講演目次
1 牧口研究の個人的動機
1-1 末法年代の問題
1-2 東大法華経研究会編『創価学会の理念と実践』
1-3 新学生同盟
1-4 哲学的探求
2 現代宗教の諸問題
2-1 支配的文化の変動
2-2 現代宗教の役割の変化
2-3 信仰の諸形態
3 牧口常三郎の改革主義的運動
3-1 牧口常三郎の世界観
3-2 日蓮仏法受容の特徴
3-3 後期の科学的宗教観
3-4 牧口に残る原理主義
4 残された問題
4-1 教義的諸問題
4-2 運動上の諸問題
牧口先生の世界観については、もう時間も残り少なくなったので、詳しくは私の『牧口常三郎の世界ヴィジョン』に書いておきましたので省略しますが、重要なことは、西洋文明がもたらした社会進化論、生物進化論という思想を受け入れて、科学的知識がより一層普及し、また杜会全体が民主的な方向に進むと信じていたということです。新しい価値観を受け入れ、伝統的な価値観にしばられていた杜会を改革しようとしていました。
そのような牧口先生ですから、宗教に関しても伝統的な宗教をそのまま受け入れることができず、自分の持っている科学的思考や経験主義や民主主義という哲学的思考と調和する宗教を模索していました。私の『牧口常三郎の宗教運動』で詳しく述べておきましたが、牧口先生には「宗教はこうあるべきだ」という考え方が非常に早い段階からあるのです。
その牧口先生の理想とする宗教に日蓮仏法が適合していると思わせたのが、三谷素啓という日蓮正宗の在家信者です。三谷素啓の日蓮仏法解釈というのは、日蓮正宗の伝統的な教学と違います。それは例えば「人法一箇論」という重要教義において全然違っています。皆さんが「人法一箇論」をどう理解しているかは定かではありませんが、26世日寛上人は、「人本尊」として「日蓮御影」を挙げています。古い法華講の人たちの家に御影像がよくあります。牧口記念会館にもありますけれども、あれが実は「人本尊」です。そして曼茶羅、これが「法本尊」です。要するに二つの本尊がある。それはどちらでも同じだというのも変ですが、「人本尊も法本尊も同じである」というのが「人法一箇論」のオリジナルモデルです。(注 「人法一箇論」については拙論「日有の教学思想の諸問題」の中の「御影本尊論」に関する議論を参照されたい。また東佑介「富士大石寺における御影本尊論の形成と展開」(『法華仏教研究』第2号所収、2010年2月法華仏教研究会)に、拙論発表以後の日蓮正宗側の批判論文の要旨と、批判論文への東氏の批判が展開されているので、この問題に興味のある方は『法華仏教研究』を購入して一読されたい。)(2010/7/25)
創価学会はそういうふうに解釈しません。「人法一箇」というのは、「御義口伝」に書いてある「南無妙法蓮華経は法華経の行者の宝号なり」ということであり、「別しては大聖人」であると解釈しています。要するに大聖人というのは「南無妙法蓮華経如来」であると。そういうようなことで、「戒壇の御本尊」が大聖人だという考え方で御影本尊論を採用していません。これは日蓮正宗にはない考え方ですね。牧口先生は日蓮仏法が他の宗教と違うのは、人格神や仏菩薩を本尊とせずに、法つまり曼茶羅を本尊としている点に見ています。創価学会はその牧口先生の考えを受け継いで、日蓮正宗とは異なった人法一箇論を採用しています。
そういうことで伝統教義から見ると、牧口先生の日蓮仏法解釈は結構伝統的な日蓮正宗の教義解釈とは違うところがあります。だけれども私はそれでいいと思うんです。牧口先生は現代の文化的状況に合うものとして、大聖人の仏法を選んで、その文化に適合した形で信仰していったんです。
その中で重要な論点が、例えば「三証」を近代的に解釈しています。創価学会の初期の折伏マニュアルである『折伏経典』には「宗教批判の原理」として「三証」が書いてある。文証、理証、現証の「三証」というのはいい考え方だと僕は思っています。今でもある程度使える議論だと思いますけれども、まあ使いにくいところもあるなというのがあるんですが、考え方としては決して悪い議論ではありません。ある種の議論の土俵さえ設定できればあの議論でやれるというか、現実に現代のサイエンスというのは似たような議論でなりたっている。ところがサイエンスには「科学革命」ということが起こるから、そういうふうになった時にあの議論が使えないというだけの話なんです。
また牧口先生は基本的に宗教独自の価値である「聖」の価値を「善」と「利」の価値に還元できるというそういう議論をしている。要するに「宗教というのは杜会の繁栄、個人の幸福を実現しなければ全く意味がないんだ」という考えです。ですからこれも日蓮正宗の考え方とは違うわけです。違いについてはいろいろ説明できますが省略します。
そういうようなことで、牧口先生は教義を独自に解釈して信仰していたわけです。独自に解釈したら、それと伝統的解釈との違いが出てきた時に、いろいろ問題が起こる。その後、日蓮正宗と創価教育学会は結構トラブルが起こっていますが、そういうことが原因です。
「追記 なお自然科学においては、法は自然に内在する理法とみなされるが、宗教においては、法は創唱者の悟りを述べたもの、あるいは預言者を通じた神のメッセージであり、教法とみなされる。牧口は教法よりも理法を重視している。たとえば、『創価教育法の科学的超宗教的実験証明』の中で、「まず師とするに足る正しい人の言を信じ、如説の実行をなし、体験によって価値の有無を証し、無価値なる主観的の観念論を捨て、以て人をも離れて、生活関連の法を信ずるのである。更に何故に価値が証明されるかを、経文及び道理にただして、いよいよ信仰を確立し、かくて価値の遠大と近少とを比較対照して研究し、遂に無上最高の極意に達し、ここに初めて畏れる所なき安全の境地に達する。『一信二行三学』という科学のそれとは全く異なった研究法がすなわちこれであるが、これはすべての技芸乃至生活法の研究に適用されるべきもので、現に無意識的に如何なる技芸の修業にも実行しつつある所である」(牧口全集第8巻 p. 74-75)と述べて、師の説を離れて(ここには三谷素啓と別れた牧口の体験が反映しているだろう)、生活法としての有益性を検討すべきだとしている。もちろん牧口にはまだ経文に照らすという教法重視の姿勢が残っているが、もしその教法が特定の文化状況の中で受容できない、つまり道理に反していると判断された場合には、牧口はどうするのだろうか。この宗教の価値論的研究方法が技術、芸術にも共通するかぎりは、より有益な生活法が発見された場合には、伝統的ではあっても無益な生活法は捨てられるであろう。自然科学に科学革命が生ずるように、宗教においても宗教改革が生ずるのであり、その場合には教法であるからといって無批判に受容するのではなく、取捨選択しなければならない。牧口が生きていた時代においても、仏教史について伝統的な見解とは別の学問的見解があったのであり、牧口がそれについて無知であったのか、知っていながら沈黙していたのかは不明であるが、教法の妥当性を吟味するという作業は現在にまで延期されている。」(2009/4/05)
次に後期の科学的宗教観についてお話したいと思います。牧口先生は「宗教は社会と個人にとってメリットがなければならない」という考え方を持っており、それぞれの宗教を信仰している人のデータを取って、「はい、あなたはハッピーになりましたね、ではプラス1」「あなたは、なっていませんね。ではマイナス1」というように社会的統計を取って、どの宗教が一番有益かということを調べて、一番いい宗教を選ぽうじゃないか、という考えがあり、これが「科学的宗教観」であると考えたんです。
そういう中で出てきたのが、「法罰論」です。「功徳がある」ということを証明するために「反対する人には罰が出る」そのくらいでないと力がある宗教とは言えないではないか、こういう議論が「法罰論」です。
戸田先生もやはり同じように考えて、ある論文で「『宗教調査会』を文部省に設置すべきである」と提言しています。各宗のメンバー100人を適当に選んで、10年後、20年後この人たちがどう変わったか、100人ずつ追跡調査をやって、その中で人々がもっともハッピーになった宗教は何か、これを調査すべきである。そうなれば我が創価学会こそ最もいい宗教だということがわかるだろう、こういう議論です。
本当にやればよかったんですけどね。どういうデータが出るか、非常に興味があるんですが、誰も調べようとしない。それが実情で、なかなか難しいところがあります。
戸田先生は宗教の功徳、いい宗教か悪い宗教かというのは社会統計的にチェックできるんだという考え方だったわけです。私はその考え方は非常に重要な考えで、今でも有効で、そういうことは徹底的に調べるべきだと思います。それはその宗教が正しいとか間違っているとかを言うためではなくて、どの宗教が社会的に有益な宗教として活動しているか、ということを調査する意味で、これは重要なことです。
「正しい宗教だから功徳がある」という考えが正しいかどうか、これは定かではありませんけれど、「ある宗教がメンバーに功徳をもたらす宗教かどうか」、これはチェックできます。正しい宗教でも「功徳のない宗教」というのはありえます。「宗教的目的のために自分を犠牲にすれば真の救済に与れる」という宗教があったとしたら、その信者はみんな自己犠牲を積極的に行います。そのような宗教は、社会的に見るならば悲惨な宗教にしかならないですが、その宗教は教義上では首尾一貫して成功しているわけです。
もっともこのような宗教が多くのメンバーを獲得できるかどうかは疑問ですが、宗教と自己犠牲ということは根深い関係がありそうですが、牧口先生はそのような宗教は善や利の価値を持たず、社会的には害悪をもたらす宗教であると批判しているわけです。
次に「牧口先生に残る原理主義」ということですが、牧口先生は「法罰論」を言う時に、二つの議論をしています。1つは法罰を法華経や大聖人の御書によって根拠付けるという作業で
す。経典を根拠にして「反対する人には法罰は絶対起こる。信仰する人には功徳が百発百中起こる」と言ったら、これは事実を観察して得たことではないから、原理主義的な考えになります。
会員の宗教的経験を観察するならば、たぶん「百発百中」ということはないだろうと思われます。現に多くの宗教団体には、一度はメンバーになっても退会する人もたくさんいますが、その理由には期待した功徳が得られなかったということもあるわけです。そういう意味で「百発百中」というのはやはり無理があるんではないかと思うんです。ですから「法罰論」というのは宗教社会学的な調査に基づく理論なのか、それとも経典に基づく宗教的な教義なのか、そういう問題が生じます。
牧口先生は「両方でありうる」と思ったんですが、この辺はちょっと考える必要があります。
確かに宗教教義としては「百発百中」でなければいけないのですが、現実の宗教社会学的な理論としては、データがそろう前に「百発百中」と言ってしまうのは、これはまだちょっと早いんじゃないかとしか、言いようがないわけです。そういう意味でこの辺の立て分けというのがあります。ですから牧口先生は「宗教教義」と「宗教社会学」的な考え方がミックスされている。その辺がはっきり分かれていない。
法華経、或いは御書にこう書いてあるから「百発百中」だという、言い方をすると、これは「原理主義」なんです。「御書に書いてあるからこうなるはずだ。試して調べてみよう」というなら原理主義にならない。
私は別に「百発百中」じゃなくていいと思うんですね。6,7割程度の人がなんらかの功徳を感じることができれば、大成功だと思うんです。そのくらいの余裕を見て、今の創価学会は運動をしていると思うんですが、確かにたくさん入信しますが、全員が全員残るわけじゃない。
そういう意味で、教義と現実ということを立て分けて考える必要がある。
私はそこそこ現実がいい方向に向かっていれば、それはいい宗教だと思っています。ところが現実がうまくいかない宗教もある。「法の華」や「統一神霊教会」のように一部の幹部は幸福感を感じても、一部の会員は金銭トラブルから教団を告訴するということが生じたりする。そういう宗教に比べれば創価学会はましな教団だと思っています。ただそれは教義が正しいかどうかという問題とは関係なく、宗教社会学的調査上、ましな教団だという結論が出るという話です。
牧口先生はその辺をクリアすれば、やはり事実上創価学会の教祖になるんじゃないかなという気がするんです。「教祖」と言ったら叱られちゃうかな。
創価学会は長い間、日蓮正宗の在家信者の集団であるという自己規定をしてきましたが、それは外形的には正しい事かもしれないが、内容的には、私は創価学会は新宗教だと思っています。伝統仏教の一信徒団体という枠を超えています
。創価学会というのは独自の宗教運動をする独自の教団だから、独自のアイデンティティーというのをはっきりさせるべきだというのが私の考え方で、それをはっきりさせるために、日蓮正宗から独立する。そういう理論をつくるために『牧口常三郎の宗教運動』を書いたつもりなんですけれども、読者にそれが伝わったかどうかは定かではありませんが。
それで残された課題は時間がないからパスしましょうね。
僕が言いたいのは国内と海外の「ダブルスタンダード」、これはやめてほしいということです。最近勤行の仕方、海外版と国内版と違うのか同じなのか定かではありませんが、海外版をやっている人も多分いると思うし、私はずっと奉安殿形式という簡略版でやっています。正本堂ができる前、奉安殿という小さいところがあって、ものすごい窮屈なところでやっていた時代があるんです。その時の勤行というのは「方便品」と「長行・自我偈」あとご観念文、こんな感じだったんです。私は勤行よりも唱題すればいいという考えなので題目をたくさんあげることには抵抗はありませんけれども、なんか同じ経文を5回も繰り返すのはなんとなく…
そういうタイプです。
あと二つあるんですが、一つは、「仏教教団との付き合い方」という問題です。海外では創価学会はマイナーな教団です。ですからドイツとかイギリスでは他のいろいろな仏教教団とともに「仏教協会」に所属しています。それによって「創価学会は仏教団体だ」と社会的に認められるわけです。そういうように他の仏教教団を邪宗とは見なさずに、一緒に仏教の広報活動をしています。
日本国内においては聖教新聞には邪宗という言葉は載りませんが、会員の意識は相変わらず邪宗みたいですね。僕のゼミでいろんな話をする時に聞くことがあるんです。君たち他の教団の人たちと仲良くやれる?初めは仲良くやれるけれど、最後は折伏しなくちゃねとこんな感じで終わっちゃうんですけれどね。やはりそういう意味で相手は折伏の対象で、相手にも宗教的なそれなりのよさがあると、そういうところまで行くのはなかなか行きにくいなというのがありますね。ただ海外における付き合い方と日本における他の仏教教団、新仏教教団との付き合い方の、スタンダードが違うというのはやはり問題があるだろうと思います。
あともう一点では、政治的な次元です。海外では政治活動は一切していません。ところが国内ではしています。今年の夏、私はハーバードに行ったら質問されるだろうと思いますが、それに対してどう答えるべきかというのは、私なりにプランがあります。けれど、私の方としては「あなたたちはどう思うの?」というように逆に質問してかれらの考えを理解したいという気はあります。「ダブルスタンダード」の問題というのは多分大きい問題だと思います。
教義上の問題は時間がないから、さっき言った末法年代のことだけ言うと、基本的には末法の定義を変えてほしいということです。末法というのを釈尊滅後何年というとどうしようもない。例えば末法を既成の宗教が人々の救済能力を失った時代と定義すれば、現代も末法だし、大聖人の時代も末法だというふうになる。そうすれば「末法」という言葉を使っても問題はないんだろうなという気がします。
要するに創価学会が昔の教義をそのまま主張しているのか、或いは解釈を変えてやっているのか、このことが重要な問題だと思います。「本門戒壇」の解釈を変えたんだからそのくらい変えてもいいんじゃないかという気がしますが、多くの会員のみなさんがどう考えるかは私には定かではありません。
時間が来たので以上で終わります。どうも尻切れトンボみたいですいません。