです」 相変わらずグラスを空けるスピードは悟浄の倍だ。 「初めて人間らしいところを見ました。あれで僅かも我が身を返りみないようならそれこそ人間じゃ」 「八戒」 「言い過ぎました」 金蝉は、嵐の前も後も、動揺など微塵も見せなかった。 ただ一瞬、たった一言、車に向かって血相を変えて叫んだ。 天蓬!待て! 冷静で、判断力に長け、伯爵としては非の打ち所がなかった金蝉は、冷静なまま、まったく唐突に王座から降りた。その時になって初めて、全員が金蝉の受けた傷を知った。 貴族の家に子供が多いのは、例えればだるま落としのように、どの階が飛んでも家が崩れないようにだ。だがあの家に限ってはビルだった。9階建てだからといって2階と3階を失ったビルが、そのまま建ってはいられない。 「侯爵になってみて」 八戒はあくまで上品な仕草で、焼酎を瓶ごと持ってこさせた。 「やっと金蝉の苦労が分かりました。あまりに莫大なものが手に入るから余程自分を律していないと次の一歩も間違える。その点悟空は大丈夫。最初から跡継にはあの子が一番向いてたんです」 その時悟浄も、悟空が家にやってきた時のことを思い出していた。 …あいつはあんたの最高傑作かもしれない。 「そういえば悟浄、煙草」 「吸わせろよ。家じゃ吸えねえんだよ」 「じゃなくてあの煙草のこと。聞いたでしょ」 天蓬の部屋からごっそり出てきた花の匂いの煙草は、金蝉があっという間の早業で焼き捨てた。アルカロイドを吸わせた違法煙草。ほんの僅かに阿片を含む。悟浄はそうとは知らずに時々相伴に預かっていた。金蝉が入手ルートを辿ると某輸入会社に行き着き、最終的に捲簾のシンパと繋がった。 「社会的信用を下げる嫌がらせの一環だったのか?本人知らずに吸ってたんだよな。知ってたら俺にくれねえだろ」 「気付かないような人でしょうか。現に貴方には間隔おいて渡してたでしょう。知っててあえて吸ったのかも」 …アレは幻覚を起こすというけど。 微量にせよ視覚に影響を与える可能性があるものを捲簾が天蓬に流したという事に、意味があるのかないのか。本人たちにしか分からないことだ。誰のどの事情でも大概そうだが、あのふたりの場合特に、すべて、全部がふたりにしか分からないことだった。まったく、何もかも。最初から、最後まで。 丁度ぽたんと沈黙が落ちたところで店員に肩を叩かれ、ふたりはのろのろと看板の明かりが落ちた酒場を出た。 どこで何を話そうと、もう短気な嫡子に怒鳴り込まれることも、銃を突きつけられることもない。伯爵家の思い出の大半は独角の言うとおり不愉快なものだったが、不思議に苦くない。切ないような、もどかしいような、人生のほんの一部分が、そんなジェットコースターのような時代だったというだけの、懐かしい過去。 「…また会えたりすんのか?」 聞いた悟浄は視線が空の彼方だ。 「あ、爵位制度は数年で廃れるって言ってたもんな。数年経ったら普通におまえにも悟空にも会えるようになるな。うん。すぐだ。……数年って何年だろう」 「ええ、すぐです」 八戒は軽く頷いた。 「とりあえず明日」 「明日!?急だな」 「早朝迎えをやります。僕と旅行へ行きましょう」 動きが止まった悟浄に向かって、八戒は指を一本立てた。 「…あのね悟浄。僕がわざわざ貴方の顔見るためだけにここまで来たと思います?」 「…思ったら駄目だったのかよこの野郎」 八戒は懐から封筒を引っ張り出して、街灯に翳した。差出人の名もなく、ただ見慣れない“悟能”宛の表書きだけが素っ気なく書かれた安物の封筒。その、まるでやる気のない筆跡には覚えがあった。 毎朝食卓の上に積み上げられた膨大なメモで。メイドが持ってきた言伝で。 「傑作でしょ?まさか僕宛に手紙を寄越すとはね。そりゃ金蝉のいる伯爵んちには出せないし、あと居所がはっきりしてるの僕だけですもんねぇ」 八戒は口を開けたままの悟浄に向かって、はははと笑った。 「会いたいですか?会いたいですよね?」 「…会うって…これ住所書いてねえし消印も何て読むんだこれ」 「そこは侯爵特権で警察まで使って調べましたよ、時間も費用も貴方探すのの三倍掛かりました。もう悟浄と行きますって返事出しちゃいましたから、悩んでる時間など皆無です」 「…ちょっと待てよ」 「明日、即、行きましょう。手紙と同時に着かないと逃げるかもしれません」 八戒は封筒から三つ折りの便箋を引き出し、丁寧に皺を伸ばして悟浄に差し出した。わざわざ手に取るまでもなく、簡潔な文章から望んでいた文字が浮き出すように目に飛び込んだ。 「独角は適当に言いくるめて外泊許可取ってください。日帰りは辛い距離です」 八戒の口調は妙に早かった。緊張しているのだ。昔屋敷にいた時そうだったように。何度もあの目で足を竦まされたように。 「…八戒」 「何です」 「まだおまえに言ってないことが」 八戒は長い睫を2度上下させた。 「兄弟じゃねえんだ」 「…誰と誰が」 「俺が、誰とも。こいつらと何の関係もないし、つまり…誰とも関係ねえんだよ。なのに行っていいのか俺」 「…関係ありますよ」 八戒は一拍おいてから、息を吐くついでのように自然に言った。 「だって会いたいでしょう」 元気です。…何という書き出しだ。その挨拶は何だ。その前に言うことがあるだろう。生きてましたとか。 天蓬、あんたはやっぱり凄い。助けるなんて。縁もゆかりもない俺を助け、金蝉を助け続け、最後の最後にまったく助かろうとしていない馬鹿すら。 八戒はくるりと踵を返し、二、三歩行ってから振り返った。 「また明日!」 「なぁ、おまえ返事に何書いた!?喧嘩売ったりしたら会うなり殴られるぞ、人はそうそう変わらねえんだから!」 「だから貴方を連れていくんじゃないですか!」 『前略 まったく苦労をさせてくれます。捜し当てるのには骨が折れました。こういう時にこそ地位を利用するものだろうと、ありとあらゆる伝手を使いました。こんな昔の金蝉みたいな真似はしたくはなかったんです。元はと言えば貴方が、よりによってこの僕に手紙など寄越すから悪いのです。僕は出会ったその瞬間から貴方が嫌いで、多少和らぎはしましたが今も嫌いで、その証拠に、貴方が渋々僕に手紙を書いた様子を思い浮かべると笑ってしまうほどです。侯爵位継承おめでとうございますなんて、 いったいどんな顔で。あの時と同じで無表情なままでしょうか。それとも今は、違うのでしょうか。 こんなこと、手紙でないと怖くて書けないので大口はお許しください。未だに貴方の字を見ただけで震え上がりそうです。 あの嵐の日、黒焦げのうえぐちゃぐちゃにくっついた二台の車を引き上げて、潰れた死体が転がり出てくるかとびくびくしながら引き剥がした僕らの気持ちが分かりますか。死体なんか影も形もなかった時は一瞬ほっとしましたが、消し炭になって川に流されたかもしれなかったし、ご丁寧に血痕はあるし、死んだのか生きてるのか生きてたけど死んだのかさっぱり分からない。残された僕らの気持ちが分かりますか。勿論分かるからこうして手紙をくれたのでしょうが貴方のおかげで僕らがどれだけ振り回されてどれだけ ああ書いてるうちに面倒になってきました。うちは伯爵家と違って資産は尽きかけてるんです。探索費用のうえにインクまで無駄に使ってる余裕はありません。こんなことは会ってから聞けばいいことです。 覚悟はできていると思いますが、この手紙が着く頃にはとっくにそっちへ向かっています。怪我も治ったそうですから尋問にも喧嘩にも不便はないでしょう。 ふたりを相手にして一人では心許ないので、悟浄を連れて行きます。会った途端に殴り合うにしろ何か…思いがけなく他のことをするにしろ、ふたりのほうが都合がいいでしょう? それではお会いできるのを楽しみに。 草々 追伸・運転手の方がどうなったかどちらか御存知ありませんか。金蝉が気にしていたので。』 半身川の水に浸かりながら何とか立ち上がった運転手は、背後の火柱を振り返りもせずにのろのろと土手を上がった。 もう屋敷には戻れない。あの腹立たしい次男坊のおかげで戻る場所を失った。 金蝉から申しつけられた職務はおそらく果たしたが、奴にあそこまで言われて、おめおめと命を救われて、どんな顔で戻れというのだ。どんな顔で報酬を受け取れというのだ。明日からどんな顔で、奴の抜けた兄弟のうちの誰を車に乗せて、どこへ運べというのだ。 もうできない。これが最後の運転だった。そうでなくては運転手が同乗者を葬るために突っ走れるものか。何もかも失った。奴のせいで何もかも。何と言ってたか、奴は。…捲簾様は。 てめぇ自身より金を欲しがるのか、てめぇの家族は。 雨と泥水と目からの水でぐっしょり濡れた顔を拭うと、運転手でなくなった男は稲光の轟く空を見上げた。 帰ろう。家へ。 私の家へ。 fin |