それは、やけに嵩張った封書だった。
 味も素っ気もない茶封筒の表書きには丁寧な文字で自分の名前が記されていたが、その他には何もなかった。差出人の名前はおろか切手さえ、その封筒には貼られてなかった。
 遺品とでも言えばいいのだろうか、残された荷物の中から発見されたそれは、宛名書きが自分だったというだけで何の詮索もされずに手渡された。否、その封筒は封もしていなかったから、おそらく中の文書は検められたのだろう。それでもその封書は、今、自分の手の中にある。
 それはある男の、狂気を綴った書状だった。





 このような手紙を残すことを、お許し下さい。貴方はたいそう迷惑に思うでしょうね。それでも僕は、僕がこれまでに起こした取り返しのつかないこの事件を、誰かに伝えておきたかったのです。貴方も知っての通り、僕には友人と呼べる者が貴方の他にはありません。それどころか血縁者の一人すら持たない僕には、貴方以外に伝えるべき相手を知らないのです。ですからこれは、その憐れな友人の、最期の頼みだと思ってお受け取りください。受け取るだけでいいのです。貴方がこの手紙を読まずに捨てようと、それは一向に構いません。もしかしたら、それこそが僕の望みなのかもしれません。それでも僕は、こうして筆を取ることを止めることができないのです。

 貴方は悟浄という名の男を覚えておいででしょうか。確か一度、僕と一緒にお会いしたことがあったかと思われます。あの時貴方は、僕らを見比べて、随分と毛色の変わったのと付き合うようになったのだなと仰ったのですが、貴方はもうお忘れになったかもしれませんね。あの、僕とは対極をなすような、よく笑う男のことを。彼は今、僕の直ぐ後ろにいます。貴方は何故、僕が他人と住めるようになったのかと訝しむかも知れませんね。厭人症であった、僕の病癖を知っていらっしゃる貴方なら。でも僕は、この数日を彼と共に過ごしています。いいえ、彼の亡骸と、と言った方が良いのでしょうか。

 僕らが出会ったのは、本当に偶然でした。
 当時の僕は、黄昏時になると雑踏の中に佇むという遊びを、毎日のように繰り返していました。平素ならば厭人症であるところの僕は人に見られることが酷く恐ろしく感じられるのですが、人の波の中というのは不思議なもので、あれだけ多くの人間がいても誰一人として僕に目を向けるものなどないのです。川面に落ちた枯葉のように人の波に身を任せれば、僕はどこまでもどこまでも人という水の流れに運ばれて行きました。またある時は、流れから一歩引いた所で彼らを観察しました。黄昏時の魔術なのでしょうか、この時も彼らは僕に気付かぬように、否、真実気が付いていないのでしょうが、ただ一方向に向かって流れて行きました。僕はこの、人の中にありながら、僕として認識されないこの空間を、愛していました。
 そんな、いつもと変わらぬ夕暮れ時、僕は彼を初めて目にしたのです。モノクロォムの写真の上に垂らした一滴の血のように、彼は群集の中にありながら、ただ一人ぽっかりと浮き出たような存在でした。人の中に溶け込んでいるようで、溶け込みきれない、そんな異質な何かが、彼にはあったのです。何故だか僕は、彼が僕と同質の者だと感じました。容姿や性格は、貴方も感じたでしょうが、似かよったところなぞ一欠片とてありもしないのに、根底に流れる魂の質とでも言うのでしょうか、そんなものが、確かに僕のそれと同質だったのです。
 僕は咄嗟に彼を追い掛け、その腕を掴みました。流石に彼は驚いたようですが、それでも振り払うこともなく、僕に何用かと問い掛けてきました。気の動転していた僕は、口篭もりながらも知人に良く似ていたので間違えたとどうにか言い繕いましたが、彼は別段気を悪くした風もなく、その知人とやらは随分と男前なのだろうなと笑ったのです。あぁ、その時の気持ちと言ったら。年端も行かぬ小娘たちの言う、恋に高鳴る心持ちによく似ていたのではないでしょうか。残念ながら彼は道を急いでいたらしく、また僕もそれ以上掛ける言葉を持たなかったものですから、そのまま彼を見送ることになってしまいました。それでも幸運なことに、それから幾度かその場所で彼を見掛け、挨拶を交わす間柄になりました。また暫くすると、彼は手持ち無沙汰からか、街路で僕と並んで会話をしたり、時には飯屋に誘ってくれるようになりました。彼も僕の中に同質のものを感じてくれたのでしょうか。そうならば嬉しいと思いつつも、僕は彼に焦がれる気持ちを押し隠したまま、幾度となく彼の誘いのままに逢瀬を重ねたのでした。

 しかし、人というのは何と欲深く、また罪深い生き物なのでしょう。
 彼はその見目のまま、実に社交的で、人の輪に入ることを得意とした男でした。それは僕と同席している時でも変わらず、その度に僕は、嫉妬と言う名の黒い炎が胸の内で踊り狂うのを感じずにはいられませんでした。あぁ、なんということでしょう。僕は、次第に彼が他人を、否、僕以外のものを見ることを、許せなくなっていったのです。そして遂に、僕はあの恐ろしい計画を思いついてしまいました。

 まず僕は、人里から離れた一軒の家を買いました。それは申し訳程度の母屋と、古いけれども頑強な土蔵が広大な土地の真中にぽつりと並んで立っている、そんな家でした。僕は土蔵に畳をあげ、そこを自室としました。また母屋には少々の手を入れ、耳の遠い賄い婆を一人雇い、そこに住まわせました。老婆は勤勉だけが取り得で、僕が長い時間自室に篭っていようが余計な詮索をしない、うってつけの人物でした。こんな場所には滅多に人が訪る訳もないのですが、万が一来訪者があった場合でも全てこの老婆が応対してくれます。それに、たった一人で暮らすよりも、こういった婆が一人いるだけで、世間の目というのは全く違った見方をするのです。更に僕は、自動車学校に通い始めました。言うまでもなく、彼を運ぶ為の手段として、自動車というものが一番相応しいように思われたからです。まだ通い始めたばかりの頃、僕は何食わぬ顔をして、免許が取れたら貴方を乗せて走ってあげましょうと、彼に約束さえしたものです。彼は笑って請け負いましたが、まさかそんな恐ろしいことを僕が考えているなんて、露ほども知らなかったでしょう。そして僕は、自動車学校の伝手で一台の車を手に入れました。それは自動車学校で使われていたものと同じ車種で、少々の傷が目立つような中古車でした。新車でないのは訝しまれるかもしれませんが、街中ではかえってこういう車の方が人目につかないのです。僕は自動車を手に入れてからも、随分と長い時間を掛けて町中を運転し、道をすっかり覚えてしまいました。車の隠せる場所、人の通らぬ場所。そういったものを、僕は頭の中でシミュレートしながら何度も何度も車を走らせたのです。

 そして、その時がきました。

 僕はかねてからの約束通り、悟浄を車に乗せてやるといって、彼と待ち合わせをしました。僕と悟浄が逢うのは、決まって夕暮れ時でしたから、いつものように飯屋に誘い、僕は車を運転するのだからと断りを入れながらも彼に酒を勧めました。酒豪を自負する彼は、勧められた酒を断るようなことはありません。僕はそれを逆手にとり、彼を酔わせました。そして足取りの覚束なくなった彼を車に乗せると、幾度となく通った人気のない場所へと車を走らせたのです。静かに走る自動車の振動は、彼を夢の世界へと誘ったのでしょう。彼は押し込まれた後部座席ですっかり眠り込んでしまっていました。僕はその、件の場所に辿り付くと、そっと車を止め、自動車の灯火を消しました。すると黒い車は夜闇に溶け込むように、すっかり周囲に隠れてしまいます。僕はするりと運転席を抜け、後部座席に乗り込み、そのまま彼の首を力任せに両手で締め付けました。可哀想に、酔っていた彼はたいした抵抗すらできず、僕の手の中でくったりと、その命を終えたのです。
 その、あまりにあっけない幕落ちに僕は拍子抜けしながらも、彼に用意してあった毛布を掛け、再び車を走らせました。さしずめ僕は、泥酔した友人を自宅に迎えて介抱する、親切な友人といったところでしょうか。それでも、僕の後ろにいるのは紛れもない死体であり、僕は殺人者でありました。ほどなくして自宅に辿り付くと、僕は彼を土蔵の中に運び込みました。耳の遠い老婆は、僕が帰ってきたことに気付くこともなく、すっかり寝入っていることでしょう。土蔵の扉を閉めてしまえば、そこは世間から隔絶された空間となりました。こうして僕は、ようやく彼を完全に手に入れたのです。

 畳の上に寝かせた彼の手を取れば、まだ僅かなぬくもりを内包していました。気まぐれに手を離せば、それはぽとりと僕の膝の上に落ちました。ぽとり、ぽとり。幾度かそれを繰り返した後、僕は彼の頭を抱え、膝の上に乗せてみました。角度が変わったせいで少しだけ閉じた口から、そろりと桃色の舌が覗いていました。何故だかそれがとても愛らしく、僕は小さく微笑みながら、彼の顔を飽きることなく眺めていました。

 どうやら僕はそのまま眠ってしまっていたようです。気が付くと、土蔵の細い格子の間から、日の光が差し込んでいました。無理な姿勢でいたせいでしょう。首と背筋の痛みを感じながらも、僕はもう一度悟浄の顔をよく見ようと、視線を下に落としました。その時、僕の背筋が一息に凍ったのです。陽光の下で見る悟浄の首についた、紫色の痣。見開かれた眼球の中に現れた、黒い小さなシミ。そして、昨夜あれだけ愛しく遊んだ彼の手に散った、青紫の斑点。人の体の妙とでも言うのでしょうか、悟浄の体には、既に死斑が浮かび始めていたのです。その、虫に食われたようなシミが、目を見張る僕の前で、うっすらと浮かび上がっては悟浄の体を染め替えていくのです。

 虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫………

 僕の頭の中では、悟浄の体が目に見えない虫に瞬く間に食い尽くされていきます。あぁ、こうしてはいられない。折角手に入れた悟浄が、骨まで残らず虫に食われ、また僕の手の中からいなくなってしまう。得も言われぬ恐れが僕を支配しました。どうしたら僕は、悟浄を手放さずに済むのでしょうか。懸命に考える僕の頭も、虫に食われたようにところどころが欠け落ちていきます。

 虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫 虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫………………

 あぁ虫が、僕と悟浄とを食い尽くしてしまうのです。どうしたらこの虫を殺すことが出来るのか、僕にはどうしてもわかりません。どうか、誰か、誰か……。僕は初めて、他人に助けを求めました。でもここには、僕と悟浄の他には誰もいないのです。
 狂ったように土蔵の中を探し回る僕の目に、一筋の刃物が映ったのは何の偶然だったのでしょう。その刃物で僕は、悟浄の体の上を這いまわる、目に見えぬ虫を刺し殺しました。あぁそれなのに、この虫は一向に減ることもなく、悟浄の体を喰らい続けるのす。僕は幾度となく、虫に刃物を突き立てました。それでも……。

 お願いです。助けて下さい。僕は、虫に食われてしまいます。





 最後の方は文字も随分と乱れていたが、手紙はこれで終わっていた。あの几帳面な男が末文すら書かぬとは思えないから、恐らく中途で事切れたのかもしれない。件の土蔵の中からは、見るも無残に切り刻まれた身元の知れぬ男の死体と、それと折り重なるように事切れた、もう一人の死体が発見されていた。まるで無理心中のようなそれは、ひっそりと、土蔵の中で干乾びていったのだった。





素晴らしい企画へのお誘い、ありがとうございました。
乱歩への道は、まだまだ険しく遠いようです。
ここまで読んで下さった方、気持ち悪くなったらごめんなさい。
(既に被害者1名生産済み)
でも個人的には、大変楽しかったです……。