あなたが100人目
「…悟浄」
思わず人混みで声が出た。
周囲で何人か振り返る、その人波の向こうに、見覚えのある赤い色。
「悟浄!」
荷物を抱え直して5,6メートル行ったところで、八戒は不意に立ち止まった。
…悟浄がこんなところにいる訳ない。
八戒が肩で家の玄関を開けるのに手間取っていると、明らかに寝起きの悟浄が中から扉を引いてくれた。
「…おかえりぃ」
「いたんですか」
「いちゃ悪いか。俺の家だ」
起き抜けの悟浄は大概不機嫌で、下手につっこむと喧嘩になる。八戒は荷物を食卓に広げてあちこちにしまいながら、ソファーに寝っ転がって欠伸を繰り返す悟浄を窺い、表情が柔らかくなってきたのを見計らって声をかけた。
「いつ起きました?」
「さっき」
「ずっといましたよね家に」
「いた」
「買い物の途中で貴方に凄くよく似た人見たから」
悟浄はぼんやり顔をあげた。
この男は機嫌が悪い時ほど、いい。
…タチが悪い。
「…そいつが女連れだったとか?」
何を言わんとしているのか悟って、八戒は慌てて手を振った。
「そういうんじゃなくて。ていうかそこまではっきり見てないですけど」
悟浄はもう八戒のふった話題に興味を失ったようだ。
ふらっと立ち上がると、八戒の手首を凄い力で掴んだ。
「痛いですって」
「…あ、ごめん。…コーヒー」
力の加減ができない。目の焦点も合わない。何でもない台詞なのに声が掠れる。
…ほんとにタチが悪い。無茶苦茶にしたくなる。
悟浄が夜の仕事に出掛けた後、八戒は同居人兼親友の部屋に軽く掃除機をかけ、シーツと枕カバーを取り替えた。持ち主の匂いがどっさり染みついたそれを抱えて戸を閉め、洗濯機に放り込む。布が手を離れた瞬間、思わず空中で掴み直した。
どうかしてる。
そっと手を離して、渦の中に悟浄の残骸が沈んでいくのを見守った。
水の音はいつも高ぶった神経を宥めてくれる。
悟浄に対して友達以上の執着があるのは確かだが、それが「好き」なのかどうか分からない。というよりあえて決定をくだすのを避けていた。認めるのは辛すぎる。
意外と頑固で扱いづらい男だ。ああいう自分勝手に機嫌の悪さを振りまく時の悟浄を見ると、あまりにも憎たらしくて極限まで怒らせてみたくなる。かと思うと宥めすかしてベタベタに甘やかしたくもなる。まあ結局どっちもできないのだが、とにかく色々したくなる。何でもいいから何かしたい。
もし、好き、だったとして。
彼が夢にも見ないような感情だったとしたら、そこで終わりだ。
悟浄は義理や情でずるずる妥協したりしない。受け入れられない、答えられないとなったらすっぱり切って白黒つける、そういう男だ。無理だ。あんなに女が好きで好きで好きな男に答えてもらおうなんて。
隠さないと。何としても。
翌日、八戒はクリーニング屋に行って、悟浄のスーツと自分のシャツを引き取った。カウンターでふっと目を上げた時、店主の後ろの鏡に、ちょうど店の前を横切ったカップルが映った。
「…悟…」
八戒は店主から差し出された袋を挨拶もそこそこにひったくると外に飛び出した。
悟浄。間違いない。頬に傷があった。盛り場に行けば似たような風体の男はうろうろしているが、傷まで同じなんてあり得ない。そもそも自分が悟浄を見間違うなんて絶対にあり得ない。
慌てて見渡しても四方八方に伸びた道のどこで曲がったのか見当がつかない。八戒は諦めてUターンした。女連れの悟浄を追いかけたところで自分に言うべき言葉なんか何もない。
「おかえり」
八戒は危うく玄関先に荷物をばらまきかけた。
何でいる。
「…いたんですか」
「喧嘩売ってんのか?」
御丁重にまた寝起きだ。
起きた直後の体温と匂いが傍にいるだけでじわりと伝わってきて、何だか泣きたくなる。
「…貴方、さっき街にいましたよね」
「どうやって」
「女性と一緒でしたよね」
乱れまくった髪の隙間から、はっきり眉間に皺が寄るのが見えた。
「…昼すぎまで寝てんのが気に入らねえの?女とちゃらちゃらしてんのが気にいらねえの?そういう遠回しな嫌味、俺すっげぇ嫌いなんだけど」
「…知ってます」
とことん問いつめようと思っていた意気込みが急に萎えた。
「すいません。多分僕の見間違いです」
悟浄はしばらくそのままの顔で八戒を見下ろしていたが、何の前触れもなくくるりと部屋の中に引き返してソファーに倒れ込んだ。
「コーヒーくれ」
どう見てもさっき町中で愛想よく笑顔を見せていた男とは思えない。
他人の空似。双子の兄弟。まさか。ドラマじゃあるまいし。
丁重にコーヒーを淹れて手渡し、しばらく放って置いたら、悟浄はさっさと機嫌を直して鼻歌を歌い出した。
勝手な男。荒れてりゃ突き放される。人恋しくなれば平気で抱きつく。こっちの気持ちなんかお構いなしだ。いや、これが普通だ。いちいち意味なんか考える自分のほうがおかしい。こんな男でも人並み以上に優しい。家に女も連れ込まないし、外泊の時はきちんと連絡を入れてくれるし、雨が降ったらさっさと帰ってきてくれる。「今日はツキがなかったから」なんて言い訳しながら。悟浄の取り巻きにさんざん羨ましがられているのも知ってる。
充分だ。充分。
「…八戒さあ、おまえさあ、もしかしてさあ、あれじゃないの」
如何にも考えて喋ってませんという感じだ。声がまだぼやけて、とろんと溶けている。
「あれって何です」
「俺の事大好きなんじゃないの。そんでどいつもこいつも俺に見えちゃうんじゃないの」
八戒はにっこり微笑って軽く尋ねた。
「だったらどうします」
同じぐらい、軽く返ってきた。
「えー?そりゃ困るだろ」
…ですよねえ。
三回目。
八戒は迷わなかった。
「ちょっと失礼!」
今度こそ捕まえる。何年かぶりに本気を出した。人波を全力疾走し、丁度道を突っ切ろうとした自転車も軒先に積み上がった段ボールも飛び越えて路地裏に確かに消えた赤を追いかけ、追いついた。
「悟浄、待って!」
荒い息が収まらないまま叫ぶと、数メートル先で、男がゆっくり振り返った。
「…悟浄」
ポケットに手を突っこみ煙草を銜えたままの悟浄は、まったくの無表情で八戒を見た。
なんでもない視線。
非難でも驚きでもなんでもない視線が八戒を直進し、そのまま通り抜けた。
悟浄は何もなかったように背中を向け、八戒はその姿がまた角を曲がって消えるまで、突っ立っていた。
「おかえり」
「なんでいるんです!」
三回目になると、流石の悟浄も素直には怒らなかった。
「…何が言いてぇのよ」
「さっき貴方に会っ…」
…どう説明しろって。
悟浄が手を延ばした。殴られるかと思ったら、頬に指が触れた。
「顔色悪い」
さっき貴方を見たんです。似た人じゃないんです。貴方です。貴方でした。
そんなこと、悟浄に言ったって仕方がない。「さっき別の場所でおまえを見た」なんて言われたら誰だって気味が悪い。
悟浄によく似た悟浄じゃない男がこの街にいる。そう思うしかない。
あれこれ理屈を駆使して自分を落ち着かせている間、悟浄はおそらく非常な努力をして八戒にコーヒーを淹れてくれ、顔色が戻るまで辛抱強く待った。
「…ありがとうございます」
「いーえ。おまえしばらく家にいろ。買い物は俺が行くから」
「なんか優しいですね」
悟浄はゆっくり瞬きした。
「普通だろ」
「僕に隠してることないですか。例えば僕に内緒で出掛けなきゃいけないとこがあるとか、そういう」
バン!
悟浄のカップが音を立てて食卓に、置くというよりほとんど落ちた。
「…すいません」
「すいませんじゃねえ、言いてぇことあんならはっきり言えよ遠慮してねえでよ。昔は言ってたじゃねえかポンポン威勢よく。最近イライラすんだよいっつも人の顔色窺ってどうでもいい言葉尻捕まえてしつこく絡むし言いかけちゃやめるしよ。おまえに隠すことなんか今更なーんもねえよ。おまえはどうなの。なあ。何か隠してんのおまえじゃねえの」
本音を引っ張り出したくての喧嘩腰なのは分かってる。だがおめおめ挑発にのって「好きだからです」などと口走って、友情まで壊れるのはごめんだ。
「…すいません」
悟浄は大きく溜息をついた。
「もー知んね。勝手にしろ」
それでも悟浄は自分を放っておきはしなかった。相変わらず不機嫌になったり勝手に機嫌良くなったりしながら一緒にいてくれた。
今度外で悟浄を見ても、追いかけるのはよそう。
何度も目の端に赤い物がちらついたが、八戒は二度と振り返らず、目で追いもしなかった。
振り返るたび、悟浄が角を曲がって消える。曲がり角のミラーに、握った手摺りに、赤が映り込む。どこにいても悟浄を感じる。
あ、また。
八百屋の店先の、ステンレスの秤に映った赤を、八戒は無視した。
「八戒」
その赤いものは、背後から近づいてきて、八戒の肩を掴んだ。
「……え?」
「え?って何よ」
悟浄は八戒が手を延ばしかけていた買い物袋を、代わりに店主から受け取った。
「煙草切れてたからおまえ追っかけてたらここまで来ちゃった。これ持って帰っといてくれる?丁度いいからこのまま賭場出るわ」
悟浄は小脇に抱えていたカートンの袋を目の前で破って一箱抜き出し、まだぼんやりしている八戒の手に押しつけ、軽く手を上げて足早に道を横切っていった。
…なんだ本物か。びっくりした。
荷物を抱え直すと、八戒はゆっくり家までの坂を上った。包み紙越しでもなんとなく葉が匂う気がして妙に愛しい。なんでこんなに好きになったんだろう。あんな優しくて冷たい男。
八戒が玄関の扉に手を延ばすと、中から寝惚けた声がした。
「…おかえりぃ」
さっきのは誰だ。
今まで家にいるのが悟浄だと何の疑いもなく思ってた。
どれが。
中から戸が開いた。
「さっさと入れよ、寒いから」
「……はい」
寝起きの悟浄。視線が滲んだ綺麗な目の。服に体温がたまった。掠れた声の。戸を閉めようとした悟浄の腕が肩にとんと当たった。一気に熱が雪崩れ込んでくる。
もう駄目だ。分からなくなった。
「なぁ、煙草、何で一個ねえの?」
「…さあ」
「さあってさあじゃねえだろ…」
ぶつくさ呟く悟浄をそのままに、八戒は居間を横切って洗面所へ直行し、冷水で手と顔を洗った。
そう。水の音はいつも高ぶった神経を宥めてくれる。
突然、八戒は微笑っている自分に気がついた。
…別にいいじゃないですか。ねえ。どれが悟浄でも。
どうせ手には入らないんだから。
見てるだけしかできないんだから。
だいたい世の中悟浄以外の人間が多すぎるんですよ。
悟浄以外見たいものなんて別にない。
なんの不都合もない。
むしろ。
八戒は鼻歌混じりに前髪の水滴をはらうと、顔を上げた。
鏡の中に悟浄がいた。
fin