暗闇が齎す平穏を貴方は知っていますか。

ああ、すみません、生まれつき何も見えない僕と貴方が同じ考えを持っていると思ってはいけませんよね。
生憎と僕は何不自由なくこれまでを過ごして来ました。両親が僕に遺してくれた財産は膨大だったので、同情には及びません。

知能は高かったので、点字の理解も早かったですし、それでは書かれていない様々な書物さえも、読んで聞かせてくれる者を雇うことで可能となりました。取り分け残虐な描写を読んで聞かせて頂く悦楽と言ったら、溜まりませんでした。

勿論、鮮やかな色で飾られた世界に憧れを抱いたりもしましたが、僕はそれよりも僕だけに与えられた鋭敏な感覚を味わう事の方が好きでした。ですが、目が見えないという事は、世間的に致命的な欠陥として見られているようですね。僕は何度か言われたのですが、見目が良かったようで、いえ、自分ではわからないのですが、それが幸いしたらしく健常者の方々に大変よくして頂きました。

そうして、趣味の世界への欲求は止まることなく極められていったのです。




盲獣




初めは気持ち悪くて仕方がなかった。


地下室に拵えられた密室はその部屋全体がオブジェとして造られてあった。
逃げようにもままならない、朝も夜もわからない室内で、見るもおぞましい彼の芸術作品が枷となり悟浄を捕らえていた。
彼を捕らえた盲人の男は自分の名を八戒と名乗った。
美しい翠色の作り物の瞳、瞳孔も光彩も全く機能しない彼の眼はガラス球のようだった。
彼は見えない目の代わりに、手や耳で気配を感じ、ほとんど表情を変えずに近寄って来た。
人形のように美しい顔が逆に恐れを抱かせた。
明らかにヒトではない物が、ヒトの様々な器官の触感を持ちうる。それは彼のような盲人でなければきっと辿り着く事は出来なかった世界であろうと推測出来た。
闇に群がる無数の手、足、性器がたった一つの明かりに照らされて浮かび上がる。
その一つ一つは同じようで全く異なった誰かの一部分なのですよと彼は言った。
男女問わず触れた物を再現する彼の能力に感嘆すると共に、それらを創り出したおぞましい執念に悟浄は脅えずに居られなかった。
そして、唯一自由に開く事の出来た瞳すら閉じた。



ところが、どうしてか。
彼に触れられる度に、感じてしまう事に気がついた。
視界を閉ざすことによって研ぎ澄まされた感覚は甘美な陶酔を与えた。
そっと撫でるように形を模る仕草、弾力を確かめる仕草、触れ方の何もかもが常人の持つそれと違い、悟浄は遂にうっとりと溜息をついた。

「なぁ…」

八戒はそれまでと違った意を持った悟浄の問いかけに当然気が付いた。声色に含まれる些細な違いさえも、盲人にとっては大きな意味を持つ。彼は優れた聴覚で全てを理解し、全身余す所なく悟浄の全てに触れ、この上ない悦楽を呼び起こした。
思いもがけず悟浄は彼の手管に堕ちた。



誰にも邪魔されずに互いに触れるだけの関係にも飽きが来て、より貪欲に、短期間で急速に膨らんだ欲望は、ただ触れるだけの刺激では物足りなくなった。
筋肉でしまった肌に噛み付き、ナイフで切り裂き、生温い血の味を愉しみ、傷がより深く刻み込まれていく感触を味わった。
歪んだ悦楽に支配された欲望は表面上の触感だけでなく、内部へと踏み込み、八戒は彼から視神経を切り取り、角膜、眼球を奪って自分と同じ位置に立たせようとしたがそれは適わなかった。

抉り取られた悟浄の眼球は八戒の掌の上にある。
けれど、悟浄にはこれまでに記憶された色彩が、暗闇の中に浮かんで見えていた。
赤、黄色、青。
ゆらゆらと瞼の裏に浮かんで消えない景色。
脳に残された記憶が、過去を鮮やかに再現させるのだろう。
見えないモノが見えるパラドックスに悟浄は笑って「お前には一生理解できねぇよ」と言った。狂気に満ちた笑いだった。

悟浄の優越感に満ちた笑い声が八戒の自尊心を酷く傷つけ、彼を壊してしまいたい欲求に拍車をかけた。
妖しくも、愚かしい彼の行為を止める者は居なかった。




最後に見た八戒の姿が闇にぼんやりと描かれて消えて、それきり悟浄の意識はぷっつりと途絶えた。 悟浄は既にヒトのカタチを失っていた。

それでも、大きく開いた傷から見える抉られた内臓はまだ動いていて、彼の命の灯火はまだ消えていないと八戒に教えた。
中から引きずり出されだらしなく床に散らばる腸や、胃袋の形、生暖かいそれら臓器に直接触れる新たな悦びに八戒は浸り続けた。そうしている内にどくどくと脈打っていた心臓が止まり、徐々に身体も冷たくなり、本当に命を無くしてしまった彼の名前を呼び掛けてももう何も答えない、そんな当たり前の結果に少しだけ寂しさを感じた。

死後硬直を終え、すっかり柔らかくなったそれはほんの少し力を入れるだけで指が溶けた肉にずぶずぶと埋め込まれていき、骨に届いた。
彼を構成する全てを知りたかった。
ただ、それだけだった。

辺り一面に血痕が残る部屋で、八戒は彼の遺した臓器に思う存分触れた。
丸い塊を覆う柔らかい粘膜がずるりと溶け、ゼリーのように崩れる。糸よりも繊細な神経線維や逞しい筋肉を千切った。
跡形もなくなった彼の姿は、八戒によって再構築された。

特に質感に拘り、彼にそっくりな人形を造った。
そして再び切り刻んだ。
テープレコーダーで録音しておいた彼の声をBGMに。

何度も、造って壊して。それでも、再現出来ない彼の艶かしさに彼は脱力した。
そして、新たな獲物を求め血の匂いと肉の腐臭で澱んだ部屋を去った。




終。

乱歩な世界の一番苦手な所に挑戦して失敗しました。ご。ごめんなさい。