赤堤の歴史

原始 
縄文時代の土器が新井遺跡(現・赤堤1丁目)で発見されています。
 
古代  
大化改新(645)以降、天皇を中心とした中央集権国家の確立が目指されます。
都を整備し、地方では国、郡、郷の行政制度をしき国府、郡衙の役所を置き、朝廷
は国司という官吏を各地へ派遣して国を治めさせます。ここ武蔵国は、21の郡を
有する大国でありました。 国府は現在の府中市に置かれ、その北方に国分寺が建
立されました。 赤堤は、武蔵国荏原郡覚志郷(かかしごう)の地域であったと思
われます。
 
中世 
初期は、桓武平氏・秩父流の江戸重長に始まる江戸氏一族の領地でありました。そ
の次男、江戸武重は木田見郷(現・喜多見)を本拠としこの地域を領土としていま
した。
 
   
鎌倉幕府開設とともに、吉良氏が鎌倉府に入り、14世紀後半、吉良治家が世田谷
郷に領地を与えられ吉良家代々の領地となります。
 
   
末期は、小田原北条氏の勢力が伸びてくるため小田原と北条氏治下の各支城を結ぶ
道路が整備されてきます。
 
   
天正18年(1590)豊臣秀吉の侵攻により小田原北条氏、世田谷吉良氏、名族
江戸氏はともに滅亡しました。このとき「武蔵国荏原郡せたかいの郷十二ヶ村」あ
ると書物に記されています。
 
近世 
天正18年徳川家康の関東入国に伴い世田谷城の取り潰しと吉良氏家臣団が解体さ
れました。
 
   
天正19年、文禄3年(1594)の両度、徳川氏の代官による検知の実施により
世田谷郷は、幕府領と若干の旗本領・寺社領に編成細分されます。同時に北条・吉
良両氏の遺臣たちの大半は、土着帰農して村役人に転化、村落の開発にあたるたる
ことになりました。
江戸初期の世田谷郷の村は、赤堤村を含め33ヶ村あります。
(近くに上北沢村、八幡山村、経堂在家村、世田谷村、代田村など)
 

寛永10年(1623)近江彦根藩主、井伊直孝が関東で5万石を加増され荏原郡、
多摩郡の15ヶ村2300石を与えられ井伊氏世田谷領が成立します。この15ヶ
村の中に赤堤村は、幕府領のため含まれていません。
 
   
慶安四年(1651)井伊氏領に4ヶ村を加え20ヶ村になります。この20ヶ村
の中にも赤堤村は、幕府領のため含まれていません。
 
   
幕府は田畑の開発を積極的に行い、万治元年、赤堤村と関係の深い北沢用水が整備
され、新田畑が増加、寛文〜延宝年間(1661〜81)には近世村落が確立され
ます。このとき赤堤村より分立開村した村に松原村があり、幕府領に編入されます。
 

甲州街道に高井戸宿ができると、赤堤村や近隣の村は助郷をつとめました。
 
近代 
明治元年(慶応4年)5月

江戸府知事が置かれます。武蔵近郊は、旧代官3人がそのまま知県事となります。
赤堤村は旧幕時代同様、松村知県事の管轄下でありました。
 
明治元年(慶応4年)7月
江戸は、東京と改名され近代国家へと急激に変わって行きます。
 
明治2年
旧幕府領の赤堤村は、版籍奉還により武蔵知県事の村になり品川県に編入します。
 
明治4年
廃藩置県令により品川県が廃止され東京府荏原郡大字赤堤村になります。
 
明治12年3月14日
荏原郡下の27ヶ村は、東京府数町村連合会規則により9連合村を設置。
6月、赤堤村、上北沢村、松原村と3ヶ村連合となります。
東京府荏原郡大字赤堤村
 
明治15年
松原村、赤堤村が連合して「松堤小学校」が創立されました。
 
明治20年
松堤小学校は、上北沢小学校と合併して「松沢小学校」となります。
 
明治22年4月1日
市町村制実施により東京都東京市ができます。東京市は15区になります。
赤堤村は荏原郡で東京市には入っていません。
荏原郡下に4ヶ村(世田谷村、松沢村、駒沢村、玉川村)が成立します。
 
明治22年5月
松原村、赤堤村、上北沢村の3村が合併して新しく松沢村が発足します。
松沢村の名の由来は、松原村の松、上北沢村の沢を付け、村役場を真ん中の赤堤
村に設置しました。
東京府荏原郡松沢村大字赤堤村
松沢村が発足してから、明治末期までの20年余も、静かな農村でありました。
 
大正4年5月
京王電気軌道の新宿〜調布間が開通し「下高井戸駅」ができます。
この鉄道より電線を引き民家に電灯がだんだんと普及していきました。
 
大正12年9月1日
関東大震災発生するが、赤堤村は農村なので大きな被害はあまりありませんでした。
 
大正14年2月 
玉川電気鉄道の支線 三軒茶屋〜下高井戸間が開通します。
 
現代 
昭和7年10月1日

東京市域拡張により世田谷町、駒沢町、松沢村、玉川村を併せて世田谷区が成立
します。松沢村は解体し、松原町1〜4丁目、赤堤町1〜2丁目、上北沢町1〜3
丁目と名称を変えます。このとき松原地区の山下は、赤堤町1丁目に編入されまし
た。 東京市は、35区となります。
東京府東京市世田谷区赤堤町1〜2丁目
 
昭和7年、13年
赤堤の土地区画整理事業が行われます。第1回目は現在の赤堤2丁目地域。
第2回目は現在の赤堤1・3丁目地域で人力による難工事のため昭和36年にようや
く完成しました。
 
昭和11年10月1日
北多摩郡下の千歳村、砧村を世田谷区に編入し現在の世田谷区域になります。
 
昭和16年12月8日
太平洋戦争に突入。
 
昭和18年7月1日
都制施行により東京府と東京市を解消して東京都が成立します。このときも東京都
は35区あります。
東京都世田谷区赤堤町1〜2丁目
 
昭和19年6月以降
戦争が危険のため学童疎開をしました。
 
昭和20年5月24日未明
赤堤もB29爆撃機により空襲を受け、焼失した家屋もあちこちに見られました。
船橋の高射砲陣地の弾によって、B29の胴体が西福寺の南隣りの畑に墜落しまし
た。
 
昭和20年8月15日
終戦になりましたが、すべての物資が不足しています。
 
昭和22年5月3日
日本国憲法と共に地方自治法が施行されます。東京都は35区を22区に統合し、
のち23区になりました。 東京都世田谷区赤堤町1〜2丁目
 
昭和28年
赤堤地域の北沢川の改修工事も完成し、区画整理の進行と共に、赤堤通りが生ま
れます。この頃から住宅の新築が見られ始めてきます。
 
昭和28年3月2日
松沢小学校より分離し「赤堤小学校」を設置、開校します。
 
昭和40年4月1日
住居表示の実施に伴う町区域の変更により東京都世田谷区赤堤1〜5丁目となり現
在へと至ります。
 
平成4年12月5日
赤堤小学校創立40周年記念式典・祝賀会を挙行します。
 
平成4年12月13日
赤堤小学校40周年記念事業の一つとして「赤堤生涯学習センター」を設置し、文
化や地域との生き生きとしたふれあいの活動を行っています。