透 き 通 る 骨
ひとりじゃ行けない場所があるの。ひとりじゃ見えない景色もある。
貴方は頭がいい子だけれど、どれだけしっかりしていても貴方は子供なのよ悟能。
知らないことがたくさんある。
ひとりじゃ何もできないの。
悟浄は有名だった。有名と言うより名物だった。
別段同情するでもなく、悟能は遠くから悟浄を眺めていた。
ただでさえ目立つ容姿なのに、いつも傷だらけで体のどこかから血を流していた。シスターや町の誰かが気遣わしげに声をかけるたび、悟浄は決然としてはね除けた。
何でもないから。何でもない。
誰も悟浄を助けない。助けられない。人は皆神の子と教わったけれど、悟浄の親は別にいて、その親に逆らって悟浄をどうすることもできない。家の扉が一旦閉まれば、中で何が起きていようと他人には干渉できない。神でさえ。
初めて直接言葉を交わしたのは夕暮れ一歩手前の上り坂で、両手に買い物袋を抱えて孤児院へ戻る途中だった。子供ひとりで持つ荷物にしては、少々量が多すぎる。買い物当番は二人一組だが、自分と同い年の子供を「子供」というだけで毛嫌いしていた悟能は、必ず相方を追い払ってひとりで買い出しに出た。下手すれば孤児院で苛めにあってるとでも思われそうだ。
悟能は立ち止まって荷物を抱え直した。
苛々する、あいつらは。幼稚で。ビクビクして。すぐ泣いて。
砂利を踏む音で振り返る前に、あっと言う間に荷物の一方をひったくられた。
「ちょっ…」
「盗らねえよ。重いだろ」
「返してください」
「何で」
「気持ち悪い」
悟浄はその日もあちこち絆創膏を貼り付けていたが、一瞬きょとんとしてから笑った。
「俺?髪?目?怪我?親切?」
「最後です」
「なら簡単。あんたに頼みがあんの。そんでいい?フェアだろ」
三日に一度、悟浄は孤児院に花を摘みに来た。花壇というには余りにも立派な庭にはきちんと温室も藤棚もあって、宿根草や球根花中心に1年中何かしらの花が咲き乱れ、勿論一般にも公開している。シスターは請われれば町の誰にでも花を切って与えるが、悟浄は親切心からあれこれ詮索してくる大人達がお気に召さないらしく、来訪は夜中だ。
悟能のやることは、夜更けに窓に小石が当たったら階下に降りていって裏口の鍵を外し、悟浄が花を摘んで出ていったらまた鍵を下ろす。それだけ。
「遅咲きの薔薇がまだ残ってますけど、ゴールドの方が花弁揃ってるかも」
「何でもいい。花なら」
悟浄に鋏を貸してやってからいつものとおり壁に凭れて辺りを窺った。朝も夜も早い孤児院だが、たまに夜中に起き出す輩もないではない。
「…何するんです。花なんて」
「花は女にやるために咲くんだぜー?あんた何も知らねぇのな」
「お母さん?」
「そう」
「毎日殴られてて、よくもまあ」
悟浄は花壇に屈み込んだまま、闇に滲んだ色の選別に余念がない。
「怪我はたいして痛くねえし」
「痛くないんですか?」
「相手による。ああ、殴られたことねえから分かんねぇか?」
シスターに言われるとカチンとくるセリフだが、悟浄に言われても何ともない。確かに、悟浄は自分の知らない事を知っている。
「俺はおまえに殴られても多分痛くねーなー」
「…どういう意味です」
「べっつに。じゃもらってく。サンキュ」
「ええ」
この取引は少々悟能に分がない。
買い物当番は三日に一度。悟浄が来るのはその日の夜。
荷物運びを手伝ってくれるのは確かに有り難いが、こっちは何時に来るかも分からない悟浄の来訪を眠気を耐えて延々待ち、悟浄が出ていくまで付き合っていなければならない。神経も遣うし気も張る。
「今頃気付いたか」
何度めかの来訪で、はたと何だか不公平ではないかと抗議した悟能に、悟浄はあっけらかんと言い放った。
「そうそう不公平だな。俺に出来ることならするけど」
自分の望みはひとつだけ。知らないことを知りたいだけ。
そこで悟浄は夜中に花を摘みながら、自分の知らないことを教えてくれた。
…男のこと。女のこと。ここにいる限り縁のない、本当のこと。
汗水も流さず紡ぎもしない野の花でさえ神はこんなに美しく装ってくださるのだから
あなた方にそれ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
悟能は説教の合間に高台に建つ礼拝堂の窓から町を見下ろした。
家の一軒一軒が、得体の知れない生き物の住処だ。整然と並び、同じサイクルで寝起きし、同じ文句を復唱する孤児院の子供たちの知らない何かが渦を巻いている。
血の繋がらない母親。腹違いの兄。半分流れる妖怪の血。夜な夜な繋がる兄と母。暴力。嫉妬。愛憎。
悟浄の口から聞くそれは生々しくて汚くて、だが不愉快でもなく、ただそのままだった。悟浄は見た通りを描写して、少しの私情も混ぜなかった。差し出される手をはね返す悟浄が誰にも話したことのない秘密であるというだけで興奮した。悟浄はセックスの仕組みも喧嘩の仕方も酒場の喧噪も知っていた。 酒の味も血の味も知っていた。
舐めてみる?
鉄の味、と本では読んだが、鉄の味がどういうものだかも知らなかった。悟浄の一番新しい傷から舐め取った血は生暖かくぬめって一晩中舌に残った。何度呑み込んでも迫り上がってくる。自分の知る限り、こんなに存在感のある液体はなかった。
おまえ自分の顔知ってる?顔が綺麗ってすげえ才能だぜ。それで食ってく奴もいんだから。
悟浄は誰も言わないことを平気で言う。
「人の容姿で人を見極めるのは愚かな行為である…」
「誰が言った?」
「イエス・キリスト」
「馬鹿だ」
まったくだ。
1ヶ月ほど経ったある朝、悟能はシスターに呼び止められた。
「見ましたよ悟能」
黙りこくっていつまでも弁解しない悟能に根負けして、シスターは軽く溜息をついた。
「あの赤い髪の子は貴方のお友達でしょう?花が欲しいなら昼間にお呼びなさい。院長にばれたら大変ですよ」
「あなた方が悟浄の怪我を云々言うから来たくないんだそうです」
「…言いません。皆にもそう言っておきますから、昼間に来るよう伝えておきなさい。あんな時間に子供が出歩くなんて危ないし、何より夜中にこっそり忍び込むなんて感心しませんよ。泥棒と同じじゃないですか」
「嫌です」
説明不可能な感情だった。
自分で説明不可能な事にぶち当たった最初だった。
悟浄が夜中に自分を訪ねてやってきて、誰にも内緒で自分が鍵を外す。そうでなければ意味がないのだ。
悟浄が昼間、太陽の下でシスターの手から花をもらっていてはいけない。
軽々しく人目に晒すような、そんなものではない、あれは。
「貴方が言えないなら、私から言います」
どうすれば。
そもそもシスターに知られた時点で、秘密が秘密でなくなってしまった。シスターが悟浄に何をした?神に祝福されたはずの、自分の何倍も長く生きた大人なのに、ひとりの子供が望むことを何一つしてやれない。単独行動していて捕まえやすい孤児院生が自分ひとりしかいなかったせいだとしても、悟浄が選んだのは自分で、何としてもそれに応えなければならない。
何とか。今までどおり。
「シスター」
「…何です?」
「分かりました。…でも今までのことは、誰にも黙っててくれますか」
珍しく悟能の懇願にあって、シスターは微笑んで「勿論」と言った。
「私以外、誰も知りません。安心なさい」
悟能は手段を考え、実行した。
突然それは終わった。
小石の音で跳ね起きた悟能が鍵を外すと、悟浄は肩で息をしながら大きな麻袋を引きずって入ってきた。
「…なんです、それ」
「母さん」
青い夜だった。悟浄は目で悟能を促し、袋の一端を担がせた。
「ここに埋めてよ。この人、花、好きだったから。ここなら見つからない」
悟能は頷いて、物置から一番大きなシャベルを出してきた。
「何も聞かないな」
「聞いて欲しいですか」
返事はなかった。その無言は妙に温かくて、悟能の中の何かを揺さぶった。気持ちのいい、熱い塊。
哀しくもない、悔しくもない、痛いわけでもない。なのに涙が出そうだ。何だろう。
何だろう。
一度悟浄が泥だらけの手で頬のまだ新しい傷を拭いかけ、それを止めた以外は、黙って土を掘り続けた。
「悟浄、もう少し固めたほうが。後でガスで土が浮いてくる」
「詳しいな」
「…二度目ですから」
悟浄に花を摘む理由はもうない。この町にいる理由もない。
大丈夫。安心して。自分がふたりの上から種を蒔いて水をあげる。埋め尽くしてあげる。永久に。
作業の合間に何度か目が合った。最後に土を被せて周囲の花の根を引っ張ってきた時、額と額が触れた。
「悟能」
「はい」
「もう知りたいことはない?」
さよならだ。
悟浄。キスを。
柔らかい土についた掌が、ずぶりと沈んだ。
悟浄は木戸を出たところで振り返り、泥だらけの手を服で拭って、同じように泥だらけの悟能の手を軽く握った。
「…何」
「握手。も、したことねえの?」
したことはあったが握り返したことはなかった。
泥越しの手はずるずる滑ってやたらと熱く、何かとんでもないものに触れたような震えがきた。
悟浄はそういうものだった。秘密そのものだった。見たことがないもので、必ず背徳感が付きまとった。いつかここを出た時に自分を迎える世界の、序章のような男だった。
「じゃあな」
「ええ。さようなら」
悟能はしっかりと裏口を閉めて鍵を下ろし、いつものように足音を忍ばせて階段を上り、ベッドに潜り込んだ。確かに自分は子供で、知らないことがたくさんある。
その何だか分からない熱い塊はようやく目から溢れ出し、朝が来るまで零れ続けた。
今日のことが一生自分を支える。
一生。
数年後、悟能はその感情に名をつける。
幸福だった。
確かにあの夜の花園は、初めて触れた幸福だった。
fin