子供の時にはついている猫ミミが
セックスをしてオトナになったら落ちるという
[LOVELESS]の設定をいただいています。


「応募資格…四大卒…新卒可…35歳まで………猫耳不可」
 八戒は新聞をぐしゃっと握りつぶした。
「どう思います三蔵。差別ですよね、差別」
 三蔵はほとんど泣きそうな八戒に投げつけられた新聞を丁重に伸ばし、眼鏡をかけ直した。
「…ふーん…」
「ふーんじゃないですふーんじゃ。そりゃ若者の性についての悩み相談室職員とかがミミついてたらまずいかもしれませんけど僕がなりたいのは教師です教師。しかも中学や高校じゃないんですよ、小・学・校!小学校の教師が猫耳で何が悪いんです、それとも22で童貞って変ですか、変態なんですか、人として何か欠陥があるんですか、ねえ!」
 生まれついての僧侶である三蔵はこういうことにはとんと疎かったが、確かに小学校の教師にミミがついてたからといって不都合があるとは思われない。僧侶の場合はミミが落ちれば破門だが。
「…まあ、この学校の方針なんだろ。人生経験重視ってことじゃねえの」
「そんな殺生な」
 八戒の黒いミミがしょんぼり垂れた。昔から聖職につくことを夢見ていた八戒をよく知っているので、流石に哀れだ。
「学校はここだけじゃねえし募集も今回限りじゃねえだろ。ミミが落ちてから受け直せよ」
「いつになるか分からないじゃないですか…」
 ミミが落ちるのは愛あるセックスを経験した「オトナ」の証拠。寝れば落ちるというものでもない。
「今すぐ落としたいのか?」
「…できれば…でもできない…」
 呟き始めてしまった。
「俺に悟浄って知り合いがいるんだが」
 八戒は涙目で顔を上げた。
「そいつに頼めばミミ落としてくれる。ほぼ確実って評判だ。一刻も早くオトナになりたいガキどもの駆け込み寺になってる。紹介するか?気はすすまんが」
 八戒としては勿論、ナチュラルに理想の女性と出会いナチュラルにコトに及びたいところだったが、初夜への夢と聖職への夢を比べると、いや比べる間ももどかしく後者が大事だ。
「…でも、向こうにも好みというか、基準があるんですよね…」
「さあ。ああ、面食いだ」
「じゃあ大丈夫ですね!紹介してください!」
 しょげてるのかなんなのかはっきりしてくれ。
「問題は」
「…問題があるなら先言ってくださいよ」
「悟浄は男だ」



 夜の酒場にミミ付きが入ると目立ってしょうがないのだが、そこでないと悟浄とやらには会えないらしい。
 八戒は夕方の商店街で、この期に及んで葛藤していた。
 確実にミミを落とすというからどんな絶世の美女かと思いきや、男。男だ?何が確実だ。どうせ男に慣れない女子中高生を口八丁手八丁でさばいていい気になってるだけじゃないのか。三蔵の知り合いというから人柄はさほど心配していないが、男のミミを落とした経験があるのかどうかは分からない。
 …どうせいつかは落とすミミだ。
 意を決して酒場の戸を押すと、一斉に視線が飛んできた。
「ミミついてるよあいつ」
「かっわいい〜」
「ひとり?一緒に呑も〜」
 八戒はひとつ深呼吸してカウンターに回った。
「念のため年聞いていいかな?」
「22です。水割り」
「ああ、気悪くしないでね。お兄さん若く見えるから」
 きっちり視線がミミだ。珍しいか。だろうな酒場じゃ。
「悟浄って人、来てますか」
「悟浄?毎日いるよ。奥の部屋で賭博…ああ、奥は常連ばっかだから入らないほうがいいよ、危ない。呼ぼうか?知り合い?」
 妙ににこにこ愛想がいいのがまたむかつく。危ないって何だ子供じゃあるまいし。
 奥へ行きますという前にマスターはさっさと内線をかけてしまった。
「悟浄?ちょっと出てきて、お客さんが来てる。ミ…緑の目したきれーなお兄さん」
 ミ?
 八戒の無言の怒りを速やかに察知したマスターがサービスしてくれたミックスナッツを口に放り込みながら立て続けにおかわりしていたら、酔うどころかだんだん気が萎えてきた。帰ろうかな。真剣に落ち込んできた。
「おっすお待たせ」
 背中をポンと叩かれてのろのろ顔を上げると、眺めてるだけで目が悪くなりそうな真っ赤な髪の男がいた。八戒は目を見開いて、ついでに口を開けた。
「三蔵の知り合いって聞いたけど?名前なんだっけ?」
「何で貴方にミミが付いてるんです!!」
 店中の客が一斉にこちらを見た。マスターが小さく噴きだした。悟浄は呆気にとられて八戒を眺めていたが、ようやく少し微笑った。笑うと確かにちょっといい男かもしれないいやいや待てそれどころじゃない。
「かっこいい?」
「か…かっこ…かっこいいっていうか……どうでしょう…」
 何でミミ落としの名人にミミがある。まさかあれ以外のものを使って毎回あれしてて自分はあれとか。
「それは俺が女ったらしの遊び人だからです」
「は?」
「人に惚れない奴のミミは一生落ちねえよ」
 そりゃそうだろうが、そんな人間いるのか。
「で?何の用?」
「…ええと」
 ミミを落として欲しいんですけどと言いかけて眩暈がした。店中に注目されてるここで「僕とセックスして欲しいんですけど」って言うのか?
 悟浄はいきなり八戒の腕を掴んで立ち上がった。
「マスター、こいつの俺につけといて」
「おい賭場は!」
「気がのらね。今日はやめ」
 騒ぐマスターを尻目に、悟浄はさっさと店の外に八戒を引きずり出した。
「いいんですか?」
「何が?夜の散歩好きなの。付き合って」
 うわ。うわー。さり気なく奢ってくれて、初対面の自分のために今日の稼ぎをふいにして、この時間に店に入りにくい自分のミミ事情を察してくれて、おまけに手、手を、なんで手をつなぐ。
「この手は何…」
「あ、ごめん。嫌い?」
 笑顔。…うわ。なんか。なんだか。もう。
「あったかくなったよな〜随分」
「はははいそうですね、今年は例年より桜が遅く」
「坊主元気だった?俺嫌われててさあ、会うたび撃たれんの」
 こっちが話し出すまで待ってる。…優しい。やばい、酔いが回ってきた。
 結局街の真ん中の噴水に腰を下ろしたところで、八戒は意を決して切り出した。
「貴方ならミミを落としてくれるって聞いて」
 悟浄はこっちに差し出していた烏龍茶の缶を空中で止めた。
「え?」
 え?え?って?まさかガセか?
「あの、そう三蔵に聞いて。お願いできないかと思ったんですけど嫌なら」
「嫌じゃねーけど」
 悟浄はしばしそのまま考え込み、急に思い出したように缶を八戒に手渡した。
「男としたことねーんだよな」
「…そうですよね」
 馬鹿なこと言った。分かり切ってるじゃないか。男なんか嫌に決まって
「…だから嫌じゃないんだって」
 エスパーか。
「俺も百発百中って訳じゃなくて、十人にひとりぐらいは体の相性悪いとか、俺みたいにそういう感情が希薄な奴とかいて、ミミが落ちない事もあるの。女ならまだいいよ、どうせいつか誰かとやるんだしよ。でも、もしおまえが俺とやってみて落ちなかったらどうすんの。ミミ落としたい事情があんだろうけど、もしやったのに落ちなかったらどうすんの?男が好きな訳じゃねえんだろ?ぶっちゃけ男にほられ損になったら傷つくぜ。ココが」
 悟浄は掌で八戒の左胸をとんと押した。
「大事にしろよ。こんなことに男も女もねえよ」
 八戒が返事をしないので、悟浄は八戒の手から缶を抜いてプルトップを引き上げ、また戻した。
「飲め」
「…はい」
 熱い烏龍茶が流れ込んで胃の中がじんわり温まる。酔いが収まったかわりに違うものが噴き上げて、急に泣きそうになった。この人とやったら絶対落ちる。
 絶対に落ちる。



「…ああ、そっか。うん。頼むな。…しっかしあれは詐欺だぜ。…ああ分かってるけど」
 悟浄の通話が終わるのを、八戒は少し離れた場所でそわそわ待っていた。自分と会っている相手が、顔の見えない誰かと話しているという場面は、相手が自分とどういう関係であろうと結構切ない。
 ミミが落ちなくてもいい。後悔しない。
 悟浄はミミ付きとはいえ場数を踏んだオトナだから変に構えなくてもいい。堂々とリードしてもらえばいいんだから気が楽だ。八戒はさっきまで握られていた手を広げてみて、悟浄が携帯をポケットに突っこみながら戻ってきたので慌ててその手を後ろに回した。八戒の顔を見た途端、悟浄は聞きもしないのにぽんと言った。
「三蔵」
「…あ、そうですか」
 今の誰ですかって顔でもしただろうか。みっともない。
「教師になりたいって?頭いいんだなーあんた。俺だったら死んでもやだけど。そもそもなれないけど。ホテル?」
「は?」
「どこでやる?ほんとは如何にもな場所じゃなくてあんたの部屋とか、そっちがリラックスできる場所の方がいいと思うんだけど、どうする?ここでしたいってとこある?」
 悟浄は最初からずっと同じ顔で同じ口調だ。
 覚悟して来たはずなのに突然生々しい話に突入して血が昇った。あちこちに。
 ホテル。ホテルってこの街に一軒しかないラブホテル?まさかと思うが金曜の夜だ。待合室で知り合いに会っちゃったりしたら、いくらなんでも恥ずかしい。耳を男に落としてもらうだなんて。かといって自分の部屋は。えーと、掃除してきたっけ。してきたはず。洗濯物は畳…んである。昨日シーツも干した。でも昨日カレー煮込んでまだ部屋にカレーの匂いが。
「細けぇこと気にすんな」
「そ…そうですね。そうですよね。いいですよ僕の部屋で。緊張すると駄目なんですよね」
「そうそう」
 悟浄が手を差し出した。
「今のうち慣れとこ」
 自分から、悟浄の手を握った。会って1時間も経ってないのにこれから寝る相手。
 八戒の部屋は住宅地のアパートの二階で、この時間はもう辺りに人気もないので、手を繋いだままゆっくり道を辿った。
「壁薄いとかは?」
「そうでもないです。隣は仕事が深夜で帰りも遅いし」
「風呂ある?」
「ない家ないですよ今時」
 話す間にも「慣れ」ておくために、悟浄の指が何度も離れては角度を変えて絡みついてきて、最初はいちいち飛び上がっていた八戒も次第にそれが楽しくなってきた。そうか、こうやって徐々に接触に慣れさせていくのか。さすが。彼女ができたら、こうしよう。
「キスもする?」
「え!?」
「慣れないと」
「そ、そうですね。しましょう」
 まだ外だというのに指に唇が触れた。
「……っ」
 柔らかくて痺れる。触れた箇所に血がどっと集まった。続いて頬と額に。
「…うわっちょ…ちょっと待って、心の準備が!」
「あーもー頼むから緊張すんな、俺も男初めてでうっかり緊張してんだから!」
 八戒が瞬きすると、悟浄は一瞬口を噤んで「なんてな」と何だか分からない事を呟いた。
 そうだった。悟浄もそういう意味では初めてだった。それでもこっちを不安にさせないよう気遣ってくれてるのが、もう、愛しい。愛撫とはよく言ったもんだ。あの触り方。指先を一本一本、細胞のひとつひとつを本当に愛おしそうに弄ってくれるあの触り方。まるで本気みたいだ。愛されてるみたいだ。今にも落ちそうだ。本気にしちゃ馬鹿をみるが本気にしないとミミが落ちない。
「…悟浄、詐欺ってなんですか」
「ん?」
「さっき三蔵に電話で言ったでしょう。あれ詐欺だって」
 悟浄はちょっと黙った。
「秘密」
 玄関の戸が閉まった途端、唇にキスがきた。柔らかい。溶けそう。目を開けていたらそれこそ緊張で息が止まりそうで、必死で目を瞑った。髪が耳を嬲ってきてくすぐったい。時間にしたら一分かそこら、悟浄がさっき指でやったのと同じように、キスというよりは唇で唇を撫でるように何度も離しては啄んでくれたにもかかわらず、八戒は1時間ジョギングでもしていたような息苦しさで、危うく酸欠で倒れかけた。
 こんな有様でほんとに今晩最後までできるのか。自分はまだ男だから初夜がどうしたとかいう思い入れは格別ないが、自分より若い女の子だったら初対面の男を前にもっと緊張するだろう。そう言うと悟浄は頷いた。テレビをつけてお茶飲んで喋って何度も名前を呼び合って何度もキスして、それでも実際に突入するまでまる一晩かかることもあるそうだ。八戒はなるほどとテレビをつけてコーヒーを入れた。
「緊張すると、ほんとに全然入んないから。何度もやり直すとますます怯えちゃうし。でも初めてでもすぐ濡れて無茶苦茶感度いい子もいんだよ、ひとりでやりこんでる子とか。そういうのは楽」
「誰がそうだとか、見た目で分かるもんですか?」
「分かったら凄ぇよ。あ、でも意外と地味な子が地味に励んでたりする」
 いつか自分も女性をリードせねばならない時がくるはずだし来ないと困るので、八戒はしばらく自分の立場も忘れて熱心に聞いた。人のミミを落とす。相手にその瞬間だけは恋させる。八戒には相当な重労働に思えた。
「貴方は疲れ損って気がしますけど、何でこんなことしてんですか?」
「それも秘密」
 悟浄はあっさり流すとテレビを消した。どかんと静寂が降ってきた。
「貴方ってのこれから禁止。悟浄って百回呼べ」
「なんで」
「初恋の相手って誰だった?小学校の時隣の席にいた子じゃなかった?親近感が湧くと愛しくなるもんだろ?百回呼んだら、やろ」

 自分でカウントダウンさせるなんて初心者にはちょっと酷かないかと思い実際にそう言ったが、呼んでるうちに口に馴染んできた。
「…悟浄」
 ごじょう。普通の恋人同士は名前を百回呼ぶのにどれくらいの時間をかけるんだろう。
「何回目でしたっけ。起きてます?」
「……はちじゅうななかい、め」
 ベッドの上に座って壁に凭れた八戒の膝にごろんと寝っ転がった悟浄は、八戒の腹に頬を押しつけて半分うとうとしかかっている、ように見える。もう何年もそうしてたみたいに。会ってまだ数時間なのに全部知ってるような気がする。体温も呼吸も声も重さも気持ちいい。
「悟浄。触ってみていいですか」
「んーいいよ」
 自然に髪に触れたくなって、触れて、撫でた。髪と同じ色の綺麗な色の耳がぴくんと動く。
 男の生理は分かってる。悟浄がさっきみたいな裏話をしてくれたのは男同士だからだ。男の性欲と愛情は関係ない。計算尽くなのは分かっている。好きなふりぐらいいくらでもできる。
「悟浄、悟浄、悟浄、悟浄、悟浄」
「何でいきなりスパート」
「したくなりました」
 悟浄は瞼を擦って、目を開けた。
「そう?」
「まんまと」
「…どれ。あ、ほんとだ」
 八戒は、そっと自分の耳に触れてみた。しょげると垂れるし怒るとピンと立つ素直で厄介なミミ。
 オトナになったらミミが落ちるのは、自分の言葉と体できちんと感情を伝えることができる印だそうだ。
 できるだろうか。

 明日の朝、急に?



 起きたら悟浄がいなかった。
 起きたらいない…というのは男としてどうなんだろう、か。確か「寝る時は好きな男といたいが寝てしまったら後は邪魔なだけだから、起きる前にこっそり帰って欲しい」と言ってた女がいた。これはこれで男前な行為なんだろうか。にしても書き置きぐらい残してくれればいいのに。朝ご飯ぐらい食べてけばいいのに。
 …御礼も言ってない。
 そこでようやく八戒は本当の意味で目を覚まし、ひとりで叫んで飛び起きた。手で確かめるのは怖ろしく、洗面所へ飛んでいって鏡を見た。
 ミミがない姿も見慣れていないせいで驚いたが、体のどこにも何の跡もないことにも驚いた。体中吸い付かれたと思ったが、痣もない。部屋にも、悟浄のいた形跡はなかった。コーヒーカップは綺麗に洗われて棚に戻っていたし、シャワーを使った跡も匂いもない。そういえば酒場で会った時には煙草をふかしていた悟浄が、店を出てからは一本も吸わなかった。
 そうか、それが悟浄の流儀か。
 八戒はずるずる洗面所の床に座り込んだ。床の大理石(似非)模様を眺めていたら、悲しくもないのに視界が揺れた。忘れろと。
「…痛いな」
 鈍痛。それだけ。
 悟浄はずっと八戒の顔を見てた。動くたびに必ず八戒のどんな些細な反応でも気がついて、いいようにいいようにしてくれた。好きでもない癖に。何で昨日は平然と今まで抱いた女の話なんか聞けたんだろう。同じように口説いて抱いた何十人だかと同じかと思うと悔しくて胸が焼ける。
 いや同じじゃない。同じはずはない。特別だ。男同士なんだから。友達にだってなれる。
 会いたい。
 八戒は当社比3割り増しの速度で身支度を整え家を飛び出した。
 途端大家のおばさんに捕まった。
「…あら、八戒さん。ミミ」
「あ」
「あらあらあらまあ、おめでとう!落ちたのねぇ、ミミ」
「はあ。あの、おかげさまで」
「あらあらそう〜へぇ〜まあまあ男前があがったわねえ〜ミミも可愛かったけどねえ〜そお〜」
 ちょっと待て、もしかして知り合いにあうたびこれをやられるのか?ミミはミミでコンプレックスだったがこれもかなり恥ずかしい。しかしそうも言っていられないので風が直に髪を舞い上げる感触にむずむずしながら街に出て、そこまで来てやっと悟浄と会う手段がないことに気が付いた。酒場が開く時間じゃない。
 八戒は勢いをそのままにターンして斜陽殿に赴いた。朝のお務めを終えてデスクワークに専念していた三蔵は、顔をあげて固まった。
「…ミミがないと背が低く見えるな」
「悟浄の携帯教えてください」
「知らん」
 嘘つけ。
「昨日かかってきたでしょ携帯から。教えてください」
「人の携帯番号無断で教えると軽犯罪になるぞ」
「じゃあ自宅」
 三蔵は突然呑みかけていた湯呑みをドンと机に置いた。
「悟浄のテクは絶品だったろ」
 八戒のぶんの茶を運んできた小坊主が、ぎょっとして三蔵を見た。
「自宅なんぞ誰も知るか、教えたが最後勘違いした女どもが団体で押し掛けてくる。酒場に行っても無駄だぞ、悟浄にミミ落とされた連中はマスターが食い止めて会わせねぇ。会いたきゃ女作って出直せ」
 自分ではどういう顔をしていたのか分からないが、何秒後かに口を開いた三蔵の声音は幾分和らいでいた。
「あれはあいつの仕事だ。分かってたろ」
「…仕事?」
「金払ってねえのか?」
 金をとってるのか。なら合点がいく。でなけりゃあんな面倒でわりに合わない事、誰が。
「…要求されませんでした」
「へぇ。おかしいな」
 三蔵はうっかり素直に感想を述べてしまった。もしまだ八戒にミミがあったら、もの凄い勢いで今のひと言に食いついた八戒に気付いただろう。
 おかしいな。
 確かにおかしい。自分だけ仕事じゃなかったのか。自分だけ。
 期待するな。期待するな。頭の中でちゃんと声がする。なのに止まらない。携帯なら切られれば終わりだ。どうせ番号何度も替えて逃げている。自分のようなしつこい女が何人もいただろう。同じセリフを何人もの女が吐いただろう。どうせ突き放されるなら、悟浄の口から聞きたい。このままじゃ収まらない。
「詐欺ってなんですか」
「は?」
「昨日電話で悟浄が言ってたでしょう。あれは詐欺だって」
「知るか。おまえが好みだったんだろ」
 数秒後、二度目の失言に気づいて逃亡しかけた三蔵は出入り口を八戒に塞がれた。
「悟浄の自宅を教えてくれるまで出しません!」
「おまえはもっと冷静で、頭できちんと割り切れる奴だと思ったから紹介したんだ!」
「会いたいだけです。会うだけ!」
 三蔵は長い間黙っていた。八戒も。ふと三蔵は顔をあげた。
「そういや採用試験はいつだ」
 八戒はぼんやり返した。
「…何のです?」


 ああ、こうなるのか人は。

 三蔵が自分のことを普段はもっと冷静だと言ったが、冷静は冷静だ。自分が如何にみじめな真似をしているかはきちんと分かるし、これが恋というやつで、誰もが経験する風邪だということも知識としては知っている。自分だけの特別な現象じゃない。誰もが経験して、経験したにもかかわらず何度も抱える痛みだ。今の苦しさは、何をどう考えても片思いであるという状況にではなく自己嫌悪だ。分かってるのに自分を巧く宥められない自分への自己嫌悪。
 半日ねばって住所を聞き出した。もう三蔵から悟浄に連絡がはいってる。逃げるかもしれないし、今後の面倒を回避するために真正面から叩きのめしてくれるかもしれない。
 …面倒くさいな。
 八戒は深々と溜息をついた。
 何のためにミミがあるんだろう。落ちる前より確実に自分は馬鹿になってしまった。セックスなんか知ったところで、愛されていなかったらなんにもならない。悟浄にされたことを他の誰かになんかしたくない。

 悟浄は家にいた。その証拠に堂々と灯りがついていた。
 数秒迷って戸を叩くと、無視すればいいものを、悟浄は律儀に中から返事した。
「帰れ」
 別人のような声音だったが、ちゃんと悟浄だ。優しいから、声を荒げないから好きになったんじゃなかった。八戒は額を戸に押しつけてから返事した。
「嫌です」
「けーさつ呼ぶぞ」
 どんな、誰とでの議論でも必ず相手をうち負かす自信があったのに、今は悟浄を口説き落とす手だてが思いつかない。他の女が誰も言わなかったことを言わないと、きっと会えない。
「…悟浄」
「気安く呼ぶな」
「昨日、僕から料金取らなかったでしょう。払います。いくらです」
 不意をついたらしい。悟浄は数秒あけてから「いらねえ」と言った。動揺した。
「仕事なんでしょう。15,6の子供からでも巻き上げといて僕から取らないなんておかしいじゃないですか。それとも仕事じゃなかっ」
 言い終わる前に中からドカンと戸を蹴られ、八戒は思わず一歩下がった。
「…そうやっててめえだけが特別だと思いこむお目出度いところがガキだっつんだ。三蔵への義理立てと女とやるよか要領悪かっただろーから俺の研修費ってことでチャラだ。分かったら帰れ。二度とくんな」
「筋が通ってないですよ貴方。僕が来るの分かってて何で家で大人しく待ってんです。諦めて欲しいなら余計、きちんと料金取ればいいでしょう。払わせてくれたら大人しく帰ります。いくらです。5?10?もっと?」
「しつけぇ帰れ!」
「金払わせろって言ってるだけでしょうが!」
「無職のガキに払える額じゃねえ!」
「ばっ……」
 馬鹿にするな。八戒は思いっきり扉を蹴り返した。
「曲がりなりにも成人男子に向かってその言い草はなんです!たかだかホスト一匹買い上げる金ぐらいありますよ、開けろってんです客ですよ僕は!」
 言い終わる前に轟音をたてて戸が開いた。
「じゃあ一生ぶん払いやがれ馬鹿野郎!」

悟浄のミミがなかった。





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