暗闇に沈んだ部屋は、インセンスの萌黄の煙で満ちていた。
 室内は仄暗いが、80度の角度で差し込む月明かりはあくまでも静かで美しい。



 或いはそれだけなら、よくある夜のワンシーンだったかもしれない。



「ぐ…っ……」
 不意に鈍い唸りのような声が、下の、下の方から聞こえた。
 イミテーションのフローリングの床などつかめる筈がないのに、大袈裟なほど折り曲げられた五指は空回り尺取虫のような意味のない蠢動をただ繰り返した。
 アンティークのソファが、その優雅な風体とは不釣合いなほどに下卑た音で厭わしく軋む。
「五月蠅ぇな…」
 そのソファに深く身を沈めていた男が、おもむろに傍らにあったスナッファーを床に打ちつけた。ブロンズの反響音は、震えながらしばし続く。
 闇に慣れた目にも艶やかなその金髪の男は、目の前に剥き出しの左肩を掴んだ。
 踊るようにくねる、全長30センチほどの黒い蜥蜴の刺青が彫りつけられている途中の、逞しい二の腕。
 滲む、血の色の汗。目の前の男の目と髪と同じ色の、汗。
 下絵の段階ではラフなスケッチのようだったが、今はしとどに血に濡れて、ある種の不吉な躍動感さえ感じさせる一匹の不完全な黒蜥蜴が、ざらつく月の光の下に照らし出された。
 月光と血に混じる苦痛が、青年の肌を忌わしく染め上げている。
 そしてまた針が、青年の皮膚に突き刺さる。
 不必要に深く突き立てる、拷問にも似た遊び。
 そこには一片の同情も、ない。
 自分にとっては取るに足らないような存在であることを思い知らせるためだけに、金髪男は赤毛の青年をひたすら狂気の刺青で弄ぶ。
 針で突かれ肉を抉られる度に、青年は人間の悲鳴とも獣の唸りともつかないようなトーンの呻きを漏らした。
 彫師の男が掌に漆黒の顔料を注ぎ足す度に、赤毛は全身をこわばらせ、脂汗を滴らせて襲い来る苦痛に耐えた。
 その様子を先ほどからじっと、窓際に立ち控える片眼鏡の男が見つめている。
 額にかかった長めの黒髪が柔らかな陰影を描いているが、顔はまだ闇に隠れ、見えない。
「鷭里って野郎、知ってんだろ?」
 金髪の男が作業する手を止めず、相変わらず無愛想に訊く…というよりは、一方的に、言う。
「知るか…クソ」
 顔に傷を持つ赤毛が粋がって吐き捨てるのを見て、窓際の男は声も立てず笑った。
 視線が合ったのだ。
 こんな理不尽な体勢で肌を犯されていながら、射るように鋭い眼差しは光一つ失っていない。



「今週中に、バラせ」



 この状況下で返事がまともに返る筈もない。ただ鬱々とした室内に肉を突き崩す音ばかりが聞こえるだけだ。
「…聞こえてんのか?」
 ソファの男は、赤毛の血まみれの上腕を指の跡がつくほどの強い力で捻り上げて、言った。
「…んで…アイ…ツ……」
 切れ切れの呻きに混じって、どこか醒めた声音が探りを入れてくる。
 金髪の彫師の男はもう一方の手で赤い髪を根元から掴んだ。
「おい」
 片眼鏡の男は薄い唇を微かに舐めた。緩い微笑みが翳める。
「…えぇ」
 しなやかに近づいてきた支那服の男の両手がそろりと伸びて、涙と脂汗で歪んだ赤毛の頬を包んだ。
 鮮やかな翡翠の奥に宿るのは、穏やかな声音とは似ても似つかない、獰猛さ。
「スキン・リザード」
 ため息にも似た甘い囁きが赤毛の自制心をかき乱した。



 赤毛は耐えきれずに身を震わせた。
 黒髪の男はうっすら笑って唇を寄せると、赤毛のささくれだった唇に自分の舌をねじ込んだ。
 舌がとろけて、もつれ合う。
 ごくり、と赤毛の喉が上下したかと思えば、次の瞬間には、ほうっ、と、上気した声が漏れる。
「それと、―――――も」
 その一言で、赤毛の様子ががらりと変わった。真紅の双眸に情欲の色が走り抜ける。
 吐息が熱っぽく乱れ出した。
「欲し…欲しい……早く…」
 赤毛は前のめりに脱力してくず折れた。
 金髪の男は最早支えようともせず、立ち上がった体勢のまま黒と赤に汚れた両手を古ぼけたテーブルクロスで拭っている。
 黒髪の男は投げ捨てられた赤毛の上腕を掴んだ。細腕でも結構力はあるらしかった。
 赤毛は息を荒くしてその白い手を振り払う。片眼鏡の男は左目を細めた。
「立ちなさい」
 赤毛の刺青男は、月影のかかる窓枠を支えによろよろと立ち上がった。
 しなやかな筋肉のラインが光に切り取られ、床に漆黒の影を落とす。足下に、何かが糸を引いて零れ落ちた。
 赤い雫がボタボタと、まだらに汚れた床に跳ね返る。



 ソファの男は、いわくありげな眼差しを向けた。
「…裏切るのか?」
 だが、赤毛は答えない。
 ソファの男は嘲るようで、それでいておざなりな笑みを浮かべ、今度はテーブルクロスを打ち捨てた。
「あの鷭里って下衆野郎、吠登に寝返ったらしくてな」
 片眼鏡はテーブルの上に積んであった革袋をひとつ、赤毛の足下へ放り投げた。鈍く重みのある金属音がごとり、と鳴る。
 赤毛はハッとして、すぐさま凄惨な眼差しを黒髪の男へと擦り上げた。
「クスリだ。先にくれ」
 男は酷薄に微笑み返す。
「では後で、僕の部屋にいらして下さい」
 赤毛は貪るように袋を掴み、よろめきながらドアの向こうへと消えてゆく。
 ソファの男はマルボロに火を点け、いかにもうんざりしながら煙を吐き出した。
 だが煙が散った後、男はほんの少し唇を歪めて笑ったように見えた。
「…トカゲの尻尾切り、だな」
 黒髪の男は苦笑しながらも、それはさも優美に答えた。
「そのようですね」



 赤毛の男は部屋でひとり、ベッドに埋もれていた。
 脱ぎっぱなしの衣服が床に散らばったままだ。
 血と顔料の臭いをさせながら、赤毛は病的に熱を帯びた目でドアを見つめ続けていた。
 ふいに開いたドアから、先ほどの片眼鏡の男が入ってきた。赤毛はごくりと喉を鳴らす。
「……はやく、よこせ…」
 呻くように言う。
 黒髪の男は赤毛の存在など気にも留めない様子で、そのまま歩み入ってきた。
 完全に赤毛を無視している。
 赤毛は跳ね起きて、男の行く手に立ち塞がった。
「さっさとよこせ…」
 進路を遮られ、男は不興げに立ち止まった。底冷えするような翡翠が赤毛を射抜く。
「嫌だなぁ、我慢もできないんですか?」
 ポケットの中に手を入れ、いたずらに探る。
 赤毛は待ちきれず、身体を震わせた。
 壁に据え付けられた錆びた銀の燭台に、じりじりと音を立てて燃えるアンティークの蝋燭がたった一本、仄暗い光を放っていた。
 迷える羽虫が、己自身を焼き焦がしながらも離れられず、火の周囲を舞い狂う…命果てるまで。



 拷問のような静寂が過ぎてゆく。
 片眼鏡の男は、ふっと気配をゆるめて赤毛の髪をくしゃっと撫でた。
「…触んな」
 赤毛は頭を振ってかわした。
「さっさとよこせよ。さもねぇと…」
 餓えた獣のように赤毛は男へと挑みかかった。
 ポケットに手を掛けて、無理矢理に中のものを引きずり出そうとする。
 黒髪の男は浅く笑った。
「迂闊でしたね」
 赤毛は動きを止めて息を呑んだ。
 いつの間にか、自分の喉元に細いナイフの尖先が突きつけられている。男の声色に冷酷な力が込められた。
「その手を、離しなさい」
 赤毛は動かなかった。
 喉仏のあたりの皮膚が、ぷつっ、と音を立てた。
 みるみるうちに血の気泡が膨らんで、つつ、と喉元を滑り落ちる。赤毛は歯を食いしばった。
「あぁ、欲しくないんですか」
 その警告に赤毛は一気に脱力し、腐った目を逸らしてのろのろと従った。
「…いいでしょう、ほら」
 支那服の男は赤毛に何か…小分けにされた茶けたざらめ状のものを示した。
「よこせ」
 赤毛は息を荒げてその粉末をひったくり、部屋の隅へ駆け込んだ。
 そのままかたかたと手を震わせながら、苦い煤で真っ黒になった真鍮の皿を引き寄せる。
 薄茶色のそれを皿にカラカラと落とす乾いた音が響いた。
 阿片だった。


    
 冷めた翡翠が、赤毛の逃げ込んだ闇の方向を見つめている。



 赤毛は壁の燭台から蝋燭を取り、テーブルの上のランプに火を移した。
 その上に、阿片の樹脂を載せた皿をかざし、炙る。
 頬にさした赤い色は、熱病に冒されて瀕死状態の病人さながらだった。
 立ち昇る濃い煙を、赤毛はかき集めるようにして吸い込んだ。
 凭れた椅子が大きな音を立てて倒れる。



 堕落の気配が漂い始める。



 支那服の男は阿片に魅せられしどけなく幻想に溺れてゆく赤毛の腕を掴んで、自分のベッドへと放り投げた。
 赤毛はだらしなく仰向けになったままけらけらと笑い出したかと思いきや、今はもう、ぴくりとも動かない。
 不意に黒髪の男は赤毛に覆い被さり、左肩から左肘にかけて蠢く「黒蜥蜴」をそっと撫でて口づけた。
 赤毛はくくっ、と声をあげて身体を揺らす。
 緩みきったその表情は笑っているようでもあり、どこか泣いているようでもあった。
「悟浄」
 片眼鏡の男は、ぞっとするような冷たい目で悟浄を見下ろし、吐き捨てた。
「貴方昔は、いい目してらしたんですけどね…」



 翡翠の瞳に、昏い炎が燃え上がった。





【了】


副題は「限りなく黒に近い赤」ってことでひとつ。