綺麗な顔だという噂は聞いていたが、変人だという噂もあった。
 綺麗な顔は好きだが男と変人が嫌いな俺は、脳内多数決でその屋敷からの呼び出しに応じないことに決めた。だがこの小さな街で医者と言ったらこの男、というほどの俺の兄が(優秀だからではなく他にいないだけだ)何をやらかしたんだか知らないがぎっくり腰で動けなくなってしまった。兄が行けといったら行くしかない。俺は一応は医者の卵で、かつ居候の身なので。
 名門旧家の御曹司は名を八戒といって、滅多に外出せず、常に鬱状態で、そのくせ人の前ではいつもなんとなく微笑んでいて、そうしながら人の言うことなんぞまるっきり聞いていない、早い話がぶん殴りたくなるような男だ。でもこいつは一生誰にもぶん殴られることはないだろう。顔のせいだ。この一族は代々身体が病弱なほうで、不健康が手伝って肌が青く見えるほどの透き通りようは、綺麗とかなんとかいう言葉が追いつかないほど凄まじい美貌で、俺は思わず後ずさった。こんな顔、初めて見た。
「わざわざお呼び立てして」
 八戒は俺を座敷に通して、頭を下げた。
「…いーえ仕事ですから。そんで?最近はどう」
 念のため繰り返すが初対面だ。金持ちの常として一家にひとりかかりつけの医者がいて定期的に健康診断に赴くものだが、この家の担当医が、何故か、本当に何故だか最近になって隣町の名医から兄貴にお鉢がまわり、間違って俺に来た訳だ。八戒は俺だろうが兄貴だろうが医者など何でもいいという無頓着な態度を隠しもせず首を傾げた。
「…雨が降る前に頭痛がします」
「うん。普通。気圧の関係でな。他には」
「立ち眩みぐらいでしょうか」
「運動不足。外に出て散歩しな」
 俺はとにかく帰りたかった。ここは空気が悪い。元華族やら官僚やらいった連中は世間知らずで常識がなくて薄気味悪い。だいたい長く続いた家系なんてのは、必ず澱みがあるもんだ。代々守り続けた闇が。
 八戒は俺の乱暴な診療にも特に抗議せず素直に頷いた。
「…悟浄先生」
「先生いらねえよ。まだ誰かいるならついでに診るぜ。犬か?猫か?」
「姉を」
 俺が二度瞬きする間、八戒は中にもうひとつ別の世界があるようなキラキラした色の眼で、俺を真正面から見詰めた。
「姉に会ってください」
 姉がいるなんて聞いてない。職業柄ありとあらゆる噂話が入ってくる。俺が知らないということは町の誰も知らないのだ。その時点で、俺は覚悟した。八戒という男を口で説明するのは難しい。歳は多分俺と変わらないはずだが見た目はまったくの年齢不詳だ。浮き世離れも甚だしい八戒が例えどんなとんでもないことを言い出しても、こいつなら、まあそうかもなで済みそうだ。
 八戒は庭を突っ切って蔵の戸を押し開けた。蔵だ。ほらみろ。もう変だ。
「梯子、あがりますので、足下に気をつけて」
 俺は診療鞄を肩まで押し上げて梯子を握った。八戒は床に膝をついて俺が登り切るのを待っていて、額がくっつくほど顔を近づけた。なんでいちいち傍まで寄ってきて息吐くように喋るんだ。家訓だろうか。
「内密に」
「…当たり前だ」
 口が軽くて医者が勤まるか。

 そして、俺は埃が舞う蔵の二階で、八戒の姉に会った。

「ただいま!」
 俺が息も荒く玄関の戸を開けると、兄貴は按摩に腰を揉ませている最中だった。
「お。ご苦労さん」
「何だよあの家は!」
 兄貴は按摩を手をふって帰らせると、煙草に火をつけて俺を手招いた。
「姉とかいう奴に会ったか?」
「会ったよ!先に言っとけよ、吃驚するじゃねえか!」
「内密に。って言われなかったか?」
 俺が黙り込むと、兄貴は熱い茶を淹れてこちらに押し出した。
「なあ悟浄、よそでも嫌というほど見てきたろ。ああいう特権階級の奴らはどっかおかしいんだ。血族結婚を繰り返して頭が変なのもぼこぼこ生まれる。八戒なんざまともなほうだ。普通に会話ができるだけ」
 その言い方からして、兄貴が八戒を明らかに異常だとみなしていることがよく分かった。
「…姉って、元々はいたのが死んじゃったのかな。それか最初からいねぇのかな」
 兄貴は煙を吐き出した。
「おまえ医者に向いてねえよ」

 案の定、翌日八戒本人から俺宛に呼び出しがきた。
「…気に入られたか」
「…気に入られた」
 俺も兄貴も声に力が入らない。考えてることは同じだ。
 気に入られてはいけなかった。かかりつけの医者以上に気に入られてはいけなかった。俺が悪い。
 昨日蔵から出た後、八戒は俺をなかなか帰さなかった。今日はもう診療はないと聞くと出しかけた茶を引っ込めて酒を注ぎだした。舌がとろんと溶けそうな代物だ。俺は花喃という名のその姉に近づいて極普通に挨拶し、八戒によく似た面差しを誉め、ついでに手の甲にキスして蔵を出てきた。人間にするように。
 八戒はその一部始終を眼を丸くして眺めていた。俺は気味悪がったり呆れたりしなかった唯一の人間だったんだろう、八戒の声音は一気に和らいで、俺を見る目はほとんど潤んでいた。
「…姉にあんなふうにしてくれた人は貴方が初めてです」
 だろうな。
 
 俺が診療鞄も持たず坂を上がって玄関を叩くと、出てきた八戒は昨日と同じように「わざわざお呼び立てして」と頭を下げた。仕事ですからと返す訳にもいかず、俺は曖昧に頷いた。
「…どうかしたか」
「いえ別に。暇だったのでお話したくて」
 こっちは暇じゃねえんだよとも言えず(暇だったので)俺はまた曖昧に頷いた。俺の後ろで音をたてて戸が閉まった。
 八戒に、いやこの家に深く関わるのはやばい。いや正直怖い。手に負えなくなりそうで。同時に怖いもの見たさというか、好奇心は俺の悪い癖だが、変人と噂される八戒を俺が理解できるかもしれないと思うと優越感もあった。
 八戒がどういうつもりであの人形を姉とみなしてそう扱っているのか知らないが、俺は異常だとは思わない。人形が人間に見えているなら狂気だが、八戒は彼女を人形だと分かってる。せめて、たかが人形と態度にも口調にも出さない奴を探していたのだ。人形と言っても舶来のアンティックドールや和人形の類じゃない、生きた人間をそのまま剥製にしたような、怖ろしいほどリアルなやつだ。人形と人間の違いは何かと考えてしまいそうな代物だ。話したり動いたりはからくり人形なら出来る。病で身体機能を失った人間が、その瞬間から人形になる訳じゃない。大事にしてた人形の腕がとれて可哀相だと泣く子供を馬鹿にできるか?
 その子を異常だと思うか?
 八戒はいつも唐突に、御曹司の我の強さでもって俺を屋敷に呼びつけた。呼びつけておきながら何を話すでもない。一緒に茶を呑んで酒を呑んで、帰り際に蔵に上がる。あの梯子を登って花喃の冷たい手を取り挨拶する。その繰り返し。屋敷に一度出向くたびにきちんと診療代金の相場が支払われる。金をもらっている以上、俺はあくまで医者のつもりだった。その日までは。
「…なんでおまえが俺を呼ぶのか考えてた」
 その日俺らは庭が見渡せる縁側にいて八戒はゆっくり茶を点てていた。
「理由がいりますか」
「俺が必要なんだろ」
 八戒はようやく顔を上げた。
「姉貴を肯定してもらうために、俺が傍にいないと困るんだろ」
 高い塀に囲まれた庭園には立派な池もあるし鳥寄せもあるが、魚も鳥もいない。空に見えない膜が張ったように屋敷の上空ですら鳥が避けて通るような静けさだ。そして、蔵には人形。
「…悟浄も僕がおかしいと思いますか」
「いんや」
 八戒は俺の前に回り込んで来て、眼の前で正座した。
「人形でも?」
「よくある話だ」
 人でなしの恋。人でないものにする恋。薔薇に恋する男や鏡に恋する女。よくある話だ。
 八戒は花喃に恋してる。蔵にあがった途端、頬に血の気が戻る。浮世離れした妖精の如き容貌だったのが、その瞬間、男になる。八戒はもうその執着を俺に隠しはしなかった。俺の前で花喃の髪に口づけて愛撫した。俺の目には何やら厳かな儀式のようにすら見えた。ただ恋するなら「姉」である必要はないから、十中八九ほんとに姉がいたんだろう。姉に恋する、それもまあ理解できないことはない。こいつの姉なら俺だって惚れたかもしれない。想いを遂げた前か後か知らないが彼女は死んでしまって、人形を。
「ずっと迷ってる」
「…何をです」
「医者としてはこのままほっときたいけど友人としてはおまえは花喃から離れたほうがいいと思ってる」
 俺の言う意味を、八戒はしばらく頭の中で転がしているようだった。
「…逆じゃないんですか?」
「医者としては何か支えがあるんなら人形でも何でも構わねえけど、友人としては花喃だけ見て生きるのは」
 俺は八戒の凝視にあって思わず息をついだ。
「…寂しいと思うんだけど」
「寂しい?」
 寂しいも分からねえのか。
「なあ、俺おまえが変だとも病気だとも思わねえけど何で人が人を好きになったり嫌いになったりすんの。一緒に生きてて何か変わるのが楽しいんじゃねえの。嫌いだったもんが好きになったり同じもん見て同じこと思ったり違うこと思ったり教えてもらったり教えたりして、そんで変われるのが楽しいんじゃねえの。そんで抱いたり抱き返したりするのが嬉しいんじゃねえの。好きって言って好きって返してもらうのが幸せなんじゃねえのか?もう二度としねえの?そんでそのまま死ぬのか?そんなことも知らないで終わっちゃっていいのかよ。一度しかねえんだぜ人生」
 ただでさえ白い八戒の顔色がさらに白くなり、続いて赤くなった。
 しまった、怒ったか。せっかくちょっとは素直になってきたところに余計な事言った。こいつは静かに生きたいように生きてるんだから俺がとやかく言う事じゃなかった。絶対に踏み込むなと兄貴にも重々言われてたのに。
 ただ花喃を前にした時のあの八戒が、花喃だけのものなのが、なんというか、勿体なくて。
「…悪い。ごめん。忘れて」
「…いえ」
「俺、そろそろ帰んねぇと」
 八戒は立ち上がりかけた俺の袖を引っ張って座らせた。
「いてください」
「っつっても」
「責任とっていてくださいと言ってるんです」
 俺はこれまた御曹司特有の威圧感に押されてペタンと元いた場所に引き戻された。
 何分たったか。
 俺は急に飛び上がって八戒を抱き締めた。そんなことしていいのかどうか分からなかったが仰天して他に思いつかなかった。八戒は声も上げず、泣くと言うより何かを身体から押し流すという感じで30分は涙を零し続け、俺は理由が分からないのと人はこんなに静かに泣けるのかという見当違いな驚きであたふたして、八戒の背中を恐る恐る撫でた。
「…すいません」
「…こちらこそ」
「…泣いたの初めてです」
 そんな感じだ。八戒は自分が濡らした俺の服や掌を、理科の実験でも見る子供のように不思議そうに眺めた。
「俺なんかしょっちゅう泣いてるぜ。感受性豊かだから」
「そうなんですか?」
「悪いことじゃねえよ。だろ?」
 八戒は俺から身体をそっと離すと、ごしごし瞼を擦って「ちょっと気持ちいいですね」と笑った。
「寂しいなんて思ったことなかったのに言われた途端寂しくなりましたよ。…参ったな」
 胸が疼いた。
 普通の人間だ。八戒はただの男だ。何でこいつを人種が違うとかやばいとか思いこんで怖がってたんだ。こいつはただ姉の形をした人形から心が離れず、それをただ、誰かにそのまま受け入れて欲しかっただけなんだ。ただでさえ庶民と机を並べるような学校にも通えない旧家に人間離れした容姿で生まれて、両親も確か早くに亡くしてる。人付き合いが下手でも当然だ。医者にすら敬遠されて、姉にも死なれて、為す術もなく閉じ籠もってただけなんだ。
 俺はもう八戒が可哀相なような愛しいような奇妙な気分になって、とにかく何かをどうにかしてやりたくて、とりあえず手を延ばして髪を撫でた。茶色がかった柔らかい髪。
「…悟浄は」
「うん」
 八戒は何度か言い淀んでから呟いた。
「…気持ちいいことばかりしてくれますね」


 俺が生きてる八戒を見たのはその日が最後だ。
 翌日俺と兄貴は、八戒ではなく家人でもなく警察によばれて蔵に上がった。
 俺は間違っただろうか。八戒と縺れ合ったのは間違いだっただろうか。八戒が自分から俺に触れてくれて、冷えきっていた手が俺で温まっていったあれは、きっかけが同情や寂しさだったとしても間違いだったろうか。俺は来たくて来てるからと差し出された金を押し返した時の八戒の「ありがとう」は何だったんだ。俺が夜中に帰ったあと、八戒が見送ってくれたその足で蔵にあがったのが、何故花喃に詫びるためでも別れるためでもなく自殺するためなんだ。後悔したのか。俺は自惚れてたのか。あいつはやっぱり向こうの住人だったのか。踏み込んじゃいけなかったのか。
 八戒の遺体を見たくない理由なんか言える訳もなく、俺は屈み込んだ兄貴の後ろで目を逸らせていた。
「…悟浄。見ろ」
「やだ」
「見ろっつってんだ!」
 兄貴は俺の腕をひっつかむと無理矢理八戒の前に膝をつかせた。首に、はっきり指の痕が残ってる。
 …他殺?
 俺は傍らの花喃を見上げた。
  何で。…何で。

  人形のくせに。

 俺は我を忘れて手にした鞄を思いっきり花喃の身体に叩きつけた。
「悟浄!」
 兄貴が叫んだ。
 轟音を立てて倒れた彼女の背後の窓からはっきり見えた、この世のものじゃない鈍色の空。

 衝撃で外れた腕からどろりと漏れて八戒に飛び散った肉片。
 
 
 
 
fin

長…。