僕を、壊して。
 



 八戒はそう言った。
 自ら悟浄に腕を伸ばして、小さな声で囁いた。
 
 噛み締めた唇は、声を殺すための行為ではなかった。
 ぷつりと表皮を切って盛り上がった血が、崩れ零れて肌を滑った。
「八戒」
 睫毛を濡らして、零れ落ちぱたりと音をたてるようにしてシーツに染み込む涙も、何時ものような生理的なものではない。
 八戒が泣いている。
「傷つきたいなら、俺がそうしてやるから」
 破れた唇から滲んで紅をひいたような唇を舐めて、舌を絡めた。
 慣らさないままに身体を繋げれば、悲鳴が喉の奥までせり上がってくる。
 苦しそうに引き攣る呼吸までもを絡め取り、わざと乱暴に突き上げた。
 眉間に深く皺が刻まれ、苦痛だけの表情が浮かぶ。
 服もろくに脱がないまま。
 もう丸1日止まらない雨音のBGMが薄暗い部屋の濃い陰影と相まって、二人の間を絶望的な黒色に、染めた。
 
 
 大声で叫び散らしたいような、どす黒い感情が沸き起こってくる。
 
 
 まだ本降りには至っていなかった真夜中。
 何食わぬ顔で帰宅すると、八戒がベッドの上の壁際隅で毛布にくるまり膝を抱えて震えていた。
 そして自分の顔を見るなり、壊してくれと縋ってきた。
 こっちにも余裕はない。
 だから。
 容赦しねーぞ、と、冗談半分に忠告した。
 なのに八戒は、しなやかな腕で首を抱き、かまいませんよ、と笑った。
 ある種のやるせなさや寂しさを、二人舐め合うように身体を繋げた。
 



 何も見えなくなるくらい。




 何も聞えなくなるくらい。




 何も考えられなくなるくらい。




 ただ、お互いを感じあえるように。




 苦痛を与え、与えられるだけだった行為がやがて快楽だけに彩られても、二人は貪り合うようにそれを続けた。





 気絶するように眠りについていた。
 目覚めると、八戒は憔悴した顔でまだ眠っていた。
 唇に赤いかさぶたできている。
 雨が、八戒の奥に長いこと閉ざされていた激情を覚醒させたのだろうか。
 咄嗟のことで、流石の八戒も取り乱しパニック状態にでもなっていたのだろう。
 混乱して、どうしていいのかわからなくて、目の前の自分に縋ってきた。
 でも実は、自分もどうしていいのかわからなかった。
 だから抱いた。
 抱いて滅茶苦茶にしてやった。
 滅茶苦茶に、された。




 悟浄はなるべくゆっくりと起き上がって、ベッドサイドに置いていたハイライトを銜えた。
 身体を起こす時に、背中が少しだけ痛んだ。
 爪の痕?
「…ごじょ………」
 呼ばれて見下ろせば、少し潤んだ翡翠が見上げていた。
「すみません…」
「何が?」
「色々…」
「ん?………あぁ」
 八戒の声は掠れていた。
「やっぱり、駄目みたいです…雨の日は……、1人にされるのは…」
 ぽつりぽつりと八戒は喋る。
 寝覚めで掠れた声はどこか拙く、心もとない。
 いつか泣き出すんじゃないかとある意味ハラハラする。
「目を閉じても耳を塞いでも、鈍色の霧雨とステレオ効果の雨音と…」
 手を伸ばして頬に触れると、その手を取って擦り付けるようにしてくる。
「濡れたアスファルトの匂いしかしなくて、気が…狂いそうでした」
 まだ喋り続けようとする八戒の口唇を塞いだ。
「もう、いいって。何も言うな」
 目前に開かれた左眼が、一度だけゆっくりと瞬いた。
「甘いですよね、貴方」
「…わかってんだろ?お前にだけだって」
「冗談でもそういうの、やめて下さい」
「なんで」
「離れられなくなります…僕が」
「あっそ。じゃあ、やめない」
「またそうやって…」
「だって、そうしたらお前のこと、いつか本気で壊せるかもしんねーし」
 残酷で、卑怯なやり口かもしれない。
 だけど。
「変なリクエストしちゃいましたね、僕」
 諦めたように苦笑して、八戒が呟いた。
「ねぇ、悟浄」
 鬱血した赤い痕が何か所も散らばっている白い腕を、八戒が力なく伸ばした。
「僕も貴方のこと、壊せますかね」
(バッカじゃねーの。愚問だよ、そんなのは)
「さぁな。…ま、お前のことだからぬかりなくヤんだろ」
 当たり前だ。
 とっくの昔に。
 出逢ったあの夜に。
 壊されるなと予感した。
(今八戒を無くしたら、きっと俺は、今度こそダメになる。あいつだって、というよりは、真っ先にこの俺が破綻する)
 それはそれで、さぞかし甘美な痛みであろうとは思ったが。
 きっと3秒だって耐えられない。
「俺を、殺すよ…お前は」
 生まれた時から、神様だとか天使だとかには縁がなかった。
 今までの自分の素行を振り返ってみてもどうせ碌な死に方はできないだろうから、いっそ目の前のこの男に何もかも委ねられればいいと思う。
「もう…」
 伸ばされた手のひらが唇に触れた。
「もう、いいですから」
 ぱたりと手がシーツに落ちた。
 左目が、妙にとろんとして眠そうだ。
「眠い?」
「……少し…」
「寝ろよ」
「…えぇ……」
 瞼が落ちた。
 さっきよりはずっと安らかな寝息が聞え始めた。
 我知らず、溜息が漏れる。
 薄いかさぶたに引き寄せられるようにして、口づけた。
「逝く時は一緒〜、ってか」
 そっと呟いた。
 呟いただけだった。
 なのに、穏やかに眠る八戒の白い頬に。
「……っ…」
 水滴が一粒、ぽたりと落ちる。
 骨が軋むほど抱き締めたい。
 肋を折って骨盤を歪めて脊髄をひしゃげさせて、いっそこの場で、この腕で抱き殺してしまいたい。
 耐えた。
 その衝動を軽く触れるだけのおやすみのキスに替えて、包むように腕を回した。


 疼き出した不安を和らげるように鼓動が伝わってきた。
 少し寝乱れた八戒の細い髪を梳きながら、眼を閉じてそのリズムを感じる。




 いつか、本気で壊してしまおうか。
 身体も精神も、ズタズタになるまで。
 血も涙も、枯れ果てるまで。
 それでも、あいつは、俺のことを忘れないだろうか。
 それでも、俺は、あいつのことを思い出すのだろうか。





 「ハローベイビー お前の未来を愛してる」 





 最近聴いた誰かの歌にそんなクサいフレーズがあったな、とぼんやりと思い直し、改めて眼を閉じた。
 どうせ一時の感情だ。
 朝になればお互いに素知らぬふりでまた日常に戻る。
 雨もあがって、街はいつも通りに動き出すだろう。
 八戒もいつものように、ワイドショーに悪態をつく俺に笑いながらパンを焼きコーヒーを淹れるのだ。
 すべてがいつも通り…そう。
 だからそれまでに、自分の奥にわだかまっているこの不可解な感情を、跡形もなく消し去らなくてはならない。

 
 それにしてもこの2人分の鼓動は、降りしきる雨の音と相まって優しく、優しく、微睡みを誘う。
 こんなにも穏やかな感覚はいつ以来だろう?




 俺は今を愛してる。






【了】

互いを想い合うあまりに、どっちも狂っていたらいいのにと本気で思う。