「眼帯とってみな」
急に辺りが静まりかえりました。
週末の役所は人でごった返していて、僕は書き終えた書類を手にひんやりしたベンチに腰掛けて自分の順番を待っていた、はずでした。唸るような雑音や暑いでも寒いでもない生暖かい気温のせいで、とめどなく物思いに耽りながらぼんやりしていた僕は、知らないうちに男同様、人垣に取り囲まれて見せ物になっていたのです。
喉元まで一気に迫り上がった塊を何度も飲み下し、僕は男の顔を見返しました。
悟浄は…声をかけてきた男の名ですが、背が高く、燃えるような赤い髪で、それでもまだ目立ち足りないのか長い長い黒のコート、左手に杖を持ち、頬に深い傷がありました。何より彼を異様にみせているのは、2,3歳ほどの子供を軽々と担いで左肩に座らせていることです。目深にフードを被った子供の指が悟浄の首の辺りをはい回っていて、その取り合わせは「微笑ましい」とはほど遠いものでした。いや子供ではなかった。大きさは子供に違いませんが、その甲には青い血管が浮き上がり、肌には年齢を重ねた男特有の陰影が見えます。フードの中の顔が、ゆっくりこちらを向きました。
「……ひっ」
群衆が同時に息を呑み、僕を取り巻く空間がまた僅かに広がりました。
悟浄は無造作に腕をのばして僕の顎を持ち上げました。
「眼帯だよ。とって見せてみな」
ここに至ってようやく、僕は何を言われているのか理解しました。
眼帯をとれ?人前で、いや鏡の前でだって外したことのないコレをとれ?裸になれと言われた方がまだマシです。
悟浄にしがみついた奇妙な小人や、いまや関心が自分に向いたらしい群衆の好奇の視線や、近くで見ると万華鏡のように色が飛び散った濃赤の目に気圧されて声が出ず、首を振ろうにも悟浄のやけに冷たい指先が許してくれない。
最初の驚愕や不快感を押しのける勢いで膨れあがったのは怒りでした。僕は、傲慢に聞こえるでしょうが少しは恵まれた家に生まれて、ただの一度も人に命令されたことがありませんでした。こんな屈辱は初めてです。
「…そんなに見たければ自分でとったら如何です」
悟浄は突然、微笑みました。
あまりに不意であまりに無邪気なものだから、怒りが一瞬何処かに霧散しました。
指が顎から頬、鼻梁を越えて右の頬へとじりじり移動し、右目を覆った眼帯の上を何度か撫でました。それはほとんど愛撫といってもいいほど優しく執拗で、僕は人前で堂々と嬲られる異常さに混乱し、結果的にされるままになっていました。
「気に入ったのか?悟浄」
小人が初めて口を聞きました。
声と言うより音です。金属を擦り合わせたような、腹話術の人形のような。
それ以上後ろに下がりようがなく、それでも下がろうとした人々が壁にどんと背中をつきました。
悟浄はそれには答えず、眼帯をむしり取られる僕の覚悟をすっかり無視して、前屈みになっていた体を起こしました。
「見せたくなったらおいで」
悟浄と小人が出ていくと、空気が一気に緩みました。それは空間全体がほっと溜息をつくような急激な緩み方でした。何人かは幾分期待はずれの視線を僕に寄越しましたが、ようやく時計が回り出した室内で人垣が崩れ日常が戻った後も、僕はそのままベンチに座り込んでいました。人に自分を触らせたのはこれが初めてでした。腰が砕けて立てなかったのです。カウンターの向こうで事務員が僕の名を何度も呼び、ついには怒鳴り出すまで。
浅草。
あんな片輪者をつれて人知れず生活できるはずがないのですから、どうせ曲馬団か見せ物小屋の住人です。悟浄が役所に提出しにきた書類の何たるかもさっさと聞き出してしまいました。営業許可証。流しです。
もしかしたらあれは、役所でのあれは、小屋の宣伝だったのかもしれないと思いました。僕が散々迷った挙げ句浅草行きのバスに乗る頃には、悟浄が(赤い髪の男が、という風評でしたが)仕切っている興業は学友たちの間でも噂になっていました。自分を弁護するのではありませんが、僕は見せ物の類は好きません。生まれつき不具であることは不幸に違いなく、その体を見せ物にする気持ちも、好奇心でそれを見たいと望む気持ちも、許されるものとは思えなかったのです。
見せたくなったらおいで。
言葉の意味は分かりません。まさか僕に商品価値があろうはずもなく、右目のことは唯一の劣等感ではありましたがもう慣れてしまって、すっかり何とも思っていなかったのです。遠慮のない者に眼帯の下はどうなっているのかと聞かれたことはありますが、取って見せろとまでいう者はいませんでした。ああ見せてやろうと挑む気持ちではありましたが、単にもう一度会いたかったのだと言われると、まあそうです。悟浄は僕が今まで見たことのないものでした。あの異様にキラキラ光る目は、僕に何かを、随分長い間忘れていた何かを思い出させました。彼を見てからは、他の誰もみな同じ、薄灰色のくだらない生き物に見えました。
悟浄の劇場はすぐ見つかりました。酷く汚い土蔵のような趣で、しかし驚いたことに寄り集まった連中の中にはやたら身なりのよい裕福そうなご婦人や紳士がいたりして、よくよく人間の欲の何たるかを考えずにはおれません。観客ではないと主張したいがために興業の終わる時間に出向いたので、人波に逆行する形で楽屋裏に回りました。
「あら」
後ろ姿から洋装の美女かと思われた女性に声を掛けると、振り返ったその顔にまるで鉄仮面のようなマスクをつけていて、僕は叫びかけました。
「ごめんなさいね、驚かせて。さっきの舞台は見てないのね」
女性の隣の、これまたやけに体躯の短い男が含み笑いをしました。
「彼女の素顔を見て失神したご婦人が今日は大台だ。見たいなら金払うんだな坊や。悟浄なら今呼んでくるよ」
僕は礼を言い、その途端あちこち寸法の狂った彼の指が両手合わせても4本しかないことに気付き、いったいどういう態度でいるのがこの場にふさわしいのかさっぱり分からず、つまり、体の形がどちらかというと少数派である人達が目の前を「お疲れさん」と言いながらにこやかに歩いたり跳んだり這ったりして行き過ぎるのについに目眩がしてきて、悟浄がコートの裾をひらひらさせながら鼻歌交じりに現れた時には安堵のあまり危うく抱きつくところでした。
「お茶、召し上がる?頂き物のいい葉があるの」
異様なマスクさえ除けば申し分の無い美女が手招いてくれ、僕は何となく楽屋の隅で紅茶をすする羽目になったのですが、とにかく周囲でざわざわしている人達はその体で稼ぐほどのインパクトある見た目であるわけで、僕は無邪気に走り寄ってきた子供の額に女性器のように赤黒く裂けた、しかしどう考えてもそれは目であるという三つ目の目を見た時に、頭の中で何かの線が切れる音を聞きました。
悪夢のようでもありますが、これ以上ない現実のようでもあります。悟浄は明らかに連中の王でした。不可思議な形の生き物に囲まれて慕われ頼られているその様は、どこかの国の宴のように、また昔見た異国の絵のように、不完全なところがひとつもないのです。先刻の美女など明らかに悟浄を恋い慕う風で、舞台上がりで艶やかなドレスの彼女と、赤髪を黒のリボンで結わえて手袋までつけた悟浄が並ぶと、もう完全無欠の恋人同士のように美しく、不気味なマスクがさらに荘厳な雰囲気を醸し出していました。
皆、楽しそうでした。仲良く笑い、お互いを気遣い、ひとりで動けないものは誰かが抱えてやりながらその日の舞台の反省などしている様は、幸福とか仲間とか友情とか家族とか、そんな言葉が脈絡もなく浮かんでは消えるほど光に満ち溢れていました。悟浄の知人と紹介された僕に会釈をくれるその笑顔は、形としては笑顔になっていなくても、笑顔以外の何でもないのです。僕は金につられた取り巻きや、競争相手にすぎない学友の顔を思い出し、涙が出そうになりました。
「とれよ」
悟浄は僕の服の裾を掴んで離さない三つ目の子供を後ろから抱え上げ、きゃっきゃと喜ぶその子の体を愛情こめて群れの中に放り投げました。
「…ここで?」
「見せに来たんだろ。あん時の度胸はどうした」
一斉に人々の目が僕に向きました。たかだか右目がないだけの欠陥が恥ずかしいと思ったのは初めてです。悟浄は煙草をふかしながら面白そうに僕を眺め続け、僕は諦めて眼帯をゆっくりと外しました。滅多に風にあたらない皮膚に空気が触れ、前髪を舞い上げました。
「うわあ!凄い、近くで見てもいい?」
「痛くはないのよね?」
今更こんなものの何が珍しいかと思う奇怪な連中がわさわさ寄ってきて、僕のぽっかり開いた眼窩をしみじみと眺めました。
「綺麗だなぁ」
「うん、綺麗だ。こんなふうなのは初めて見たよ」
「こっちの目も宝石みたいだから余計ね。肌も綺麗で壊れた人形のようだ」
「みんな、触っちゃだめよ。私たちと違ってこれは傷なのだから清潔にしておかないといけないわ」
僕はただただ面食らって悟浄を振り向きました。
「こいつらの見かけは生まれつきだから。あんたのそれが珍しいの」
分かるような分からないような悟浄の説明でしたが、少なくとも期待を裏切らずに済んだらしいので、僕は安心してまた眼帯をつけました。
「自分で抉った?」
「ええ」
「何で?」
「頭にきて」
悟浄は途端に爆笑しました。
「いいな。凄くいい。こいつらは見た目がどうかしてるけど、あんたあれだ。頭がどうかしてるな」
僕は思わずカップを取り落としました。悟浄は何の悪気もなさそうに笑っていますが、その万華鏡のような目の焦点はぴたりと僕に合って、いつかのように嬲られているのが分かりました。そのいちいち試されるような屈辱は、不快ではないのです。息があがるような興奮で息苦しくなったその時、不意に悟浄の肩越しに小さな腕がにゅっと伸びてきて悟浄の首を掴みました。小人です。背中をよじ登って肩までやってきたそれは、悟浄に腕を巻き付けてぴったり張り付き、僕に短い指を突きつけました。
「残念だね。体だったら悟浄のお気に入りになれたのに」
浅草は祭が命のようなところで、下手をすると1日でいくつも御輿が出るほどです。悟浄は僕を、その祭りに呼びました。小屋の連中も当然祭り見物を楽しみたく思うのですが、そのまま一斉に町に繰り出したりすると大騒ぎになるので「普通」の人たちがカモフラージュのために混じって引率するのが常なのです。贔屓のお客やスポンサー、驚いたことにはひとりひとりに熱烈なファンがついていて、どこに行っても世話役には困らないのだそうですが、僕は大喜びで志願しました。ただ気味悪かっただけの不具者たちに、何か、一個体として完成された不思議な魅力を感じ始めたからでもあり、至って懐っこく僕に接してくれたからでもあります。でも一番の理由は、やはり悟浄でした。僕が悟浄を「鮮やかだ」と思ったのは何もその色彩のせいだけではなかったのです。彼の目はいつも好奇心に満ちあふれ、油をひいたように潤んでキラキラしていました。昔人に聞いたことがあります。人間というものは好物のことや思い人のことを考えていると目が潤んで眼差しが溶けると。悟浄は、常にそういう目をしていました。
「あいつらは芸術だ。自分の体を誇りに思ってる。五体満足な連中より余程自分の体を大事にしてる。プライド高ぇからな、目ぇ逸らすな。見たいならそう言え。喜ぶ」
少々ニコチン中毒気味の悟浄は人混みの中では煙草を吸えないものだから、引率をお客に任せてさっさと境内に避難してしまいました。僕もそれにくっついてきたのですが、唯一の不満は悟浄に使い魔のように張り付いた小人です。彼のおかげで悟浄とふたりきりになれた試しがないのです。しかし今日は大人しく悟浄のコートの中に潜ってじっとしている様子なので、僕はそれを見ないようにして悟浄の甘ったるい声を聞いていました。
悟浄を虜にしているのは不具者たちに違いなく、その悪趣味で俗物といえる嗜好を恥とも何とも思っていないようなので、僕は道徳や礼儀や常識や美や、今まで信じていたものの正体が丸ごとすっかり分からなくなっていました。もう随分、僕はいろんなことが分からなくなっていました。
「奇形が好きなんだよ悟浄は。愛してるんだ。そうだよな悟浄」
悟浄は突然金属音でまくし立てた小人の頭を服の上からコツンと小突きました。
「愛してるよ」
うっとりとしたその物言いは、僕の心臓を鷲掴みました。
「見ろよ毎晩の盛況を。金にあかせてこいつらを売ってくれって連中もヒキをきらない。この商売は無くならないし、こいつらもいなくはならない。人の世が終わるまで」
日が暮れた境内の石段の上は、見晴らしがよい割に下から見上げる者はなかなかおらず、僕らは犇めく「普通」の人達に見留められることはありませんでした。遠くから聞こえる祭囃子に、自分の心臓の音がかぶりました。
「おまえのことも、ちょっと気になった」
「…僕ですか?」
「どうして義眼をはめない?」
僕は言葉につまり、無意識に眼帯の上から昔目があったところを押さえました。
「よく見りゃ偽物だってことは分かるだろうが、義眼ならそこまで人目をひくこたねえな。眼帯は目立つよなあ。誰でもまず眼帯を見る。普通何か欠点があれば人はそこを目立たないように隠すもんだけどな。何で黒い着物ばっか着てる?眼帯に映えるからか?おまえはわざと義眼を入れねえで、眼帯の下のものについて人に想像させる。想像させて、うっかり想像したことを恥じる善人を嬲って楽しんでる。思わず目を逸らす奴らを嗤って遊んでる。茶色の肉だの黒い血だの白い骨だの這い回った血管だの破れて引きつった皮膚だのそういうものを、おまえは嫌だなんて全然思ってねえんだ。好きなんだそれが。本当は見せたいし見られたい。気持ちよかったろ。内臓まで覗かれたみてぇで最高だったろ。最初会った時もよ、あそこで眼帯外したらどんなに気持ちいいか想像しただろ。興奮したろ。みんながおまえを見るよ。その綺麗な顔に開いた穴の中をよ。たまんねえよなぁおい、見てた連中全員の夢におまえが出てきたかもしんねえな。今おまえのこと考えてるおまえの知らない奴がいただろうな。おまえは加虐趣味で被虐趣味で露出狂の変態だ。実に興味深い」
「でもこいつは見せ物にはならないよ悟浄」
「そう、見せ物にはならないな。…うるせえよおまえはいちいち。妬いてんのか?」
殺したい。
僕はどうやら口に出したようでした。
小人は自分に向けられた言葉だと誤解したのか、びくりと体を震わせて顔の大きさに釣り合わない大きな目を僕に向けましたが、悟浄はそれはそれは美しい髪を夕日で更に赤くして、何も聞こえなかったように頬杖をついていました。
悟浄が愛するのは生まれつき奇妙な肢体を授かった者だけです。彼は日頃から執拗にそれを繰り返していましたから。
僕が自ら体を引き千切りかねないのを牽制しておいて側において玩具にした。「とれよ」気まぐれのように命じては必ず自分の手で眼帯を解かせ、公衆の面前で何度もそこを指で犯した。悟浄に愛されるならどんな体に生まれてもよかった。五体満足というだけで、僕はこの醜い小人すら好きなように撫で回す悟浄の体に触れることもできない。あの暖かく美しく完璧な帝国に入ることが許されない。
「悟浄、こいつはおかしいよ。殺したいだってさ。人間の思うことじゃないよ。異常だよ。気持ち悪い」
「そうだな。八戒は芸術じゃない」
悟浄はいつもの、半分溶けて流れたような目で僕を見ました。
「ただの化け物だ」
僕は突然、石段の下に帝国の住人が勢揃いしてこちらを見上げているのに気がつきました。
異形を見る目で。
fin
…踊る一寸法師か?