雑然とした裏路地を抜け、片手に戦利品を持ち、男は鼻歌混じりに足取りも軽やかに外階段を登っていった。
彼の事務所兼塒となる一室は、外部からも出入り出来るよう扉が配置されている。錆びついた階段は体重がかかる度に揺れるが彼の機嫌はすこぶる良く、そんな些細な事は全く苦にならない。

彼に纏わる噂は多々あり。
女と見れば見境なく声をかけ、齢20歳で百人斬りを達成したとか。赤毛は地毛だとか。ついでに言えば下の毛まで赤いとか。街で起こるありとあらゆる事件に片足を突っ込んでいるとか。名探偵と噂される割に事件が解決しないけれど依頼金はかなりお得な庶民価格だとか。事務所に居るよりパチンコ屋に居る確立の方が高いとか。携帯をトイレに落とした回数が片手で足りないとか。

明記し切れぬ程、ありとあらゆる噂が飛んでいる。
しかし、その噂の究明に望んだものはあまり居ない。
彼の名前が有名になったのはとある事件からだが、そもそも事件そのものが表沙汰になっていないため、事件が解決したのか未決なのかそれさえも真実の程はわからない。
唯、確かなのは彼がトラブルメイカーであり、トラブルシューターであり、悟浄という呼び名を持つという事のみ。


「ぉわっ、ビックリさせんなよ悟浄」
悟浄が外扉から事務所内に入ると、電話番の少年がテレビ画面に向って驚いた声を上げ振り向いた。
「るせぇ、何処から入ろうと俺の勝手だろ? つーか、お前、まだソレやってたのか。留守番ご苦労、もういいぜ帰って」
「バイト代は? メシは?」
「んな金ねぇよ。バーカ」
「良いのかなー、んな事言って」
そう言って、少年はメモ書きした紙切れと、ポラロイド写真を悟浄に振って見せた。
「客か!?」
「正式な依頼、って。2ヶ月ぶりだっけ?」
「るせぇ、さっさと寄越せ」
そう言いながら無理矢理彼から紙切れを奪い去ると、ソファに深く沈みこむように腰掛けた。
悟浄の事務所に大抵常駐している少年の名は悟空。ひょんなきっかけから彼はココを遊び場としてゲーム機本体やソフトを置いて、様々な玩具を持ち込み入り浸っていて、悟浄も又それを容認している。
彼が依頼内容を確認しているのを横目で見ながら、悟空は彼の持ってきた紙袋の中身を出し、煙草の箱はテーブルの上に置き、煙草と混じって入れられていたチョコレート菓子の封を開けて食べ始めた。

「で、今日は幾ら勝った?」
「ココの店賃分」
「マジ? 悟浄探偵なんつー儲からない仕事辞めてパチプロになった方がいいんじゃねぇ?」
「既に、どっちが副業かわかんねぇ事になってるけどな」
「言えてる」
「どっかに金落ちてねぇかなぁ」
「俺、食い物がイイ」

事務所内でのバカバカしい会話が耳に入り、これから中へ入ろうとしていた全身黒ずくめの衣装で固めた男は軽く眩暈を覚えながら扉を開けた。
二人の視線が自分に注がれ、彼は深い溜息と共に言ってのけた。

「お前ら、バカな事ばっか言ってねぇで、真面目に働け」
「っと、捲簾……何だよ、突然。事件?」
「黒ヤギ郵便到着。お前に事件の依頼なんか死んでも頼まねぇよ」
ポケットに突っ込んでいた手紙を悟浄の目の前に差し出した。長4型の定型封筒に、見慣れた筆跡、封を開けずとも差出人が誰かわかった。
「あぁ、いつもの…」
「何、それ」
「凄まじく利口でネガティブなポエミストからのお手紙」
「又は微妙な、ラブレター…」
「そうとも言えない事もなくもない」
「どっちだよ」
「悟空、お前、殺してぇヤツ居る?」
「へ? いや、別に。腹立つ事はしょっちゅうだけど。殺したいとまでは…」
「よしよし、正常、正常。お前はそのまんまで居ろよ。おーし、ファミレスでメシでも食うか」
そう言いながら、悟浄は手紙の主と出会うきっかけとなった事件を思い出していた。


届いた招待状の差出人に見覚えも聞き覚えも全くなかったが、同封されていた小切手と、「彼を助けて」という一言に誘われ悟浄はパーティ会場であるホテルへと向った。
当然の如く、一見チンピラにしか見えない悟浄は受付で差し止められ、招待客リストにも悟浄の名前はなく、招待状を見せて尚、拒絶された。質の悪い悪戯だと腹を立て帰ろうとしたところに、悲鳴が聞こえた。
騒然と入り乱れた会場に残っていたのは、主賓たる男を模造した人形だったが、目の部分が焼け爛れ、男の不吉な未来を暗示するメッセージを含んでいるようだった。

「さっさと片付けろ。役立たずどもめ、あぁ、もうやめだ、こんなケチのついたパーティなんぞ中止だ」
警備員達にそう指示すると、男は怒りを堪えきれないといった様子で会場を出て行った。

「ぁーあ。勿体無ぇ…」
殆ど手のつけられていない豪華な食事を前に、悟浄は呟き、リボンの巻かれた骨付きチキンに手を伸ばした。
すると、寸前でそれを奪い取られた。
手の主を見るとそこには珍しくスーツを着て、ネクタイ姿の捲簾が立っていた。
彼の職業が刑事だというのを認識しては居たが、現場で会う事があるとはまさか思ってもいなかった。
「何やってんだ、お前。ココは関係者以外立ち入り禁止だぜ?」
「捲簾こそ…何で、ココに? って、ぁあ、刑事だからか。つかさ、関係なくもねぇんだな、コレが」
「どういうことだ?」

送りつけられてきたメッセージつきの招待状の事を話し、見せたが、全く手がかりにならないとあっさり跳ね除けられた。

「いいから、さっさと帰れ。捜査の邪魔だ」
「って、コレだけじゃねぇんだって。知らない相手とは言え、もう金も貰っちゃってんだから、依頼だろ? そっちこそ俺の仕事の邪魔すんなよ」
「あの…」
不意に呼びかけられた第三者の声に二人は振り向いた。
「警察の方、ですか?」
「あぁ…あんた名前は?」
「八戒、と言います。先程は父がすみませんでした。まさか祝いの席でこんな事が起きるなんて。予告通りにパーティを中止にすべきだったんです」
「予告、ったって。よくある悪質な悪戯、だろ?」
「なら、良いんですけど…」
「なんか知ってんのか、あんた」
「…父は1代で財を成しました。他人を蹴落として社を大きくしたんで、誰かに逆恨みされていたとしてもおかしくありませんから…僕には優しい父なんですけど……」
その時、はにかむような笑顔で八戒は言った。
結局、この件は悪質な悪戯と見なされ、不審な女性を見かけた者が居たという証言が出たけれど、決定的な証拠がなかったため、謎を残したままそれ以上追及される事はなかった。


「やり切れねぇ」
「アンタ、刑事向いてねぇんじゃねぇの?」
「るせぇ、黙って付き合え」
事件から数日後、公園のベンチで缶ビール片手にクダをまく捲簾につきあっていた悟浄は夜空を見上げた。
星が瞬く。
瞑った瞳の裏に焼きついた星が浮かぶ。遠い星も近くの星も、手に届かない事に変わりはない。幾億光年越えて届く光。無限の宇宙の闇の中で見えない星が潜んでいようと誰も気が付かない。
「彼を助けて……か…」
「ぁあ? 何の話だ」
「この前の、招待状だよ。何で俺のトコに送って来たんだろうなー…」
「さぁ? たまたま、だろ」
「たまたま? 有名な探偵事務所でもない俺のトコに?」
「んじゃ、実はお前の事を知ってて、お前ならアレだけでも解決してくれるだろうと期待してたから、とかいう答えが欲しいのか?」
「ゃ、そうじゃねぇけど」
「何かしたいんなら、動けよ。らしくねぇぞ」
「アンタもな」
「んじゃ、行くか」
「何処へ?」
「決まってんだろ」

捲簾に促されるままに連れて行かれた場所は素晴らしく立派な屋敷だった。

「到着。っと、悟浄…おっせぇよ」
「っせぇ、体力馬鹿」
「もちっとスタミナつけろや」
「つーか、ココ何処だよ!?」
「お前が気にしてたから、猪グループ社長のお屋敷まで案内してやったんじゃねぇか」
「……は?」
「正面突破、あるのみ」
そう言って捲簾はピンポーンと、玄関チャイムを鳴らした。
「っわ、馬鹿。何やってんだよ」
「後はお前に任せた!」
「どなたですか?」
「………」
まさか返事が返ってくると思ってもいなかったため、何の用意もしていず、ただ思いつくまま適当に言葉を繋いだだけだというのに、八戒は悟浄と捲簾の事を覚えていて、中に入れてくれた。


「警察に相談しようかと思っていた矢先でした…まさかそちらからいらしてくれるとは思ってませんでしたから、丁度良かったです」
「……マジかよ」
「歓迎されるとは思わなかった…」

出されたコーヒーに口をつけ、居心地悪そうに捲簾と悟浄はひそひそと話し合った。捜査と言うには余りに強引且つ無鉄砲な時刻の来訪にも八戒は嫌な顔一つせず迎え入れ、歓迎している節さえあった。

「父は本気にしていませんが、また予告状が届いたんです」
「見せて貰えますか?」
猪家に復讐を誓う、と赤い印字で書かれていた。簡潔な文章なだけにその内容の特定が出来るとも思えなかった。
「俺は、別にあんたの父親を守りに来た訳じゃねぇんだけど。俺のとこに送られてきた招待状に書かれてた「彼」とは、どうも違う気がする。あんたにはなんか心当たりねぇの?」
「すみませんが、全く…僕が狙われる理由なんて想像もつきません」
一見した限りでは八戒は何の不自由もなく育った好青年に思えた。周りからの評判も良く、彼の過去や、家の中での出来事、それら全ては明かりを照らして覗こうとしない限り、見える事はない。
だから、誰も彼を疑ったりしなかった。

八戒の好意に甘えて泊り込んだ屋敷は無駄に広く勝手がわからず、うまく寝付く事が出来なかった。客間のふかふかのベッドは柔らかすぎて沈みこんでしまいそうで悟浄には合わなかった。
窓を開けて、煙草を吸おうと火を点けた時、人が落ちる音を聞いた。
咄嗟に見上げた屋上の物陰に潜んだ姿は長い髪の女性のようだった。


悟浄は捲簾共々現場に急行したが、既に猪家の主人は事切れていた。地面に叩きつけられた死体は見るも無惨なものとなっていた。

すぐに警察を呼び、辺り一体を包囲し、住み込みのメイドは全員叩き起こして、不審な女性は居なかったか詰問したがその問いに答える者は居なかった。
事件の解決は難しいように思われたが、八戒の部屋にあった長い髪のかつらと同じ毛が遺体から発見され彼は容疑者として逮捕された。
だが、動機はおろか、犯行時の記憶さえ彼にはなかった。

心理学者の下した判断は、犯罪時彼は心神喪失状態にあり、多重人格が認められるというものだった。彼の中には幼い頃、猪家主人によって陵辱され自殺した花喃という双子の姉を模した人格が宿っているというのだ。
人格障害が認められた判例はこれまでなかったが、彼のポリグラフ検査結果は事件に関与する語句に対して何の反応も示さなかった。

花喃という人格の彼女がしでかした犯罪に彼は無関係だという証拠とされ、再犯の恐れもなく、至って落ち着いた返答をする彼は結局不起訴に終わり、今は治療と社会復帰を促進する施設で至って人間らしい暮らしを送っているという。

だが、悟浄は信じていなかった。
彼女の言葉すら彼が捏造し演技しているものではないかと疑っていた。


「どーも嘘クセェんだよな」
「何で、そう思うよ?」
「なんとなく。復讐は遂げられたし、財産は全部ヤツのもんだろ? なんっか、利用された気がすんだよな…」
「つっても、アイツは認めないだろ?」
「まぁな…」
「んでもって、お前はアイツを助けてやりてーんだろ?」
「……さぁ?」

悟浄は彼からの手紙をひらひらと玩びつつ、横目で美味しそうにステーキセットを黙々と食す悟空を見て、「お前は単純でいいよな」と言って笑った。

悟浄は、手紙の返事になんと書くか考えるのはまたにして、とりあえず目の前の食事に手をつけた。




終わり。

迷探偵明智悟浄。