私生活

act13




 徹夜続きで大不機嫌であることをアピールするためにフロア中の備品にあたりまわって、仮眠室の扉にきちんと使用中の札をかけて、わざわざ二段ベッドの上で丸まっているのに、悟浄だけは臆することなく梯子を登ってこれた。
「は〜っかい。起きねー?」
 返事をしないでいると、肩にポンと掌がのった。
「起きてんだろ」
「…寝てますよ」
「ちょっと取次から2部にクレームが出てさあ、おまえが顔出してくんねえとやばいらしーのよ」
 取次とのトラブルなんか、社内デザイナーとは何の関係もない。悟浄は肘をつくと上半身だけで八戒の上にのりあげた。微かにコロンと煙草と、それじゃ抑えきれないほどの悟浄の匂い。
 布団を頭までかぶろうとしてあっさり止められた。
「なぁってば。助けてやれよ。2部の安賀編集長、同期だろ?たまには人に優しくして功徳積んどかねえと天国行けねーよ?」
「……よりにもよって貴方を使いに出すその性根が許せません」
 悟浄がクスリと笑った気配がした。
「やらせてやっから」
「そ…」
 八戒は危うく即答しかかった言葉を呑み込んで、ゆっくり10数えた。
「…何回ですか」
「何回でも」
「本当ですね」
「…3回」
 そんな構図を悟空も三蔵も1週間に1度は見た。わざとらしいあくびを繰り返しながらいかにも嫌々悟浄に引きずられていく八戒。逆のパターンも多々あるが経過は似たようなもんだ。
「ね、悟浄。お願いします。貴方に断られたら僕の顔がつぶれます」
「多少つぶれても人よりマシだ。俺が保証する」
「銀座でフレンチでどうです。赤坂で寿司。渋谷でクジラ。デザートに僕。うわ豪勢〜」
「…てめえがやりてえだけだろーが」
 こういうやり取りの時は大概仕事上大変困ったアクシデントが起きているので、いちいちこのふたりは本当はどういう関係だなどと考えてる場合じゃなかった。実際のところがどうであれ、周囲は助かっていた。
 八戒を動かす時にはまず悟浄。悟浄を動かす時にはまず八戒。
「しょうがねぇなあ」「しかたないですね」のセリフつきとはいえ、頼まれるとふたりは嬉々として相手の説得にあたってくれた。会社の連中は本当に助かってた。
 優越感って悪い感情ですかね、悟浄。

 あの頃があんなに楽しかったのが優越感と罪悪感のせいだったとしてそれが悪いことだろうか。悟浄が自分を愛せないのも罪じゃないし、悟浄に抱く征服欲も罪じゃない。
 仕事場から直行するという悟浄に時間を伝えると、八戒は電話を切って机の上を見渡した。いきなり呼び出したのに何の用だとも聞かないのが悟浄らしい。
 今日は早めに社を出ると周囲には伝えてあるが「ふざけんなてめぇ人に仕事押しつけてその言い草は何だ一回死んでこい」などと怒鳴るような部下はいない。まあ、普通いないが。
 自分の相手は悟浄だと、社の人間も外部の人間もみんな思ってた。悟浄と組む仕事は必ず外のデザイナーに発注するより早くあがったし評判も良かった。いや今だって。
「八戒さん、例の媒体資料今晩までに責了してくれって連絡が」
「明日で構いません。向こうが遅らせた仕事です、多少痛い目見たほうがいいクスリになりますよ」
「でも…あの、先方には何てお伝えすれば」
「僕が言ったこと言っとけばいいでしょ。あとよろしく」
 席を立った途端、部下の困り果てたような呟き。
「…こーゆー時に悟浄がいたら…」
 八戒は勢いよく定時でタイムカードを押した。

 
 そばにいてくれとは言いました、確かに。でもお情けでそばにいられてもね。
 寂しいとか空しいとか切ないとかそんなもん通り越して

 腹立つんですよね。

 戦いましょう、悟浄。



「経理の西山、覚えてるか?」
 接待命のくせに、社長は珍しくまだ会社にいた。
 八戒との約束の店に向かう途中、ふと思い出してかけた借金の残金確認の電話で、不意に脈絡もなく切り出された話題に、悟浄はしばし視線を宙に浮かせた。
「…胸がでかかった」
「胸はいい」
「結婚退職したんじゃなかったっけ?俺が辞めてすぐ」
「離婚した」
「マジで!?なんで」
 経理・営業・総務はフロアが同じで平均年齢が低めなので、カップル誕生率が高い。西山の相手は編集の天敵・営業部の出世頭で、地味だが実直な好青年という甚だぼんやりした記憶しかない。八戒とやりあっては叩きのめされ、あの人には参りますよと笑ってた。
「逢えなくなったから、だと」
 合点がいくまでしばらくかかった。確かに八戒と同じ会社にいたときは、ごく自然に一日15,6時間顔を付き合わせていた。下手するともっと。今は、同じ家に帰っているのに睡眠時間を差し引くと3、4時間が限度。しかも相当無理をして、仕事のことを気にしながら。家族の機嫌をとりながら休日残業する同期を本当に可哀相に思ったものだ。
 男の20代後半。仕事が一番面白くて大事な時期に。
「…でもそんなの分かってて結婚したんでしょ?」
「おまえだって多少の不自由は分かってて入社したんだろ。あいつがいたから」
 悟浄の脇を猛スピードでクラウンが走り抜けた。どこかで見た車だが思い出せない。
「ほんとのとこ、どーだったのよ、おまえら」
 それを聞かれるのが一番困るんだけど。悟浄はつい期待に応えた。
「恋・人・同・士」
「ほんとか?」
「嘘」
 切った途端思い出した。三蔵の社用車だ。
 
 
「俺、ずっと悟浄が羨ましいと思ってた」
 人の奢りでなければ絶対にこんな店に用はないだろう悟空は、八戒に強引に薄められた水割りを舐めた。「あの事件」の前夜に八戒が悟浄と遭遇した接待用バー。喧噪といえば泡が弾けるような静やかな会話だけ。あの時悟浄がたまたまこの店にいなければ、八戒とも会わず夜中の会社に乗り込むこともなかっただろうと思うと、苦いような、ただ不思議なような。
「羨ましい…ですか?」
「悟浄って俺の同期じゃん。なのに好き放題やってさあ、編集長にも昔からの友達ってだけでタメ口きけてさぁ」
「悟空」
 三蔵の声で悟空はぴしゃりと黙った。人を羨んだり自分を貶めたりするたびに「卑屈さが顔に出る」と三蔵に咎められている。最初は腹が立ったがもう慣れた。三蔵は、どうでもいい輩にいちいち忠告するほど酔狂じゃない。
「あのチンピラ、周りに愛想振りまいてなきゃやっかまれてつぶされてた。こんなののお気に入りになるってのはそーゆーことだ。2年も保ったのが奇跡だ」
 三蔵は「こんなの」のところでマドラーを八戒に向けた。
「おや僕のせいですか」
「チンピラのことは全部おまえのせいだ。自覚あんだろ」
「そりゃぁもう」
「どーしよーもねえな」
「そうですかねえ」
 のらりくらりと微笑を崩さない八戒に、三蔵&悟空は顔を見合わせた。
 今日は一日中、八戒の言動がどこかおかしかった。普段はひとりで呑むのが好きな八戒が自分から三蔵と悟空を呼び出すのも珍しいし、いつ会社の連中が来るか知れない店を選ぶのも八戒らしくない。
 おまけに妙につかみどころのない柔らかさ。
「周囲にやっかまれたり羨ましがられるのは、僕は結構楽しいですけど」
「やな奴だな」
「そうですか?普通でしょ。悟空、貴方、あの三蔵に可愛がられてるっていうんで、社内でも相当あれこれ言われてますよ。ちょっと嬉しいでしょう」
 絶句した悟空に、八戒の笑みが濃くなった。
「認めちゃいなさい。それ、優越感って言うんです。気分いいでしょう?」
 三蔵が何か言いかけた途端、店の戸があいた。
「お、やっぱ来てたのかおまえら。ひっさしぶり〜」
「…悟浄、もうちょっとマシな服なかったんですか」
 夜中にコンビニへでも行くような軽装の悟浄は、店員の渋い顔にも一向構わずテーブルの最後の辺に腰を下ろした。
「…変わんねぇなチンピラ」
「おまえも相変わらず仏頂面。何、みんな集めて何の会議よ。うっわ、グレンリベット?」
 八戒は会社名と名前がぶら下がったタグつきのボトルをテーブルの真ん中に押しやった。
「全部あけちゃってください」
「…ああ、そういうこと」
「そういうことか」
 悟浄と三蔵が同時に呟いた。
「え、何がどういうこと?」
 悟空の靴の先を、三蔵が机の下でコツンと小突いた。視線は八戒に向いたまま。他のふたりは気付かない。
 …ああ。
 これが、俺の優越感。
「今月いっぱいで退社致します。とりあえずは、お世話になりました」
 八戒は軽く頭を下げた。ポカンとした悟空と、ドボドボグラスにウィスキーを注ぎだした悟浄が何も言わない(言えない)らしいのを見て、三蔵は嫌々後をひきとった。
「…どっかで編集長に戻るのか」
「三蔵にはまた行った先でお世話になります。担当してくださるでしょ?」
「そりゃ稼がせてもらえるんなら何でもやるが。いいんじゃねえか?できる奴ほどあっちゃこっちゃ動くもんだ。どこ行くんだ、引き抜きか?売り込みか?おまえを買いとるたぁ、また度胸の据わったお上だな」
「引き抜かれて売り込んだって感じですねえ。確かにいい度胸です悟浄は」
 悟空の声にならない叫びと三蔵が噴き出すのを抑えて咳き込んだ音で、4番テーブルは店中の注目を浴びた。注目が2,3秒で済んだのは客たちの洗練された礼節のおかげだ。悟浄が冷静に揺れたテーブルを元の位置に戻す間、八戒は笑顔のままふたりが落ち着くのを待った。
「ちょっと待て。正気か?つまりアレか、またチンピラの上司に戻ろうって魂胆…」
「魂胆とは人聞きの悪い。多少の出資はしますが元は悟浄の会社です。どっちかというと僕が部下です」
 悟浄がようやく口を開いた。
「…どっちかといわなくても部下だろ」
「一緒じゃないですか」
「真逆じゃねえか」
「一緒です」
 悟浄は指に挟んだ煙草をクルリと一回転させた。
「…そうだな、一緒だな」
「おい、待てちょっと」
 口を開けたまま金魚と化した悟空の背中を気つけに一発殴ってから、三蔵は身を乗り出した。
「単刀直入に聞くが、おまえらどういう関係だ?俺はまたてっきり…」
 目の前にピーナツが飛んできて、三蔵は勢いよく乗り出した体を勢いよくひく羽目になった。
「こいつは、今日から、俺の相方。そんだけ」
 いつものように皮肉混じりの微笑をひっかけてはいたが、悟浄の鞭を振り下ろすような口調は、最初から声も出ない悟空は勿論三蔵を黙らせるに充分だった。
 変わらないなんてとんでもない。2年前にはこんな目はしなかった。人を使う事を覚えた人間のそれだ。
 しばらく4人は無言で煙草を吹かし氷を足し、ボトルの水面を下げることに専念した。
 結局、沈黙を破ったのは、また三蔵。
「…悟浄」
「お、俺の名前覚えてたんだ」
「ただでさえ独立で寝る暇ねえんだろうに、こんなのと組んだら仕事仕事で、私生活なんかなくなるぞ」
 こんなの、でまたマドラーが八戒を向いた。
「…こんなのこんなのって貴方僕を何だと…」
「いーの、今はまだ。三蔵様と違って、俺、まだ若いし仕事好きだし」
「…羨ましいなんて思わねぇから」
 悟空がダンとグラスを置いた。
「俺、羨ましいなんて思わねぇかんな!」


「八戒、いーの?」
 助手席につぶれた悟空を放り込んだ三蔵が、思いっきり飲酒運転で走り去るのを見送って、悟浄が振っていた手を上着のポケットに突っこんだ。
「俺の仕事仲間になっちゃっていーの?」
「貴方こそいいんですか?」
「何が」
「仕事が楽しくて楽しくてたまんなくなりますよ」
 悟浄が口に銜えた煙草を舌で転がしながら微笑った。
「いいねぇ、朝から晩まで楽しく働きバンバン稼ごう」
「何のためにです」
「勿論南の島で老後を送るためによ」
 悟浄は八戒を振り返らずにそのまま歩き出した。
「…労働基準法無視、福利厚生も手薄、出版健保なし、セクハラ推奨…」
 
 八戒は、しばらく立ちすくんだ後、ゆっくり悟浄の後を追った。
 これが悟浄のくれた選択肢のひとつ。今のまま前にも後にも進めないよりは。
好かれなくても必要とされるならそれでいい。外堀から埋めていって、自分がいないと生きられないようにしてみせる。世界中の誰もが悟浄の相手は自分だと、自分の相手は悟浄だと認めて羨むくらい。私生活も恋愛も金も名誉も時間も安定もいらない。今は、まだ。
八戒は、そっと悟浄の長い影を踏んだ。

 捕まえる。



fin

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