元気いっぱいに帰途につく悟空を、ヒラヒラ手を振って見送った。
 角を曲がって小さな体が見えなくなった途端、俺はパタンと手を下ろし、八戒はこの3時間浮かべっぱなしだった微笑の看板を店の消灯と同時にあっさり下ろした。
「…なんか元気だな、あいつ。酒強くなったか?」
「マスターに頼んで途中からアルコール抜いておきました」
「はぁ。さっすが」
 瞬く間に暗くなった道をのろのろUターンして家路についたが、お互いたっぷり5分は無言だった。
 悟空がわざわざ俺らを呼び出してぶちまけた話というのは、要点をかいつまむと「俺は三蔵のことが好きだけど三蔵も俺のことが好きらしい」という、まあ、更にかいつまめばノロケだ。
「……意外でした?」
「……意外っつーか」
 それどころじゃないっつーか。
 途中まではふたりして大喜びで聞いていたのだ。面白くない訳がない。相手をよく知らないのにノロケられると反応に困るが、もういいってほどよく知った奴だ。ああ、あの堅物がその時どんな顔をしてどんな反応を返したことか。嬉しさと戸惑いと驚きと保護者としての自覚が一斉にぶつかって、まったくの無表情になる様が容易に想像できて、俺はテーブルをバンバン叩いて笑ったし、八戒は悟空の成長を目の当たりにして頬が緩みっぱなしで、しまいには偉い偉いと悟空の頭を撫でだした。
 そのまま酔いに任せて楽しく一夜を終えていればよかったものを。
 急に我に返った八戒がひとことで空気にヒビをいれてしまった。
「そういえば悟空、何で僕らに話す気になったんです?三蔵は嫌がるでしょ」
「え?ううん別に。だって」

 パシン。

 悟空に割れた空気を気づかせなかったのは八戒と俺の甲斐性のせいでは決してなく、単に悟空を丸ごと抱きかかえていた幸せオーラと酔いのせいだ。
 ああ、こんなことになるなんて家を出た時には考えもしなかった。世の中って刺激的。
 このまま聞かなかったことにするには、あまりにも長く黙りすぎた。 
 先に口を開いたのは八戒だ。
「……このまま真っ直ぐ帰ります?」
「あっ!」
「え!?」
「何でもない」
 そうだ、どうせならあのまま次の店行ってもっと酔っちまえばよかったのに、何をうっかり俺は町を離れてこんなとこまで歩いて来てしまったんだ。
 この先には公園が、といってもベンチがあるだけの原っぱだが、ある。真っ直ぐ帰らないと言えばそこしかない。八戒とは同居して間もなくの頃、よくここへ来た。夜に外へ出てきて相手の顔がよく見えない状況で、缶コーヒーを啜りながら話した。姉のこと、兄のこと、両親のこと、孤児院のこと、雨のこと。ひとつ屋根の下に住むもの同士、いつか話しておかなければならないが改まって話すと重すぎるような事は、全部外に吐き散らした。夜の空気が蟠りをしっとり吸い取って、朝には霧散させてくれる。そうやって、今までうまくやってきた。
「…どうしようかねぇ」
「ま、座りましょう」
 いち早く立ち直ったらしい八戒は、俺のジーパンの後ろのポケットに勝手に指をねじ込んで小銭を抜き出した。いつもそこに煙草銭を入れたまま洗濯機に放り込み、洗濯槽から響くけたたましい騒音を背景に八戒と喧嘩になるアレだ。何度言われても直らない。
「コーヒー?」
「…烏龍茶。ホットで」
 八戒は指先で小銭を跳ね上げた。
「冷たいのなんかもうないです」
 そうか、そんな季節か。
 角の自販機にすたすた歩いていく八戒と逆方向に歩いて、俺はベンチに腰掛けた。石の冷たさが這い上がってきて、飛び上がるぐらいの震えが来た。
 どうしよ。どうしよう。
 ちょっと待て、熱い茶なんか呑んだら冷静になってしまうではないか。
「やっぱお汁粉で!」
「ないですって!」
 八戒は熱い烏龍茶二本を掌で転がしながら戻ってきた。行って戻ってくる間の1分弱で頭の中で何が起こったのか知らないが、とにかく俺の隣に座った八戒にはいつもの微笑が復活していた。
「自動販売機症候群って知ってます?」
「知んない」
「つまり自動販売機になりたい症候群」
 なにがつまりか。
「自分を必要とする人だけが向こうから来て小銭を入れて、こっちは選んでくれたものを選んだぶんだけ返す。必要じゃない時は、いることにも気づかずにほっといてくれる。人間関係が不得手な人が陥るものなんですが」
 八戒はプルトップを引き上げた。
「貴方、そんな感じです」

 え?ううん別に。だって、ふたりはほら、先輩だからさあ。

「悟空は、僕と貴方が付き合ってると思ってるんですね」
「…ですね」
「てことは三蔵も思ってるんでしょうね」
「…でしょうね」
「誤解を解きますか?」
 煙草の火がじりじりと、指に向かって突き進んでくる。
 是非解きましょう!と言われたら「うん」だ。
 解かなくていいですよね?と言われても「うん」だ。
 解きますか?はねえだろう。
 ずるくても決定的なことを自分から吐きたくない。俺を押しつけたくない。このままつかず離れず空気みたいに何となくうまくいくんだと思ってた。こんなふうに向かいあうなんて話が違う。向かい合ったら変わってしまう。
「おまえの好きなようにすれば?」
 八戒の瞳は一瞬揺れて、燃え上がった。
「…貴方、いっつもそれですね。分かりました。後で文句言わないでくださいよ。知りませんからねどうなっても」
 …どうなるんでしょうか。

 弱い月明かりの下で息を殺してひっそり佇む自動販売機。
 名前がないし顔もない。
 誰の邪魔もしないのに。
 おまえが選んでくれれば何でもするのに。
 きんきんに冷えた茶でも汁粉でも出してやるのに。
 八戒はザクザク公園の出口に向かい、健気なそいつをいきなりぶん殴った。

「僕は好きですよ悟浄!」

 俺はようやく自分に名前があったことを思い出した。




fin

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