水滴が落ちてくるまでの、あの数秒間、見ているだけでこちらまで緊張感が伝わってくる。
 真上を向いて、人差し指でまぶたを押し上げる八戒を見て、悟浄は勝手にもどかしさを味わっていた。スポイトの先からこぼれそうになっている液薬が、今にも眼球に接しようとしているのに、なかなか落ちてゆかない。つかの間の、目玉の乾燥する感覚や、閉じたそうにぴくぴくと揺れるまぶたが、背筋をむず痒くさせる。見ていなければいいと言われたらそれまでだが、何故かこの瞬間、目が離せなくなってしまう。
「目薬点すヤツって、ぜってぇ口、開けんのな」
 ようやく眼を潤した様子をしかととらえ、悟浄は少し強張っていた身体の緊張を解いた。しきりにまばたきをくり返す八戒のいる台所から、視線を外に移した。
「え、口開けてました?」
「ました」
「やだなぁ。虫歯、見られちゃいますね。気をつけよう」
「…虫歯あんの?」
 はは、と声を出して笑ったあと、八戒は軽く俯いて目の端を中指で押さえた。当初はこの仕草に、どきりとしたものだった。八戒の涙など、こんな時にしか見られない。本当はもっと、見てみたいのだと思ってはいるが、口に出せるはずもない。ただの同居人に、そんな不可解な感情を。
「なぁ、おまえさ。こっちの目、も……、見えんの?」
 ごまかすように悟浄は、椅子ごと八戒を振り返り、小さく尋ねた。しかし、その直後に後悔し、言葉を自分で打ち消した。
「…わけ、ねぇか」
 とっさに出た言葉とはいえ、少し配慮に欠ける問いかけであったと自分で思う。
 何かしていないと手持ち無沙汰であるように感じてきて、悟浄は意味もなく一度椅子を引き、急須にポットから湯を注いだ。特に茶が飲みたいというわけでもなかったが、どうも落ち着かない。近頃、いつもこうだ。三蔵や悟空がいるときには感じない、妙な息苦しさを、この家で感じるようになってきた。慌ててばかり、いるような気がしてならない。我ながらなんと情けのないことか。
 言葉に表してみたことがないので分からないが、おそらくこれは、ただの仲間に対して寄せるに順当な感情ではないのだと思う。もっと猥雑でいて、また、相手に伝えたなら気持ちの悪いと思われてしまうような種のものだろう。もしこれを、見透かされでもしたら自分は。
「見えますよ」
「え、」
 椅子ごとひっくり返りそうになった。
「こっちの目も、ちゃんと見えてますよ」
「あ、あぁ、目か」
「なんの話だと?」
「いや…。そうじゃ、なくって。…え、マジに見えてんの?これが?」
「これが」
 右目のほうへ手を伸ばし、その動きを追う。それは、今まで義眼というものに対して抱いていたイメージを真っ向から裏切るにふさわしい出来で、その自然な動きに、最初は悟空と二人、驚嘆したものだった。
「あの生臭の寺はそんな技術持ってるわけ」
「わりと何でもできますよね、斜陽殿って」
「いや、『何でも』にもほどがあるっての」
「本当ですよね」
「……ホントなのか?」
 緑の目の中、疑惑に満ちた自分の顔が映っている。途端、八戒が吹き出した。
「なによ」
「なんでも」
「なら笑うな」
「笑ってませんて」
「なんだよ、気になる」
「だから、笑ってないって」
 無実を証明するために、八戒は口を横に引いて、悟浄の目を見据えたまま、真摯な表情をした。年長の者がほんの子供を宥めすかすようでもあり、また、幼い子がむきになっているようでもあって、悟浄はまた少し戸惑った。
「ぁー……」
 自分でも聞こえないほど小さな声が、とっさに口からこぼれる。泳ぎそうになった視線の先、ごくごく近くで、拭いそこねた目薬が、八戒の形の良い頬骨を伝って白いシャツに落ちた。
 瞬間、悟浄は脳が赤く染まるのを感じた。
 水膜に揺れる緑の眼が、あらぬ想像をかきたてる。それはすぐに、勝手に加速していった。早く目を逸らさなくては。不埒な考えが今以上進展する前に早く。
 目を閉じてしまおうか、と思ったとき、運良く八戒のほうがこちらに背を向けてくれた。あぁ、と大きく息を吐く。濡れた皿を拭く動作にもどった八戒から、ようやく視線をはがすことができた。
 頭皮に嫌な汗をかいている。
 なんだってこんな厄介な感情を抱くことになってしまったのか。自分にも計り知れない思いを少しだけ悔やみ、ため息を吐いた。
 もしこのまま立ち上がって後ろからその肢体を抱きすくめてしまえたら、だとか、白いシャツの背中に触れてみたら、だとか、目薬のせいではなく潤んだ目が見たいだとか、また、わざわざ口に出すのも憚られるような、そういった煮つまった感情が、時おり音を立ててあふれてきそうになる。
 しょうもない、と自分であきれ果て、悟浄は机に肘をついたまま、両手を額に押し付けた。大きく深呼吸をする。それだけで、身体の熱がしっかりと外へ飛んでいくように思われる。しかし、腹の奥に巣食う、どろどろとした後ろめたい欲望は、引いていってはくれなかった。咽喉が、つまりそうだ。いっそのこと一度、言ってしまおうか。
 八戒――、
「わっ!」
 ガシャンとけたたましい音と、八戒の声は、ほぼ同時に聞こえた。
 あまりのタイミングの良さに、思わず悟浄も跳ね起きてしまった。鼓動がなかなか鎮まらない。
「な、なにごと?」
「食器が……」
 八戒の足元、割れた皿が、四方八方に散らばっていた。先ほどのやかましい音の原因は、これだったかと悟浄は台所に足を踏み入れてはじめて分かった。
「悟浄、来たらあぶな――」
「血、出てる」
 その場にしゃがんだ八戒の人差し指を、とっさに掴んで自分の方へ寄せた。
「なに、やってんだよ」
「だって、悟浄が、」
「え」
 まさか、自分が心の中で呼んだ所為だとでも言うのだろうか。
 そんな馬鹿馬鹿しい思いつきを苦笑して打ち消し、破片のない床に膝をついたが、八戒の指をくちびるの近くまで引き寄せたところで、悟浄は、はたと気付いて止まった。
 普通、しないか。こういうことは。
「……」
 そのままの姿勢でしばし固まる。
 この手をどうするべきか。逡巡しているあいだに、掴んだ八戒の指から、赤い血が、ぽとりと垂れた。
「あ」
 それは白い皿の小さな破片を染め、ほんの少しだけ広がって色を変えた。
「俺、バ――」
「その前に、ホウキとチリトリも」
 バンソーコー取ってくるわ、と言い終わらぬうちに、八戒の言葉がかぶさった。どこか、不自然だ。八戒の顔を、まじまじと見遣る。
 何がおかしい?振り返って考えてみても、やはり悟浄にはわからなかった。
「それまで皿、触んなよ」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 近い近い距離で、互いに目を合わせたまま、軽くひきつらせた顔で、そう言った。
「おーよ」
 身体がぎくしゃくとして動かなくならないように、それだけを気にしていたせいで、リビングの扉を閉めるまで、自分が皿の一部を踏みつけていたことに、気付かなかった。
 何も穿いていない足の裏、鈍い痛みが、悟浄の脳裏に警笛を鳴らす。
 床にかすかな血痕を残しながら、悟浄は荒く髪をかき回した。



+++  +++



 悟浄には悪趣味だと言って顔をしかめられたが、八戒はこれを手離せずにいる。
 絆創膏の巻かれた人差し指を押さえながら、机に置かれたガラス瓶を見つめた。自分の部屋に自分の物を置いて何が悪い。
 悟浄に強く握られた、手首がじんじんと熱を発している。悟浄の力はいつだって強くて、自分はそれにいつも戸惑わされるのだ。
 まっすぐな声が頭の中に響いてうるさい。
 視界を遮ろうと左眼をつむった。悟浄には冗談でああ言ったが、義眼が視力を持っているはずがない。本来なら、こうすれば目の前は真っ暗になるはずだ。
 それなのに、目の奥に広がる視界はいたって澄んでいる。
「だって、悟浄が、」
 そんな大声で呼ぶから。
 八戒は熱い息を吐き、両目を手で蔽った。窓からの、ゆるい陽射しは手の甲に吸い込まれ、八戒の世界から光は消えた。しかし、黒くなったはずの視界、自分の部屋をノックしようか迷ってうろうろと歩く悟浄の姿が、扉を隔てていても見える。
 視界にとらえた途端、机の上のガラス瓶が、ガタリと音を立てた。
 もし、この部屋の情景を見ている者がいたら、息を飲んで驚きをあらわにするに違いない。静かだった瓶の中、八戒の失った眼球がアルコールの中でぎょろりと一度、回転した。
 液体の中で、上にも浮ばず下にも沈まず、血管や神経をヒレのようにして始終あちらこちらへと漂っていく様は、まるで魚か何かのようだと、八戒は思っている。
 カーテンのすき間から漏れる、夕方の光に、瓶の中のアルコールが反射する。その球体は、何度も緑の軌跡を描いて、すべての障害物を取り除いた。
 扉越しの、めずらしく真剣な顔も、動きも、動揺までも、感じ取ることができる。それはあまりに強く、八戒をゆする。喚き倒したい気持ちをどうにか抑え、八戒はシャツをかぶって頭を蔽い、床に正座をしたままベッドの上に突っ伏した。
 そんなことを、そんな大声で叫ばないでくれ。頭が沸騰して、どうにかなってしまう。そのあからさまな感情や欲情は、自分が相手に対して抱いているものと相違ない。だからこそ余計、恥ずかしくて見ていられないのだ。
 感度の良いこの眼は、悟浄の早い、鼓動までもを伝えてくれる。リアルすぎて吐き気すらしそうだ。その速度に合わせて先ほどから、自分の心臓も同調してしまっている。
「悟浄」
 自分に答えを告げるか告げまいか、何度も揺れ動いている相手を思い、八戒は耳まで色を変えそうになった。赤く赤く、目の裏すら同じ色に染まる。
 八戒は立ち上がり、羽織っていた白いシャツを放り投げた。めずらしく乱暴に放ったにも関らず、それは嫌味なほどゆっくりと落ちていってガラス瓶を遮り、ようやっと視覚と聴覚を正常に戻した。
 しかし、鼓動は収まらない。
 どう出るか。互いに迷ったまま、八戒は、悟浄の動作とほぼ同時になるよう見計らって、扉の取っ手を回した。

 もう何も見えない。
 開いた扉の、ほんの少しのすき間から漏れた光によって、白いシャツに隠された眼が、一瞬、眩しそうに下を向いた。




【 終 】

恋するピアニスト。