私生活
act9
八戒はどこにも行き着いてないのに勝手に行くとこまでいって、何もすることがなくなったみたいな奴だった。
片方だけ100年先にいる。押しても引いても何も返ってこない。そんなの、ひとりより耐えられない。
今、取り立てて不幸な訳じゃないし、昔に戻りたいなんて思わない。
でもたまに見る昔の夢は、おまえと別れたあの日だよ。ひとこともなかったおまえだよ。
いきなり夏から冬だ。
「寒……」
あーもー詐欺だ詐欺だとうっかり半袖の腕をさすりながら夜風が吹き込む窓を閉めようとして、悟空はたまたま会社の正面玄関から出て行くふたりを見た。
八戒と悟浄。
ここは2階。ふたりの様子はじっくり窺わせて頂きたいが自分は見つかりたくない。悟空は壁際に身を寄せて、カーテンを体に巻き付けた。
悟浄がぼそぼそと何か言って、八戒が笑ってる。子供みたいに。なんだ。あの人、笑うんだ。
「何へらへらしてんだ猿」
振り返ったところに三蔵がいた。
三蔵を前にすると誰もがギクシャクと緊張するのだが、悟空にはあまりぴんとこない。部長だからと言われてもよく分からない。八戒も、怒ると怖いから緊張するだけだ。でも三蔵は自分には怒らないし、悟空が今まで生きて来て見た中で一番綺麗な人だ。
「猿って言うな」
「おまえ、よく俺にそういう口がきけるな。大丈夫か会社員がそんなんで」
「何が?」
三蔵は説明しようとしたが面倒になったらしく、はぁっとアルコール臭い溜息をついた。
「まだ帰んねーのか」
「八戒見てた」
手招きされて怪しい足取りで近づいてきた三蔵は、かなり勢いよく窓から身を乗り出した。落ちるんじゃないかと悟空は慌てて三蔵の背広の裾を掴んだ。
「…何やってんだあいつら」
「え?」
三蔵は突然バシンと窓を閉め、足早にフロアを出ていこうとして傍のゴミ箱にぶつかった。
「三蔵!」
誰もいなくてよかった。自分しか見てない。
「誰が呼び捨てていいっつった!」
「何だよ、どしたの?酔っぱらってんだろ、走らないほうがいいよ。走るとまわるよ」
三蔵は一瞬不意をつかれたように悟空の顔を見て、ちょっと赤くなり、そこにあった椅子にどさっと腰を下ろした。悟空がペットボトルのお茶を差し出すと、大人しく飲んだ。
勝手に頬が緩んだ。心配されて急に素に戻ったらしい。何だか頭を撫でたくなったが怒るかもしれないので我慢した。
「…悟浄が何でここにいる。よく来るのか?」
「昨日も来て、しかも上の連中と呑んでった。別に変じゃないじゃん。うちに入ると思うよ」
「……嘘だろ」
声が酷く辛そうだったので、悟空は三蔵の足下に正座して顔を覗き込んだ。飼い主のご機嫌を窺う犬みたいだ、と少し思った。いいや犬でも猿でもなんでも。
「なんで?今デザイナーひとりで、もうひとりいると凄く助かるし、そしたら仕事早くなって結局三蔵も助かるんじゃないの。悟浄がどういう人か知んないけど八戒と仲いいんだろ?八戒と仲いい人が入ってくれたら皆すっげー助かるよ、あんな笑うとこ初めてみたもん」
「だから!」
悟空が黙ると、三蔵はくしゃっと自分の髪を掻き回した。ああ勿体ない。
「…八戒はダメだ、あいつは多分、色々あって、それでも何とか突っ張ってぎりぎり保ってるような奴なんだよ。やることなすこと極端なのはそうしてないとダメだからだ、あいつはそっとしとかないとダメだ、そっとしといたほうがいいんだ、また何かに振り回されて違う方に極端なことになったら、あれ以上変になったらどうすんだ」
暗号?
憤ってるうえに呂律が怪しい三蔵のセリフは悟空にはまったく理解不能だ。今から思えば三蔵は、ふたりの未来を予期していたのだが。
「だ、大丈夫だよ。俺が見張ってるから!」
「…恐ろしいほど頼りにならない…」
「頑張るから」
悟空は手を延ばして、撫でたくてしょうがなかった三蔵の頭をよしよしと撫でた。
…ほら。怒らない。
窓から目撃されていたとは露知らず、八戒は悟浄の手をしっかり握って歩いていたが、握ると言うよりただ引っ張って歩いているに近かった。たまに方向を補正しないと悟浄が蛇行する。
「和食がいいんでしたっけ」
「あ?あ、なんか言ってみただけだった。何でもいい」
悟浄はよく「ピクニックに行こう」とか「海見に行こう」とか適当なことを言った。本当に行ったこともないし、真剣に行きたかった訳でもなく、単に「八戒に優しくする」ことの一端だった。髪を撫でたり、キスしたりするのと同じ。好きだとか、一緒にいて嬉しいとか言うのと同じ。
メシ食いに行こうか。サンマとかサバとか牡蠣とかナスとか里芋とか炊き込みご飯とか茶碗蒸しとか、そういうの。
ただの、柔らかくて優しい言葉。
「編集長」
「はい」
「今日おたくの社長にトイレでお会いしました」
「…それはまた男らしい場所で」
「入社にあたってひとつ条件があるそうですよ」
「何です?」
「八戒と手を繋ぐな」
八戒は思わずぱっと手を放した。悟浄はくすくす笑って、ポケットに手を突っ込んだ。
それから、わりとまっすぐ、きちんと歩き出した。
「誰かと手を繋いでると俺がこけた時そいつまでこける、こける時はひとりでこけろって」
「…ああ」
如何にもボスが言いそうなことだ。
言われなくても誰かと共倒れたりしない。誰かの手になんか縋らない。
社長はまだ自分を舐めてるのか。こんな敵だらけの場所でここまで結果を出しても、まだ弱く見えるのか。
「…これから辞表出したりなんやかんやで、しばらく面倒くさいですね悟浄」
「はは、面倒くさかったらよかったけどね。星野さん大喜び」
八戒は思わず立ち止まり、しかしもう手を放してしまった悟浄は止まってくれないので後を追った。まだ10月だというのに吐く息が白い。
「大喜びしてんの分かっちゃった。顔じゃそりゃ参ったふうだったけど、チーフと揉める新入りがいなくなって清々したんじゃねえ?何だかんだで俺、人気者人生だったから、いなくなって喜ばれたの生まれて初めてだわ。まあ円満っちゃ円満だけどよ。朝から晩まで尽くしてくたびれきってこっちからふった相手に喜ばれるのは泣かれるのと同じくれえ複雑だな」
…喜びも泣きもしなかった自分はどうだったんだか。
「頑張るとか努力するとか、そりゃまあしたほうがいいけど、すりゃきちんと報われるってもんでもねえんだな」
「頑張ったら誰かが誉めてくれるなんてせいぜい小学校まででしょ」
「うーわ」
「恋愛と一緒。希望して入社して、希望して退社するんだから、告白しといてふるのと同じじゃないですか。ふっといて相手の反応で自分の価値はかろうなんて甘すぎる。そもそもちゃんと頑張ってたから三蔵に目ぇつけられて、僕に目ぇつけられて、社長に目ぇつけられて、優良企業にこうして入社が内定したんですから立派にご褒美が返ってきたじゃないですか。何が不満です」
「ありがたいと思ってます」
悟浄が俯いたので、八戒は小走りに並んで煙草を取り上げた。路上喫煙禁止区だ。
「でもひとこと欲しい時もあるじゃん。そういうので人生変わったりするかもよ?」
…何が言いたい。
「八戒。おまえそういうこと、覚えたほうがいい」
ゆうべスーツを借り受けて会社を出た悟浄は、加瀬及び八戒の部下たちに「紅い人!」などという奇妙奇天烈なセリフで呼び止められて飲み屋に連行され、朝の3時まで付き合わされた。くれぐれも八戒には内緒で、を前提に浴びせられる質問は八戒さんてどんな人ですか、学生の時どんな感じでしたか、どんな人と付き合ってましたか、部活は、趣味は。
「…趣味は料理と掃除かな」
「うそー!りょうりー!すげーいがいー!」
「意外か?すげえ美味いよ煮物とか」
「うわー!しんじられねー!らぶらぶー!」
「部活は大学ん時は無所属で、高校ん時は将棋と生徒会の書記」
「しょうぎー!しょきー!まんまー!」
「初体験は高校1年で相手は6歳上」
「ぎゃー!むちゃくちゃ早熟かむちゃくちゃ遅いと思ったらふつー!」
どこまで喋っていいんだ八戒。
「ていうか一緒に働いてるあんたらのほうが詳しいんじゃねえの。俺ここ何年も会ってなかったし、こっちが聞きてえぐらい…」
言ってから悟浄はたちまち後悔した。全然聞きたくない。
「あの人自分の事何も言わないんだもん。えーなんかないんですかーこんな馬鹿だったとかー失敗談とかー間抜けな話ー」
俺と付き合うほど馬鹿でしたよ。
「…もしかして上司の弱みが知りてえの?」
一斉に首が縦に振られた。
「…嫌いだから?」
「まさか」
一斉に首が横に振られた。馬鹿は俺だ。嫌いな奴の趣味なんか知ってどうする。
「好きになりたいからですよ」
ゆうべと同じ店で筍をつつきながら、八戒はぽつぽつと仕事の話をした。
多少あたりがきついかもしれないが、それが自分のやり方なのであまり驚かないで欲しい。悟空はまだ若くて経験が浅いから色々と面倒をみてやって欲しい(ただし変なこと教えないように)。女性が多い職場だが女遊びはほどほどに。実績に比べて待遇に不満があればいつでも社長と直談判できる。新年会と忘年会と社長の誕生日は必ずパーティーに出席すること。服装も出勤時間も自由。自分を目の敵にする者も多いが、そのことで何かとばっちりが来たらきちんと知らせて欲しい。自分が何か酷いことを言われていても絶対に庇わないこと。それから…
「悟浄。聞いてます?」
「聞いてるよ」
また酔ったか。
炊き込みご飯の湯気で曇った眼鏡を袖で拭くのを、悟浄は氷をカラカラ言わせながら見ていたが、急に手を延ばして八戒の手を止めた。
「傷がつく」
「…ああ」
「美味い?」
「…美味しいですよ」
「じゃあそういえよ。…皆に」
八戒はしばらく言葉の意味を考えていたようだったが、おそらくはまだ合点がいかないまま「はい」と言った。
八戒おまえ、愛されてるよ。
部下にも、社長にも、それから、多分、三蔵にも。
いつかおまえも誰かの前で、そのままを見せられるようになったらいいな。
我が儘が言えるようになったらいい。
俺はもう無理だけど、おまえにばれないようにきっと庇うから。
その年の忘年会で八戒が、いつもは新入社員が煮込むおでんをいきなり任されて、首を傾げながら味付けする羽目になったことはまたしばらく先の話だ。
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