私生活
act12
「それじゃ、今月号はこれで終了。お疲れさま」
午前5時半。八戒の宣言で、編集部員達が一気に脱力してその場にへたり込んだ。
「今回は手こずりましたねえ…。編集長、どうします?しばらく会社で寝たほうがいいんじゃ」
部下の語尾はあくびに紛れた。既に数人は机に突っ伏して動かない。
「いえ、すぐ帰りますよ。一度寝ちゃうと夕方まで起きない気がしますし」
最後の3日は多分ほとんど寝ていない。視界の下半分が靄がかかったように白く濁っている。こめかみを揉みながら、朝いちで原稿を引き取りに来る三蔵に「よろしく」とメモを残し、部下たちに手を振って外に出た。もう何度も見た起床前のオフィス街。世界中が自分のものになったようなこの感じ。車の影も見あたらない赤信号の交差点を構わず渡りかけ、不意に八戒は立ち止まった。
何度目だろう。
もう何度こんな朝を迎えただろう。
あの人がいてもいなくても関係なく。
「来週の水曜」
悟浄は確かにそう言った。月曜日に退院されましたよ? そんな看護婦の言葉を聞いた時に、驚きも悲しみもしなかった自分が少し不思議だった。
「…ああ、やっぱり」
思わず零した八戒に、三蔵は呆れていたし悟空は怒っていたが、そのふたりの反応が滑稽なほど八戒は落ち着いていた。携帯にかければ案外平然と出るかもしれない。住所は総務部に聞けば分かる。例え引っ越して番号を変えてしまったとしても、広いようで狭い東京でこの仕事をしていれば、黙っていてもどこかの誰かと繋がるはずだ。いや、小細工までして悟浄が足跡を消すはずがない。これは単なる意思表示だ。
しばらく自分に会いたくないか、二度と自分に会いたくないか。
悟浄の話は、会社ではタブーか何かのようだ。ただ社長だけは、廊下で八戒とすれ違いざま「あいつ、元気そうだぞ」と耳元で囁いていった。独立資金を用立ててやったのは社長だそうだ。何故そうなったのか八戒は知らないが、もしかしたら悟浄は自分よりずっとずっと、このオヤジに腹を割っていたのかもしれない。社長と社員ではなくて、友人として。
昔、悟浄を嵐のような人だと思っていた。人を散々巻き込んで引きずるくせに、縛られず従わず、自由な風のようだと思っていた。だから憧れたし、だから追いかけた。自分の手にやすやすと落ちるような悟浄に惹かれるはずがない。
病室で、初めて自分の妻だった人のことを話した。他の男を欲しいがために、汚い仕事を平然とこなす夫を良しとする妻などいない。彼女は、明け方に帰宅した八戒の目の前で、マンションの6階から飛んだ。微笑んで、貴方のトラウマになりたいんだと。これから出会うどんな人も八戒の中に自分を見るようにと。そのためなら死ぬことくらい簡単だと。生きて、いつ失うかとビクビクし続ける恐怖に比べたら、この方が余程幸せだと。
悟浄は特にこれといった反応も見せずに聞いていたが、八戒が話し終えると、ちょっと首を傾げた。
「おまえ、楽しいか?」
「え?」
「俺にさ。そんなこと話して楽しいか?」
それっきり悟浄はその話題には触れず、怪我がどれほど痛くてどれだけ傷が残るかをたっぷり3時間語り、最後には八戒を文字通り土下座させたのだが、責める口調でも何でもない悟浄の一言は八戒をふらつかせた。
八戒が悟浄に「彼女」のことを話したのは、自分がどれだけ長い間、悟浄に捕らわれていたかを伝えたかっただけなのだ。そのために妻さえ死なせた、それほど自分には悟浄だけだったと。
何てあざとい。
悟浄が「それでもいい」と言ってくれるのを待っていた。そのために彼女さえダシに使うほど。死んだ彼女より生きてる悟浄のほうが余程自分のトラウマだ。指輪だって、本当は悟浄に見せたかったのだ。自分が原因で命を投げうってくれた女がいたんだと、何度も何度も悟浄にアピールしたかっただけなのだ。捨てられた側の意地で。
面会時間が終わって帰ろうとする八戒を、悟浄が呼び止めた。
「八戒、キスしてやろっか」
「はあ!?どうしたんですか貴方」
悟浄はうっすらと不思議な微笑を見せたが、八戒が「退院してからでいいですよ」と答えると黙って軽く手を上げた。
それでおしまい。
「キスしてやろっか…ですって。何様なんですかあの人は」
八戒は自宅のエントランスを潜りながら呟いた。多分、自分は今、微笑んでいるに違いない。
あの人は自分を見限った。そりゃあもう、清々しいほどのやり方で。
肩書きや過去に頼って、自分の手札のありったけをぶちまけた自信のなさとプライドの高さを見限った。自分は悟浄に負けたのだ。最初っから勝ち目はなかった。哀しくもないし悔しくもない。手に入るなんて思ってなかった。ただ。
ただ。
「はーっかい」
オートロックの暗証ナンバーを打ちかけた手首を、後ろから肩越しに伸びてきた腕が掴んだ。頬に流れて落ちてくる、赤い髪。息が止まった。
「……ごじょう?」
まさか。何で。何でこの人が朝の6時に麻布のマンションに現れる。硬直した八戒の後ろから、どう考えても悟浄の声と悟浄の匂いが全体重をかけてもたれかかってくる。
「よ〜編集長。3ヶ月ぶりぐらい?」
「……酔ってます?」
いつかどこかでばったり会っても平気だと思っていたのに、他愛もなく声が震える。だって悟浄が。
「んー事務所の連中とそこで呑んでて〜タクシー代なくて〜だあれも泊めてくんなくて〜こんなとこ住んでんのおまえしか思いつかねーし〜」
「何時の話です」
「3時。な〜ちょっとだけ寝かせて。すぐ帰るから」
悟浄の顔がまっすぐ見られないまま、八戒はナンバーを打ち込み扉を開けた。
「…もう僕とはきれいさっぱり別れたと思ってましたが」
「別れるも何も、最初っから付き合ってねーじゃん」
くすくす笑いながら平気でそんなことを言う悟浄を、殴ればいいのか笑って言い返せばいいのか分からない。分かったところでどっちもできない。認めたくないが泣きそうだ。悟浄が通い慣れた部屋のように迷いもせずに自分の家に入ってくる。
そうか、付き合ってないのか。別れることも、二度とないのか。
「おめーさん、もお二日、三日寝てないだろ」
「…ええまあ…でも貴方いったい」
言い終わる前に、かわずがけでベッドに落とされた。
「何すんですか!!」
「寝よ」
「ね?」
起きあがろうとした八戒の額がぎゅうっっと悟浄の胸に押しつけられる。規則正しい心臓の音。…本当に酔ってるんだろうか。適当なようで息苦しくもない完璧な体勢。…酔ってないとしたら、この人は。微かに強張った八戒を宥めるように、悟浄の吐息が髪を撫でる。
「寝ろ」
八戒は一瞬ためらった後、目を閉じた。そのまま、数分。疲労と心地よさで緊張の糸が切れて、本当にうとうとしかかった頃、悟浄の、くっついていなければ聞こえないほど微かな呟きが降ってきた。
「…寝たな?ぜってー起きんなよ」
寝る訳ない。寝てる奴にこんなこと言う訳ない。
「俺は絶対おまえの味方になる」
ほとんど溜息のようだった。無意識のうちに八戒はシーツをきつく握りしめた。
「忘れるな。本当にダメだと思ったら、ほんとーにもうどうしようもなくなったら、いつでも呼べ。どこにいたって飛んできてやる。ムショにぶち込まれたら嘆願書出してやるし、なんならダンプで突っ込んでやる。もう絶対に俺じゃなきゃどうしようもない時は、取り返しのつかなくなる前に俺を呼べ」
悟浄が、ベッドから起きあがるのが分かった。爪が食い込むほど堅く堅く。そうして握っていないと、目を開けてしまいそうで。何か言ってしまいそうで。
「俺ね、おまえが初恋なのよ。知ってた?」
…すっごい、トラウマ。呟く声が不意に声が近くなったと思ったら、頬に派手な音を立ててキスが堕ちた。
「じゃな。元気でな」
悟浄が上着を掴んで、廊下を歩いて、ブーツを引きずって玄関を開けて、閉めた後も、八戒はそのまま動かなかった。 目を開けたら何が起こるか、切れるほど噛みしめた唇を解いたら何が起こるか分かりすぎていたから、いつまでも動けなかった。
ただ、ぼんやりと、あの時、悟空があの人の携帯を盗み見しなければ良かったのに、と見当違いなことを考えた。
あの時素直に指輪を外していたら。
あの時、意地をはらずにキスしてもらっておけば。
あの時。
「……本当にダメだと思ったりしませんよ、滅多に」
できる限りそっと瞼を開いたら、案の定、景色が揺れかけた。
枕に思いっきり顔を押し当てると、あくびをひとつして、今度こそ本格的に目を閉じた。
fin