私生活

act11

 空が鳴ってる。
 壁に凭れた天蓬は、今日何度目かの溜息をついた。雨が降る。息苦しいのは気圧のせいだけじゃない。
 捲簾がいる。扉の向こうに捲簾が。
 ただでさえ薄暗く人気のない廊下は午後になったばかりというのに真っ黒に影が落ち、唯一響くのは男ふたりのわめき声、おまけに隣の厄介な後輩は大不機嫌ときている。
「悟浄はガキだわ派手だわ女にもてるわ優しいわキスは上手いわ素直だわ可愛いわ最低でしたよ」
「…はぁ。そうですか」
「それでもダメだったのに。それでもダメだったんです。何ですあれは」
 あれあれ言うな。
 八戒は、天蓬が溜息と一緒に深々と吐き出した煙をうるさそうに掌で払い、教授の部屋の扉を足で小突いた。どうせ中のふたりは気付かない。
 教授の命令で段ボール二箱ぶんの資料を抱えて哲学棟に出向いた天蓬と八戒は、扉の向こうから廊下にまで筒抜けの罵声に入るに入れず、さっきから立ち往生していた。勿論、夜中の庭に追い出された時に開催された喧嘩とは種類が違う。教授も捲簾も人に聞かれて大騒ぎになるようなテーマで校内で罵りあうほど馬鹿じゃない。スーツに染みをつけたとか。靴をひっかけたとか。…教授の自転車を違法駐輪して撤去されたとか。
 教授は、自動車に乗らない。タクシーにも乗りたがらない。
 十五分待ってもふたりの喧嘩が終わらないので、遂にキれた八戒が「僕は忙しいんです暇な4年と一緒にしないでくださいいったいあれは誰なんです」と罪もない天蓬に噛みついてきたので、捲簾のことを説明する羽目になった。
 八戒はほうほうと聞いていて、突然途中で遮った。
「天蓬。語り口に好意が漂ってますけど僕の気のせいでしょうか」
「いいえ」
「やな男」
「失礼な」
「貴方じゃありませんその教授2世。言動が意味不明なのと人としての底の深さとは無関係ですよ。うーわ聞いてるだけで苛つく。素直にすぎると遊ばれますよ。やめましょうよ」
 八戒と天蓬は似ている。自分の頭の出来を早くから自覚していて周囲を見下す癖がついた。
 プライドが高すぎて、自分の頭で理解できないものに遭遇するとなかったことにしてしまう。負けそうになると逃げてしまう。
 八戒は自分から言いたくならないと何も言わないし、天蓬も人が言うまで聞かないので詳しい事情は知らないが、悟浄とやらは分かりやすい男なんだろう。八戒は彼を掌で転がせるつもりで近づいたんだろう。それでも、ダメだった。当然八戒は教授とウマが合わず(偉そうだという凄い理由で)天蓬は何をどうした訳か惚れ込んでしまった。つまり、悟りが早かった。
「…貴方も一度転がされればいんですよ。楽ですよ」
 ようやく騒音が止んだ。天蓬が足下の段ボールに手をかけると、八戒はいきなり背中を向けてずかずか廊下を歩きだした。
「…どこ行くんです。何か気に障るようなこと言いました?」
「貴方が人に振り回されるとこなんか見たくない」
「ちょっと!八戒!荷物運んでってくださいよ!」
 不届きな後輩が振り向きもせず角を曲がって見えなくなるのと同時に、スーツ姿の捲簾が足で扉を蹴破って出てきた。
「とっとと卒業しちまえ!」
「言われなくてもするわ!」
 何のために不機嫌極まりない八戒をずるずる引き留めてたと思ってる。段ボールはどうでもいいからせめて捲簾が出てくるまでいてくれればいいのに。あの夜以来。1週間ぶり。どんな顔して会えば。
「お。てんぽーじゃん」
 天蓬は中腰のまま捲簾を見上げて固まった。
「いや。みとれられても」
「……捲簾、すいませんけどちょっとこれ部屋の中へ」
「やだ」
「は?」
「おめえが叔父貴に奉仕してるとこなんか見たくねえ」
 八戒に続いて捲簾にもすたすた廊下を去っていかれ、天蓬は一瞬呆然とした後、段ボールを床に落とした。呼ばれた。
「教授!ここに置いときますよ!」

 八戒はもうすぐ気付くだろう。「ダメになった」原因が相手じゃなく自分にあること。人を思ったとおり動かすだけが快感じゃない。一度転がされてしまえばいい。本当にそう思う。
「捲簾!」
 思ったより随分先で追いついた。
「何、年寄り置いてきてんだよ。呼んでねえぞ」
「はいはい」
 捲簾はネクタイをむしり取ると、中庭を横切りながらポケットに突っ込んだ。一日で一番生徒の出入りが多い時間、おまけにあちこちで傘が開きだして、追いかけながら喋るのも結構苦労だ。
「面接じゃないんですか?授業?」
「授業。専門。労働経済学。人数数えるから連れてけないです残念でした」
「そんなマクロとかけ離れた学問、我が国の経済政策立案にまったく役に立ちません。さぼりましょう」
 捲簾は、ようやく立ち止まってぐるっと振り返った。
「さぼりましょうって言った?」
 おっと油断した。
「…さぼりません、か?」
「俺は今機嫌が悪い。それを前提に言い直せ」 
「……授業なんかさぼって僕とデートしてくれませんか」
 …八戒が聞いたら憤死するな。


「叔父貴は俺が両親を殺したと思ってる」 
 ふたりで部屋に戻って、まだ靴も脱がないうちに、血液型でも教えるようにさらっと。
 それが自分への気遣いであることが分かったので、天蓬は話が終わるまでは絶対に表情でも言葉でも反応すまいと努めたが捲簾にはまったく無駄だった。天蓬が心の中で質問するたびに先に先に答えた。
 叔父が本当の父親じゃないかと、捲簾は物心ついた時から疑ってた。というより父親が疑い、それを理由の暴力は日常茶飯事だったので、疑わざるを得なかった。勿論母親も叔父も否定したがふたりはこそこそ会ってたし、昔から叔父は自分によく構った。
「もしもし天蓬、昔の話。続きが聞きたかったら、そんな痛そうな顔しない」
 ど、どんな顔すれば。
「俺は両親を恨んでたし、叔父貴の子供になりたいと思ってた。そんな時に両親が俺を置いて車で外出した。俺はその車が事故る前に、叔父貴に電話して、こう言った」
 捲簾は煙草を2本まとめて引き出した。

「これから、お父さんとお母さんが、死ぬ」

 目の前で、ゆっくり煙草が交差する。
「つまり俺と叔父貴は疑いあってる訳ですね。叔父貴は、俺が兄と兄嫁を殺した人殺しじゃないかと。俺は、叔父貴が俺の父親じゃないかと」
 …殺したのか?
「殺したかもな」
 天蓬は窓の外に目をやった。虫の声がはっきり聞こえる。
 静かだ。
「ところで叔父貴は俺の父親かね。おまえには捲簾は俺の息子だーぐらい言ったんだろうけど、別にDNA鑑定した訳じゃねえんだしほんとのとこは分かんねえよな。あいつが勝手に息子だと思ってるだけかもしんない。おまえ自動車の構造に詳しいか?ブレーキの細工ができるか?知識があれば子供でもできねーこたない。国産のセダンなら工具と鍵がありゃ5分で済む。でも俺は8歳だった。剣道と野球に燃える健康で平凡な小学生だった。ガキが持ってる知識か?誰が教えた?叔父貴は昔は、車好きだった。あいつが俺にやらせたのかもしれない。父親だけ死ねば良かったものを、俺が母親まで殺したのかもしれない。はたまた叔父貴は俺に一方的に兄と愛してた女を殺されただけかもしれない。もしかしたら、本当にただの事故で、俺の勘がよすぎて事前に虫が知らせただけかもしれない。大事なのはそこじゃない。俺は両親が死んでもの凄く嬉しかった。あんなに嬉しかったことはないぐらい喜んだ。葬式でも笑ってて斎場から引きずり出された。その前と後は覚えてない」
 パン。
 捲簾の指の上で紙が弾けて、ふたりの間にバラバラと葉が降った。
「それからこっち、ずーっと夢見てるような感じ。叔父貴の息子になれると信じてたのになれなくて、やっぱりあの両親以外俺の両親はいなかったと分かった時も、まあ、多分ショックだったんだろうけど思い出せない。もう14年も前の話だから本当のことを知りたいとは思わない。俺と叔父貴はお互いお互いを疑ったままでないとバランスがとれない。もし叔父貴が俺の父親なら、両親は俺が殺した。父親じゃないなら俺は殺してない。と、そういうことにしてある。…以上。質問は?」
 理想の関係だと思ってた。初めてふたりを一緒に見た時、もう胸がうずいてた。教授にも捲簾にも嫉妬した。
 自分の知らないところで長い長い間、どれだけの葛藤をくぐり抜けただろう。
 捲簾は教授のおかげで延々辛い目にあってきて。教授も捲簾が心の重荷で。
 何度もこいつさえいなければと思っただろうに。
 離れればすむのに。まだ、そばに。
「…好きなんですね」
 主語も目的語もはしょったが通じた。
「…そーだな。不思議だな」
 …重いなあ。この「好き」は。
 今晩は言えない。
「…何で話してくれたんですか」
「しつこいから」
 捲簾は煙草もライターも全部そのへんに放り出すと、いきなり真横にどさっと倒れた。
「…何で貴方ってそうなのかしら、昔何があったのかしら、でも貴方が話したくないなら聞かないわっていう物わかりのいい奴ばーっかだった。おまえは俺が会った中で一番しつこくて諦めが悪くて分かりやすくて趣味が悪いっつか凄ぇ疲れた。寝る」
 おいおい。
 まさかと思ったが、捲簾はすぐさま本気としか思えない寝息を立てだした。
「…逃げましたね」
 天蓬は暗闇でついうっかり膝で灰皿を跳ね上げながらじりじり躙り寄って、真上から微かにアルコールの匂いがする捲簾を覗きこんだ。前から思っていたが、本当に静かに寝る男だ。死んだみたい。
知ってから先の話でしょう。好きとか嫌いとか、全部。
 
 嫌ったりしませんよ。…自信はなくなったけど。
 これから先、教授とのほうが人生長いだろう。このまま順調に進路を進めば、教授とは一生モノの長い長い付き合いになる。今、教授に嫌われる訳にはいかない。機嫌をそこねる訳にはいかない。
 天蓬は詰めていた息をそろそろと吐いた。
 一緒にいたい。触りたい。最初は屈辱だった。今はたまらない。目を覗き込まれた瞬間丸裸にされて腹が据わる。これ以上ない程ずぶ濡れたような、もうどうにでもしてくれというような、投げやりな開放感でたまらない。繕っても全部ばれる。構える必要もない。嘘をつく必要もない。辛いのは捲簾だ。気遣ってもらって甘やかされてるのは自分のほうだ。自分の中に何か起こった時に、捲簾はわざわざ指摘して突き回すのと同じぐらいの頻度で黙ったまま気を逸らせてくれる。多分、ずっと、そうしてきた。
 自分の気持ちが動かないから?そういうバランスの取り方をするのだろうか。神様は。
 捲簾が好きで、教授が一番嫌がる形で捲簾が好きで、その捲簾と教授の間でうまくやれる自信がない。いつまでも一緒にはいられない。自分はまだしも勘のよすぎる捲簾が、きっと苦しむ。思い上がりじゃない、自分は特別だ。捲簾の特別。
 例え口に出されなくても、分かる。
 分かる。
 
 信じられないくらい柔らかい唇。
 離した途端、捲簾がパチっと目を開けた。
「…この根性なし」
「…はは」
 いつも助けてくれる。


 捲簾はテレビ局に(テレビも持ってないのに)初任給の額と寮の有無だけで就職を決めてしまい、教授は自分に何の相談もなかった事と俺はテレビが嫌いだという2点で捲簾を叱りつけたそうだ。無茶苦茶なのは分かってるはずなのに、もう文句をつけるところがそこしかない今しかない教授の腹立ちが、可笑しいようでちょっと哀しい。
「叔父貴に尽くせよー天蓬。あいつ信奉者がいないとダメだから」
「奥さんがいるじゃないですか」
「あれは戦友」
 正門を出たところで、大粒の雨が降り出した。捲簾は着用中の教授のスーツへの嫌がらせなのか何なのか、歩く速度をまったく変えないので、天蓬は濡れてずるずる滑る眼鏡を袖で拭ったついでに押し上げた。
 …家にタオル乾いてたの、あったっけ。先週ちゃんと洗濯しとくんだった。
「どこか行きたいとことか…ないですよね」
 最悪なことに赤信号にひっかかり、目の前の車道を、見事な日本海を描いたデコトラが轟音をたてて走り抜けた。
「…日本海が見たいかも」
「わー凄い。成長しましたね。どこでもいいって言うかと思った」
「たまにはサービスしてやんねぇとな。天ちゃんに」
 最低。
「僕が貴方の海です!」
「しまった。ちょっと面白かった」
「わりと本気なんですけど」
 やっぱり走らせよう。信号の向こうで明らかに捲簾を知ってる女が、こっちを見ている。捲簾、何してんの風邪ひくわよ、はい傘!なんつって。…冗談じゃない。
 信号が青になったと同時に、天蓬は捲簾の腕を掴んで思いきり斜め横断で道路を渡りきった。
「何、走んの!?俺、今日、靴が」
「貴方がどんなに性悪だろうが人殺しだろうが不感症だろうが文句ない」
「は?」
「僕に惚れてりゃ文句はないです!」
 捲簾は笑ったかもしれないが、顔が見れなかった。
 雨に洗われたレンズのせいで町が揺れる。

 世界は柔らかい。滑らかで冷たい。
 雨も光も濡れた髪も。水煙、教授、八戒、今まで自分がいた場所、気付いたら繋いでた手も全部。

 自分をいちいち理屈で説得するような、いちいち意味をつけるような、醜くて貧しい真似はもうやめよう。


 おまえんちでテレビ見せてよ。
 捲簾が言った。
 



fin  

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