日記
最初のページへ
以前の日記へ
日記
8/30
今日はさわやか。ワークのあと、いろいろ出てくる。
道路わきの植え込みです。
8/29
イチョウ並木の中でLED街灯のそばのイチョウだけ黄色くなっていました。
道路に面していて、一番ヘッドライトの影響を受けやすい角にあること、近隣の住宅の窓からの照明も影響していると思います。
駐車場近くの植え込み1です。
駐輪場の植え込みです。
8/25
ある音楽ホールでは、4、5年前にLEDにしようということで、客席と、ステージとスポットライトなども全部、2つのメーカーのLEDをいれて実験したそうです。 そのホールの内壁は木でおおわれています。実験ではその木の色がLEDにすると黄色くなって本来の色が出ないということで、LEDにするのはやめたそうです。スポットも従来のハロゲンだそうです。安心していけるホールがあってよかったです。木が守ってくれたような気がします。
人の本来の感覚を大事にした、心ある対応ができるのも、そのホールが営利目的の主催事業をやらず、赤字ギリギリで質を保つというようなことをされているということからでしょうか。そういうことで、何を大事にしているか、が出てくるのだろうと思います。いろんな面で余裕があるからできる対応なのでしょう。
金融機関からの経済的補填があるからできるらしいのですが、お金も、余裕のある存在がそういう方向で使ってくれるいといいのになあと思います。
8/23
たくさん頭をつかった若い人には若さがないなあと感じたことがあって、脳を使いすぎると早くふけるんじゃないかなと感じた。それはLED照明によって頭を忙しくさせられ、細胞を劣化させられるとどうなるか見せられたように感じてしまった。
熊本の山鹿市の山鹿灯篭祭りのニュースで青い光が映ったから問い合わせてみたら、普通のライトにブルーフィルムを貼って使っているということで安心したけれど、盆踊りの踊り手が頭にのせる灯篭は徐々にLEDに変えていっているということだったので、MEリンクや玉三郎さんのページや日本照明工業会の文書や、アメリカ医師会のニュースなどを添付して送ってみた。
玉三郎さんは山鹿市にある八千代座という古い劇場に修復後のこけら落としで出演されるなど、よく出演される。なにか縁を感じる。
8/22
LEDの影響の写真を見ていたら、竹林までが黄色く変色したり、枯れたりしているのに驚きました。
実家は山の中の竹林が目の前の景色でした。たとえ他の木が夏枯れしても、竹林だけはいつも美しい緑のままでした。とても強い木なのです。そのようなところに住んでいるものにとって、竹が枯れ始めることはちょっとあるいみこわいことです。仲間が撮ってくれた写真のようなこういった変色は竹林が身近にある人にとって脅威で驚異です。竹の根っこによって、斜面が守られています。枯れても根っこが固く土をつかんでいますが、表面はよくても、中身がボロボロだった場合どうなるかです。台風で倒れた木の様子がこたえます。竹はすごい年月かけて生きて、最後に竹林は一斉に花を咲かせてから生命を終わるのです。そうでない終わり方?自然のサイクルは?
8/21
自分が歌いたい歌は特にはないみたい。そういう曲をもつことに意識がむかなかったのは、それをもつことで空間の流れを止めてしまいそうだったから。空間は切り取れないと感じるから。自分は管のようなものでそこを音が通っていけばいいとおもう。それで聴いてくれる人がよろこんでくれたら、それは理想ということらしい。そういうものなのかなあ。
趣味ということで聞きたい曲というのもなく、わざわざそれをCDプレーヤーとかでかけて流す、というのもほとんどしたことがなくて(エバさんとかガガさんとトニーさんのは聴きました)、それも空間に普通に流れる音を聞いていたくて、なにか曲をもってきたら、空間をとめてしまうという感じがするからだろうか。だからといって何も聞かなかったわけでなく、テレビをかけたら聞こえてくる歌とかは小さいころから聞いていつのまにか覚えたりした。何のことはない思いだけれど、音楽やっているのにこういうふうでいるんだなあ。 どんな自分が、なにを表現したくて、というのがあらわになってきている。 植物や地球が喜ぶ歌は、音楽を専門にやってきていない人ほど、歌えるんじゃないかな。どんな曲でもその人が歌ったらそうなってしまうんだろうな。
正直な感想をもらい、何を表現したくて今までやってきたかあらわになった。
8/19A
まだ8月なのに茶色が目立つ山。電車からみてたら、けっこうめだつのになあ。だれかおかしいと気がついてくれたらいいのになあ。山の中で普通の山を見て生活している人たちが見たら、異変に気がつくと思う。街の中ではそんなに山を見ることもないのかな。
8/19@
山はますます茶色の木が増えているように思いますが、なかなか遠くて写真にできません。そこで違う場所からとおもったら、一本の木に出会いました。
いつも行く和菓子屋さんは蛍光灯ということでほっとした。LEDのことを話して、みんなの写真を渡してみたら、ときどきLEDは安いからとセールスにくるんですよ、勉強させてもらいます。と、受け取ってくれた。
8/18
みんなの写真を見ていたら、長崎に住んでいたころ、山の中でどんな気持ちでいたか、思い出してきました。 登ったり、遊んだり、好きだった木をきられるのは、農地にするからといって、人間の勝手な思いで、木の命を奪っていいのか、と、大人の非情な身勝手さにいかりを感じたり子供心に悲しかった思いをしたことや、少しでも人間のために勝手に自然をこわそうという動きにはなんだか敏感だったなあ。 何にも言わない植物のかわりに、おこってあげていたのかな。子供は純粋だと思います。街に出て、たまに出会う植物がしんどそうだとこっちもしんどくなるので、こころのどこかにふたをして感じないふりをしていたことも思い出します。大きな建物、宅地、道路建設によって、自然が破壊されるニュースなども、とても悲しいおもいで見ていたことを思い出します。 大阪という都会に来てから、ますます失っていたそういうものを今思い出しています。ありがとうと思います。坦々と、声をきいていきます。
8/17
公園の木々は必ずLED照明の近くにあるので、ほんとうに痛々しい。
山の写真を撮ろうと思って途中下車したら、かすみがかっていたのであきらめてちょっと落ち込んでいたら、カラスがないた。そんな気持ちのとき、必ずカラスが近くでなく。
改めて、山の木々や植物が季節によって枯れる前の、夏の今しかないなと思う。
8/10
山の近くに行ったら、色の違う木が多いなあと思って写真を撮りました。
私は山の中で、山を見て育ちました。仮にふるさとの山が上の写真のように変色していたら、夏枯れとういうだけではない異様な感覚を覚えると思います。
写真は3枚とも、めがねもかけず、デジカメの画面もよく見えないまま、少しづつ場所を移動して撮ったのに、なぜか同じところばかり撮れていました。きっと木々たちが、撮って、といっていたのでしょう。この山は画面よりもっと横に広がり、ほかにも変色している木が目につきます。すそ野は街並みが広がっています。
山の斜面の土は木の根っこが支えているのになと思います。山の斜面のすぐ下に住んでいた私にとっては、大雨のときに土砂崩れがこわくて眠れなかった経験があります。
8/8
みんなの写真をメールで送らせてもらったお米屋さんからの返事に、「驚きました」とありました。
街路樹の写真を撮りました。木もLED街灯も私たちの目線より上にあります。ふと、見上げないと、気づかないままいつの間にかということがありそうな気がします。多くの人がスマホを見て下を向いている間に。
上の写真の街路樹の後ろの建物で、行われたイベントで出演を待っている間、客席に座ったら頭上がLEDで、しまったと思いました。やっぱり休憩まで体がもたなくて、途中で出ました。頭痛と気持ちの落ち込みと動悸と、今回は初めて皮膚がチリチリ、びりびりして、なんか危ない感じがしました。
8/4
やっと見つけた安心できるお米屋さん。LED使用もないということで、届けてくれた昨日、LEDにしないほうがいいんですね・・・自分の部屋だけLEDにしたんですけど・・・と。素朴な感じの方で、関心を示していろいろ話を聞いてくださった。メールでみんなの写真を送らせてもらった。ほんとうに知らない人が多いから、お知らせしていく。 もう一人の知り合いの男性も自分の部屋だけLEDにしたという。家のお父さん的な存在の人の部屋だけLEDにしていくというのはなんでだろう。もしかして家族のために節約を考えてのことだろうか。自己犠牲とか、奉仕とか、そんな本来ではないよさそうに見えることをさせられているエネルギーを感じるけれど、柔らかそうな人たちがそうさせられている感じがする。LEDはそんなことまでもたらすものなのか。
8/2
歩いていたらちょっとびっくりして写真を撮って、手にデジカメを持ったまま、音楽ボランティアにいったら、メンバーがカメラに気が付いてくれて、LEDの話になった。これまでなんにもきっかけがつかめないままだったけど、なんだかする〜っと話しができてみんなの写真を渡すことができたりした。
7/29
正論という言葉があるかぎりそれは正論ではない。真実を言ったら嫌われるからいえない?だれかの立場を守るためにほんとのことを言ったらまずくて、それで多くの人が犠牲になって、うそを教えられている。今の世の中の正論とはそういうもの。それに対する違和感を話したら、それは正論、理想と。へ〜そうなんだ〜。LED化を支えている思考があちこちにある。
7/26
歩道のLED街灯のあたっているところだけではないけれど近くの草丈がまだらに低くて、よく見るとLEDがあたっていても元気なところもあり、あたってなくても元気でないところがあったり、なぜだろうと思ったり、ベランダに置いていて、下の道路においてある自動販売機のひかりを夜浴び続けていた、いつも夏に枯れてしまうポリアンサが異常に上に伸びて花が咲き続ける期間が長かったり、ある会社の玄関の左右の2本の木のそれぞれにオレンジと白のLEDが当たっていて、オレンジの横には自動販売機があって、こちらの木は葉の色が茶色になってきていたりします。白いほうはなぜか元気なのです。
なんとなく、おかしいという風景が周りにあります。明らかにLEDがあたっているからというはっきりとしたことがないまま。娘が言いました。毎日見ているけれど、見慣れてるからわからへん、と。ちょっとぞくっとしました。そんな風景を見慣れたあたり前の風景にしてはいられない。なんとなくそうなっていく、というそれこそLED化の後ろにあるねらいなのだろうと思います。写真撮りましたが、アップに試行錯誤しています。これも自分がLED化を支えている部分。 最初のほうに書いた、LED街灯の下の植物の草丈がまだらなのは、もしかしたら、根っこが原因かなとも思いました。LEDから離れていても草丈が低いのは、根っこが街灯直下に来ていたらそうなるかもしれません。街灯の下は植物(背の低い木)がほとんどまばらになっているので、地面にひかりがあたりやすくなっています。
ことしのベランダのバラはたくさん花をつけていました。それは夜間に自動販売機のLEDを浴び続けたからかもしれません。それはバラ科の生い立ちにも原因があるような気がします。何度も改良を重ねられ、虫に弱いのでたくさんの薬が必要で、たくさんの肥料も必要で、生命を維持するには、ほんとうにたくさん人工的に手を加える必要があります。原種はもっと自力で成長して増えていける種類で力強かったはずです。(以前育てて見たくて、実際少し育てたらそうでした。今はうちの人が残りを挿し木したりして育てています。)今年よく花をつけるのはなぜかなとおもって、自動販売機のことに行きあたりました。設置されたのは去年です。LEDのことをムーさんが言われ始めてからで、なんで〜という気がしていました。4階のベランダだけど、上まで照明は来ます。いろいろ影響します。LEDと相性のいい植物なんてないと思いますが、本来をなくされて見た目だけよく作られて弱らされてしまった花ほど、影響を受けやすく反応が強くあるのかもしれません。それも表面的には良い影響を受けたような反応です。
7/22
マンションの4階に住んでいる。娘の部屋の出窓の全面ガラスから入るLEDの街灯の光をさえぎることを今まで忘れていて、昨日いろんなものでふさいでみたら、めざまししなくても起きようと思った時間に起きれたといっていた。
野菜を宅配してもらって農家さんに昨日はみんなの写真をお渡しした。勉強になりますと言ってくれた。飲食店などにも宅配しているとのことで、なにか広がったらいいなと思う。
7/20
7日ごろ阪急スーパーのお客様の声にみんなの写真を付けて封筒に入れて投書していたら、昨日久しぶりに行ったら、返事が貼られていて、本社に写真も送りましたとのこと。知ってもらえる人が増えたらいい。
昨日は朝からずっと落ち着かなくて不安感が久しぶりに出ました。腹痛も出ました。腹痛や、胃痛があると、不安感というのは増幅される気がします。もともとなかったもの。娘のお茶碗がすごい音をたてて落ちたりして何だろうと思っていました。娘が学校から帰ってくると、彼女が感じていた違和感のあるイベントについて、いろいろあったけれど、良い方向に解決されていく感じで、このごろは本当に展開が早いです。おかしなことはそのままでは進まなくなってきているようです。
7/19
黒門市場を少し歩いたら、ほとんどのお店で通りに面した品物の上にプチプチLEDスポットが当たっていた。びっくりするほど。通りには中国系の観光の人でいっぱいで歩くのも大変なほどだった。みんなここから買って帰るのかなあ。わたしは途中で、脳天から頸椎に抜けるような痛さを感じたりつらかったりしたので、足早に車道に抜けずにはいられなかった。
きらわれても本当のことを言うと言われていたことが浮かんできます。
自分が元気になってくると、私の影響を受けていた人たちも、元気になってくるということを感じました。それだけで本当にうれしいことです。
7/15
安全な玄米を探して健康安全な食材を扱っているという食品会社にLEDの使用について問い合わせたら、わざわざ電話で答えてくれたけれども、LED使用については、生産、保管、運搬について、全部は調べることはできないと。LEDについては当社も以前から把握はしておりますが、というなんかよくわからない返事だった。やる気がない、LEDについて少し知ってるけれども、細かいところまでそれを管理しない、という姿勢で、それで安全な食品を売りにするのか〜。そうか〜。みんなの写真は担当のものが見たようですが、私は見ていませんと、そういう立場の人が返事をくれるんやなあ。
娘と食事に行ったら、LEDのお店だった。時間がなくしょうがなく。時間がたつにつれて、「お母さんほうれい線、気を付けて」と娘が。家にいるときより早く顔の皮膚がつかれるみたい。LEDによって老化をはやめられたくないなあ。自然に年をとりたいなあ。
やっと親らしいことをしてやれる気持ちになった気がする。ほんの少し体を動かすことも、気持ちをいろんなことに使うこともしんどかった。娘にこうしてあげたいと思うことがすんなりと、動けるようになってきた。こんなことも邪魔されてたのかもしれない。今までは、自分がさぼりで、あかんからできないのだと思っていた。
7/13
テレビから聞こえたバイオリンの音。今までと違ってなにかヘビ的に聞こえた。弾いている人のエネルギーなのか、馬のしっぽの毛を使っているからか、しんどい。馬頭琴もそうだけれど。弾く人の手前が伝わる。作曲家の手前もかな。 心が伝わる人もいる。そんな人の中で、ある人の先生の言葉が浮かぶ。「音楽家にとって一番大切なことは、普通の人でいることよ。」その人の普通はムーエナジー的な普通ではなかったかもしれない。でもいま改めて感じる。
音楽のない場所に行ったら、音楽にしがみついて生きていたことに自分は情けなくなるだろうと思うし、今でもそう。音楽に関係のない職場とか、全然だめだった。少しづつ、なにかが外れていく。
音楽やっていて、いろんなジャンルがやってくる。なにもかも本気でやるのが当たり前だと思っていたし、そういう風にしかできない。けれど、一緒にやっている人たちにとっては趣味。それはよしあしでなく、ただそうであるだけ。わたしは自分のすべてみたいなところでやっている。だからといって趣味の人たちの本気度をどうとか言っているのでなく、やっとそういう状況が見えてきたというところ。その中で変化していくものをなんとなく感じる。いろんな場所に行けたら照明の人にLEDのこと話せるなあ。
エアコンをつけて眠りたい家族がいるのでそのなかで眠っている。しばらくなんとなく半分ぐらいしか眠れない日が続いた。何日かして、暗闇でふとエアコンを見ると、いろいろ表示のところのLEDの光がふさいだはずの紙からもれていた。アルミホイルを張り付けたらひかりがもれなくなり、それだけで、安心して眠れるようになった。それだけのことなんだけど、暗闇というのは安心できる暗闇というのもあって、無理に明るくしていようということもいらなくて、夜になったら暗くなっていいんだと思う。経済性を考える、エコだ、というならみんなで灯りを消してはやくねむったりしてみたり、ろうそくもあるし。特別な光はいらない。
7/11
みんなで歌う会をさせていただいているお店のマスターは農業をやりたい人で、お店の周りに樽に土を入れて豆とか、ジャガイモとか育てている。けれどお店はLEDで、会のときはプチプチスポットだけは消してもらっている。やはり終わると、変に疲れる。それで、きのうみんなの写真を食物を中心に渡してみた。「でもLEDをあてて植物を育てている人いてはりますよね」と言われたので、「LEDで成長が早いということは老化が早いということだとおもうんですけど、それっていいのかわるいのか・・・」と言ってみた。写真を見てくれていると思う。その人は昔演劇に携わり、照明を担当していたと。なんかその世界も変わるといいなと思う。
馬頭琴のコンサートがあった。スポットはLEDだった。最初の曲、少し音が小さかった。楽器が響かなかった。進行するにつれて、だんだん本来になっていったようだったけれど、モンゴルの奏者の人は、始まる前の練習で、日本の湿気で弦か弓がのびていつものポジションから音程がずれてたいへんと言っていた。わたしはどうしてもLEDスポットが気になった。弦はナイロンの細い弦を束ねたもの。弓は馬のしっぽの毛。本体は木製。モンゴルは日本より気候は乾燥しているだろうけれど、もっと厳しい環境のはず。ゲルに住み暮らす中で大切にされてきた楽器。湿気だけでそんなに簡単に音がくるうようなことがあるかなあ? でも弾く人が何を大事にして生きているか、伝わってきた。自然でできている楽器には人の心も伝わりやすいんだろうなあ。いつもとは違うところから涙がいつの間にか出てくるような感じがしたコンサートでした。
7/7A
1軒のスーパーにはみんなの写真をそえてお客様の声の箱にメモを入れてきた。もう1軒は箱に入らなかったので、サービスセンターの人に渡しに行ったら、店長を呼んでくれて直接話すことができた。以前まだ写真がない時に本社にメールをしていたので、覚えていてくれた。店としてはチェーンなのでLEDスポットは外すことはできないと思いますが、と言いながら、個人的には話を聞いてくれて、少し理解をしめしてくれて、写真を見せてもらいますと言ってくれた。科学的に証明されているんですかね?と言われたので、写真がなにより証明だとおもったんだけど、以前仲間が書いてくれていた、玉三郎さんのHPに科学者の論文がのっていることなど、話すことができた。いろいろほかにもあるんだけど、科学の実証ってなあ。科学が今の常識に沿っている世界だったら、何にもならない。人のために役立ちたいから科学者をやっている人がいたらいいなあ。利益のためにやっている人ばかりでないといいなあ。
9,000億円も宇宙関係に日本が使っていると聞いてあきれた。科学ってそんなところに使うお金はあるんだなあ。そんな遠いところよりも、LEDのこととか、子ども食堂が増えている実態を改善するとか、そんなことに使ったらいいのになあ。
7/7@
いろいろ波はあるけれど、いままでより格段に動けている。かなりぼ〜っとしていた時間もあったのに、やりたいことが全部できて、夕方には大きな夕陽に今日も一日ありがとうと、自然に言っていた。こんな日が来るんだなあとおもった。夜は眠気は来るけれど、体力みたいなものはまだ残っていて、動きたがっているような感じ。こんなに自分は元気だったなんてなあ。中高生のとき、放課後に運動系の部活やって、それで帰って勉強してとか、できるひとってすごいなあと思っていた。自分はとてもそんな体力なくて。今もしかしたらできるかもしれないとおもえるほど、気持ちも元気で軽い。久しぶりにパンも作ってしまった。オーブンがないので、フライパンと、魚やきグリルで焼いてみた。おいしくたべられたのでよかった。ほんとに、ありがとうとおもう。
ちょっと前まで、人前に出る仕事だから、洋服がほしいあれがほしいと、いろいろきれいにしたいとおもう欲がすごかった。最近それがあまり浮かばなくなっている。また変わるかもしれないけど。人が見てくれて、喜んでくれるもので、自分もうれしいものを着てみたいなあと思う。自分が似合うものの範囲で。
7/6
この前のバンドの練習のとき、ふときがついたら天井のLEDプチプチスポットをマスターが全部消してくれていた。前回はメンバーにあたらないように全部すみのほうに回転させていたんだけれど、それを察してくれたみたい。
昨日生協から電話があったので、LEDのこと話してみた。知ってもらうことから。
縄文時代とか、最初に音楽みたいなことはじめたときのこと想ってみる。
みんなで楽しくうたったり踊ったりしていた。あたり前に真剣で遊び心で。それでみんなすてきなものが表現されていただろうなあ。だから昔はプロもアマもなく、表現されることはすべて普通にすてきだったとおもう。あたりまえの基準が縄文土器のようにさりげなく普通にすごかったとおもう。いつのころからか、それを人間だけをやる存在に形だけをまねされて、違うものになっていったのかもしれない。そして、プロとかアマとかの不必要な隔たりができて、今、形とか、音だけに惑わされているかもしれない。
なんか音楽をやっていて、ときどき心に浮かぶのは、とりもどす、ということ。音楽とか踊りとかそういう心身の表現を自分たちのもとにとりもどすということがときどき浮かんでくる。
うまい、へた、は関係なく、本来のそういった表現は、表現したいとおもう人がやったら、普通にやって、自然にふつうにすてきで美しいと生命が感じるものだったと思う。それこにはいわゆる、いいね〜、すてき、わ〜っと思わず拍手したくなるようななにかがかもしだされていただろうな。
うまいということばは、すごく書いていて違和感になってきた。それはテクニック=形だけのうまさにつなる感じが今はしている。
で、自分はどうなのか。けっこうわからないでぐるぐるしているけれど、子供の頃楽しくてやっていてそのみちしかおもいあたらなくて学ぶことの経過を経て今があるけれど、自分の中からなにかがなくなればいいなとおもっている。なにがなくなればいいのか、まだはっきりと見えてこないけれど、それはなくすことをおそれているからともいえる。
毎日発声練習とか、ピアノとか弾いてなきゃどこか落ち着かなかったけれど、この半年以上全然毎日は、やっていない。優越感とか、自己満足とか、そういうものに自分の場合はつながってしまう。自分は楽器だから、いつも磨いてお客さんに最高=普通の状態を聞いてもらいたいと思っている。だけど、今書きながら浮かんできたのは、日々の生活の中で瞬間ごとに生命として真剣に生きていたら、それが表現されるわけだから、ということ。それが最高の状態を保つということなのかな、と、。あんまり考えるな〜とどこかから声がする。ので、なんとなく、楽しくやっていきます。
で、すごくさっきから感覚がかわっている。今まで音楽は自分の一部分だと感じていて、どこか日常と使い分けていた感じがあり(そうしないと少ししんどい感じがして、心身が持たない感じがしていた)、一部で表現していたようだったけれど、これからは全体で行くということです。
7/5
わたしはどこにいってもなにやってもあかんからそこに居れなくなるのだとおもっていた。今回ははその逆らしく、またなにか知らないうちに失敗をやらかしたのだとおもっていたら、これはそういう状況じゃないらしい。
私たちは昔からそんな感じだったかもしれない。いろんなケースはあるだろうけれど、本来生命として普通に持ってるものをしんどいほうのことにいいように利用されてきたような気がする。
しんどさが普通の立場の存在は本来何も持ちえず、地球の環境、その他、地球に本来いた人の持っているものの、ほんとうに、いいとこどりをしてきたのじゃないかと。
自分にしっととかやっかみがでてきたらそんな自分を認めて、他の人と同じようにはできない自分を認めて、そこから自分のできること、できないこと、自覚して、本来の自分を生きればいい。そしてお互いの持っているものを活かしていけばいいのだとおもう。
ひとつの中のピースだから。ただの役割分担でできることやってるだけ。
否定感情に立ちどまり、自身の否定的な感情を表現し、対象の存在を封じ込めてしまう、いなかったことにする、そんな言動は恥ずかしいことだと思っていた。でもそれがいろんな大義名分をこしらえて正しいとされて、というか、わからないように表現する(LEDとにている)というか、そんなことを平然と行うことが普通ということが、よくわからない。今は生命を奪うことができないけれど、昔なら、ただ、気に入らないからという理由でおこなわれていたようなことが、今も身近にある。無意識にそういう存在の性質が露呈し始めている今。
今回のその原因は、立場、利益だけれど、大きな原因がお金であるならば、いっそお金のいらない世界になったことを想ってみる。
みんなが喜ぶものをもっているならば、それを普通に表現する。それを喜ばない存在はどうしたって喜んでくれないのかな。そこも突き抜けて、そんな存在が喜ぶことを思い出すようなことって、これからなのかな。そうでないと、宇宙のどこかで永遠に繰り返されてしまう。
考えるまでもなく、そうなっていく今は過程なのだろうけれど。
道はひらけてきたんだとおもう。
|