私生活
act10
「…痛くない?腰とか」
悩んだ挙げ句、悟浄はようやく口にした。
どうよ、そのセリフ。挙げ句自分で突っ込んだ。あんまりにも普通に朝食作って普通に食ってる目の前の八戒が、夕べのことを「なかったこと」にする気じゃないかと思うと何でもいいから何か聞かずにいられない。いや、なかったことにされてもこいつがそっちのほうが楽ならそのほうが。とか何とか考えているうちに八戒の返事は滞りなく戻ってきた。
「まだ入ってるみたいな変な感じはしますけど、時間かけてしてくれたから痛くはないです。やっぱり巧いんですねえ貴方」
悟浄のほうが赤面した。手元がくるって半熟の目玉焼きが破れ、どろりと黄身が流れ出す。どっちが抱かれたんだか分かりゃしない。
「…あ…そう…。それは良かった」
「ありがとうございました」
一旦火照った体がすうっと冷えた。
ありがとうございました?
「悟浄、それはそれとして相談があるんですけど」
それはそれとして?
悟浄の混乱とはまったく別次元にいるらしい八戒は、極々自然にコーヒーをつぎ足してくれる。
「院に誘われてるんです」
「…いん」
「大学院。どうなんでしょうね。教授になるんじゃなかったら4年で卒業して就職したほうがいいと思います?理系と比べたら就職に有利にはならないって聞きますけど、業種とか職種とかいまひとつ思い浮かばなくて。適正診断受けたら学術関係A判定でしたけど、院進学となると当然フランス語もラテン語もとなって、ますます就職と縁遠く…」
八戒は、悟浄が自分をなんとも複雑な顔で直視しているのに気がついて言葉をきった。
「…なんですか?」
「それ本気で相談してるんだよな」
「…何でそんなこと聞くんです。これ以上ないくらい本気ですよ。貴方が将来の夢話してくれたときは本気じゃなかったんですか?」
「今、俺、それどころじゃない」
八戒が、何か言いかけて、止めた。
ごめん。口の中で呟いて悟浄は上着を掴み、挨拶もそこそこに呆気にとられている八戒の部屋を飛び出した。
別れ際の恒例のキスもすっ飛ばして。
寒さも朝日も八戒の視線もいっしょくたに、体に刺さる。
何やってんだ俺。何言ってんだ俺は。あいつは真面目だぞ。いくら混乱してても返事くらいできるだろ。俺は一日も早く社会に出たいと思うけど、院こそ誰にでも行けるって訳じゃないんだし、おまえなら行こうが行くまいが就職にマイナスになんかならねえよ、どこに行っても成功する。俺が上司だったらおまえ以上に頼りがいのある部下いねえし、部下だったら信じてついていける。本当にそう思う。それだけのことが何で言ってやれない。
…あのいつもの変わらなさが悔しくて。俺に気をつかっていつもと同じを装ってくれてるとしても装える程度なのが悔しくて。
出会ったときはあいつの考えてることなんか全部分かった。人を見下す目も歯に衣着せない毒舌も素直すぎるほど素直だった。八戒は自分のことをあの時よりはきっと好きで、勿論俺は八戒をもの凄く好きになって、相手を傷つけまいとして少しずつ嘘をついて、嫌われるのが怖くてひと言ずつ言葉を減らしているうちに、世界中で一番訳の分からない相手になってしまった。友達ですらなくなってしまった。俺が何で出てきたのか八戒にはきっと分からない。
友達のままのほうがいいと言った八戒は正しかったのか。好きになった自分が間違ったのか。
好きになるのが間違いなんてことがあるか?あっていいのか?
「…くっそ」
バイクで来れば良かった。自分の歩調に合わせて一歩ごとに後悔やら鼓動やらあいつの顔やら夕べの断片やらが浮かんでは消えていつまでも振り切れない。
楽しくない。恋愛なんて全然楽しくない。そんなことも今まで知らなかった。もうあいつと癖になったキスなんかできない。
抱かなきゃよかった。あいつの中に入らなきゃよかった。吐き気がするほど後悔してるのに、一度抱いたら、そばにいるだけで幸せだと思ってた今までがママゴトみたいだ。
「…どうしよ」
漏れた声が掠れるのも景色が揺れるのも寒さのせいにした。
もう好きだか憎いんだか分からない。めちゃくちゃにしてやりたい。あの目も耳も声も丸ごと抱き潰してやりたい。それができないならもういらない。
俺は汚い。
「クリスマスイブ翌日にカップル出社って、よくよく考えるとある種、露出プレイみたいなもんですよね」
大学にカップルが溢れているのはいつものことだが、今日は特にカップル度が高い。学生課にレポート提出に来て、廊下でばったり遭遇した途端の八戒のセリフに一歩もひかないのは宮くらいだ。
「まあ、さっきまでこいつとやってましたって顔に書いてあるようなもんだよね」
返しながら、宮はいつものように微笑を浮かべた八戒の猛烈な不機嫌には勿論気がついた。
「八戒。夕べは悟浄といたんだと思ってたけど」
「…いましたよ」
「芸術学専攻も今日レポート提出だよ。なんで一緒じゃないの?」
え。
八戒はぐるりと体を反転させて掲示板に貼り付いた。芸術学…25日15時締め切り。
「今、何時ですか!?」
「…12時ちょっと前」
「電話!もしかして忘れてたらあの人」
「ちょっとちょっと八戒!学生課で提出者のリスト見てもらえば分かるじゃない」
「あ、そうですよね!宮さん天才」
柄にもなく動揺してあたふた戻っていく八戒を見送りながら、宮は何とも不思議な気分になった。あのふたりがどういう関係だか本当のところは知らないが、少なくとも普通の友達以上。「あの人」の言い方で何となく分かる。
「…先週のうちに提出されてますね」
職員が親切にリストを繰って教えてくれた。
「…あ、そうですか。…すいません、わざわざ」
頭を下げて廊下に出ると長々と溜息が出た。ちょっと夢を見た。忘れてたんですか、貴方って人はボケなんだから。大丈夫ですよ、遅延届でも医者の診断書でも適当に偽造しとけば一日延びますから。…なーんて図を。悟浄は自分が助けなくてもいつでも何でもできる。この性格の悪さをどうしよう。今の悟浄は自分を卑屈にさせる。自分も男だから分かる。抱き締めたままほんの一瞬も相手から体を離さない、信じがたいほど成熟した緩やかなセックス。あれじゃ、自分はよくても悟浄はたいしてよくないだろう。相当、我慢しただろう。
「どしたの。提出済んでた?」
宮は廊下の端で待っていた。
「…済んでました」
「そう。良かったじゃん」
良かった。良かったに決まってる。
「宮さん」
「何?」
怪訝そうに髪を掻き上げた指先に初めて気がついた。自慢のはずだった爪が短い。
「貴女、最近の悟浄、好きですか」
どうとでもとれる質問だったが宮は間髪いれずに頷いた。
「昔は眼中になかった。くれる?」
「え?」
「悟浄よ。私にちょうだい。悟浄がいるの。必要なの」
宮は穏やかに微笑んでいて、綺麗だった。思ったことを口に出すことになんの躊躇いもない清々しさ。何時の間にこんなに弱くなったんだろう。誰にも負けたことがないのに、この人にも悟浄にも勝てる気がしない。
「…悟浄は僕のものじゃないですよ」
「分かった。その程度なら遠慮しない。もうもらったからね。返さないから。思いこむとね、その通りになるのよ」
悟浄にとって自分が必要じゃないように 自分にも悟浄は必要じゃない。
絶対この人に悟浄を渡したくない とも 思えない。
それから悟浄と宮の間に何かがあったかもしれないし、なかったかもしれない。
結果的にふたりは真剣に付き合いもしなければ、気まずくなりもしなかった。
今から思うと、宮は自分の背中を押してくれようとしただけかもしれない。かも、しれない。もう遅すぎるけど。
悟浄。僕は貴方が好きでした。貴方が望むような好きじゃないんでしょうけど、それなりにちゃんと好きでした。
キスしてくれて、抱いてくれて、いつも優しくしてくれて、優しすぎるくらい優しくしてくれて、本当にありがとうございました。
本当にそう思ってるんですよ。どうせ貴方はそれが冷たいとかなんとか言うんでしょうが。
最後だけ優しくなかった。最後にねだったキスは断られた。
今から思うと、ひょっとしたらあれが、本当に優しいってことなんだろうか。
かもしれない。
もう全部遅すぎるけど。
fin