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宗教言語の多様な使用について(1)

宮田幸一 創価大学人文論集第7号 1995

   

1 はじめに

   

「宗教言語」という言葉でどのような言語が意味されているのかを説明をする必要があろう。一般的に言えば聖書、仏典などの聖典という宗教的テキストにおいて使用されている言語は全て宗教言語でありうる。その中でも第一に宗教言語とされるのは、そのテキストの中の、例えば「神」「仏」「地獄」「涅槃」などの特定の宗教に特有の言葉である。その言葉の指示対象や内包的意味に関しては、それぞれのテキスト内部の文脈と信仰共同体のそのテキストの解釈の伝統との中で与えられるので、それらを無視してその言葉の指示対象や内包的意味を一般的に述べることは、容易に誤解を生じさせるだろう。これらの宗教に特有の言葉は宗教言語であることは明白である。
 第二には日常的に使用される言葉であっても、それが宗教的テキストの文脈の中で日常的意味とは異なった意味で使用される場合には宗教言語である。「父」「子」という言葉も、キリスト教の伝統の中では、その言葉の日常的使用の場合に含まれる生物学的関係という意味を含まない言葉として使用されている。また神の愛は人間の愛のように身体的行為を通じて表現されるわけではないので、「愛」という言葉も日常的使用の場合とは異なった意味で使用されている。
 だがこの場合でもある言葉が日常的使用とは異なった意味で使用されていることが宗教的テキストにおいて文脈的には示されているが、同時に日常的使用の意味と一部分重なった意味をも持つように意図されて使用されていることも示される。どの点で同じ意味であり、どの点で異なった意味なのかを探ることは解釈者の仕事であるが、このように宗教的文脈で使用される日常的言葉も宗教言語である。
 次ぎに日常的に使用される言葉が宗教的テキストにおいても表面的には日常的使用と同じ意味で使用されているように思われる場合がある。「イエスは次ぎのように述べた。」という表現は、表面的には、イエスという人物が何かを述べたということを記述しているように解釈され得る。この表現は「神は次ぎのように述べた。」という表現とは宗教言語としては明白に異なった表現である。なぜなら後者においては、神は人間ではないということが含意されており、したがって神は人間のように肉体的に口を動かし、音声を通じて、何かを述べるという意味を含んでいないことが明らかである。しかし前者においては、イエスが人間と異なるということは含意されているかどうかが、文脈上は不明であり、それゆえ日常の事実に関する報告のために使用される日常的な言葉であるように思われる表現である。しかしこのような場合でも日常的な言葉が日常的使用における場合と同じ意味で使用されているかどうかは、宗教的テキストの解釈においてはいつでも問題にしうる。したがってこのように使用される日常的言葉も可能的には宗教言語である。
 さらには一般的にはいかなる言語使用の文脈においてもその意味が共通していると考えられている論理語に関しても、宗教的テキストにおいては必ずしもそうは言えないことも指摘できる。ある神学的理論において「イエスは人でも神でもある。そして神は創造者であり、人間は被造物であるから、神は人ではない。」という主張がなされる場合、二つの文を連接する「そして」を、記号論理学の連言のための論理語として解釈するならば、上述の文は論理計算により常に偽になるが、神学者がこのような単純な論理計算を認めるとは思われない。仏教でも四句分別「有・空・亦有亦空・非有非空」の中の「亦」を、記号論理学の連言のための論理語として解釈するならば、常に偽の文を主張するということになるが、そのような解釈は仏教の思想を理解しない浅薄な解釈であると批判されるのが普通であろう。したがって常に同一の意味を持っているかのように思われる論理語さえも、宗教的文脈の中では、その意味が不透明になる宗教言語となりうる。
 このように見てくると宗教的テキストに使用される言語は全て、日常的使用と同一の意味において使用されているかどうかが確定されていないがゆえに、特殊な意味を帯びている可能性を持つ宗教言語として考察することが必要になる。
 以下において、宗教的テキストにおける宗教言語の多様な使用法を検討する計画であるが、とりあえず今回は、最も典型的な使用法である認知的使用がどのようなことであるのか、またそれがどのような問題点を持つのか、を考察してみよう。

2 宗教言語の認知的使用 

 宗教言語の使用の中には、宗教的事実についての記述により報告を与えたり、また宗教的理法、神的約束などに基づいて宗教的意味を帯びた未来の出来事を予言したりするということがある。宗教的事実に関する記述に関しては真偽を問題にしうるし、また宗教的予言に関しても予言された出来事が実現されるかどうかに関して調べることができるかぎりにおいて、真偽を問題にすることができる。このような場合の宗教言語の使用は、事実に関する何らかの知識を与えるという機能を果たし、認知的 (cognitive) 機能を持つと通常言われている。以下において認知的機能を持つ場合の宗教言語の使用例を、宗教的事実についての報告の場合と、宗教的予言の場合とについて考察してみよう。

2−1 宗教的事実についての報告

 宗教的事実とは何かということに関してはさまざまな見解がありうるが、とりあえず、特殊な宗教的意味を付与されてはいるが、日常的事実と同様に知覚的に経験可能な事実であるとしておこう。事実とは観察不可能な私秘的な出来事ではなく、観察可能な公共的な出来事であり、宗教的事実もその点では変わらないとしておくことが当面の議論にとっては重要である。
 宗教的テキストの中には、その宗教がどれほど力があるかを示すために、宗教的奇跡についてそれを事実として主張する記述を含むものも多い。
 例えば新約聖書の中には宗教的奇跡についてさまざまな記述が含まれている。その一つに「らい病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。イエスが深く憐れんで手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまちらい病は去り、その人は清くなった。」(マルコ 1・40)とある。この記述はイエスが宗教的な力により実際に癩者の病気を治療したという事実を報告しているとみなすことができるだろう。福音書は癩の病気が治った者がその出来事を人々に言い広めたことを記述して、この奇跡的な出来事が観察可能な公共的出来事であったことを主張している。
 (聖書解釈者の中には、新約聖書の福音書はイエスの言行について事実を報告しているのではなく、福音書記者の信仰を表現しているのであり、事実の報告と考えるのは誤りであると主張する者もいる。しかしここで重要なことは、福音書記者はイエスに関する単なる作り話しとして福音書を書いたのではなく、イエスの宗教的意味を明らかにするために、重要な出来事として奇跡について記述しているということであり、その意味で奇跡は事実として主張されているということである。ルカの福音書の冒頭には「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています」(ルカ 1・2)とあり、事実に関する証言であるという主張がなされている。)
 また同様に、イエスが復活して弟子たちの前に現れ、「なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(ルカ 24・36)と言ったという記述がある。この記述は十字架で処刑され、墓に埋葬されたイエスが、神的な力により、肉体的に復活したという事実について報告していると解釈されてきた。死人が生き返るということに関しては、イエスがヤイロの娘を生き返らせたことが福音書では記述されている(マルコ 5・35)から、処刑されて死んだイエスが生き返ることも同様な事実として主張されていると解釈できる。
 今日においては死んだ人間が生き返るということは医学的にはありえないことと見なされているが、死の定義が今日と同じであるとは限らない時代には、死んだと見なされる者が再び蘇生するということがありえるのかもしれない。あるいはパスカルが言うように無から命ある者を創造する神が、一度創造して死んだ者を蘇らせるのはより容易であるという議論も可能かもしれない(パスカル §227)。あるいはイエスは神の受肉であるのだから、イエスの死は通常の死とは異なるという議論も可能かもしれない。死者の復活ということがどのように信じられていたにせよ、新約聖書においては、十字架で死んだイエスの復活は宗教的意味を帯びているが歴史的事実として証言されている。
 宗教的テキストの中で、奇跡的な出来事に関して報告している表現はその他にも数多くある。例えば鎌倉時代の日蓮は、自分の修学時代のことを振り返って、弟子たちに手紙で、「生身の虚空蔵菩薩より大智恵を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ」(清澄寺大衆中 p. 893)と述べている。
 このテキストの中で述べられていることを文字通りに事実として受け入れることは、非宗教的雰囲気の中で生きている現代の人々にはできないかもしれない。現代人の世界には虚空蔵菩薩の木像はあっても生身の虚空蔵菩薩は存在を許容されていないからである。しかし鎌倉時代の人々の世界で生身の虚空蔵菩薩の存在が許容されているとすれば、この表現は架空の作り物語ではなく、重要な宗教的意味を含む歴史的事実についての報告として解釈されうるだろう。
 以上のように現代人の世界観を前提とするかぎり、宗教的テキストに記述されている不思議な出来事、奇跡とされるような出来事が、その記述されているように生じたと信じることはかなり困難である。しかし宗教的テキストを通常の理解の仕方で読むかぎり、そのような出来事を記述した者が、それを事実と信じて報告しているということも、明らかであるように思われる。そしてそのように記述された出来事はまた、また信仰共同体の中では事実として生じたことであると信じ続けられてきたことも明らかであると思われる。このような宗教言語の使用には認知的機能を認めることができるだろう。

2−2 宗教的予言

   

宗教言語の認知的使用には、ある宗教的な出来事を記述して報告するという以外に、ある宗教的真理、法則(理法)、神的な約束などに基づき、宗教的意味を帯びた将来の出来事を予言するという場合もある。たとえば旧約聖書には預言者エリヤが、エリヤの信じる神と異教の神バアルと、どちらの神が真の神であるかをユダヤの民衆の前で決定するために、次ぎのように述べている箇所がある。
 「わたしはただ一人、主の預言者として残った。バアルの預言者は450人もいる。我々に2頭の雄牛を用意してもらいたい。彼らに1頭の雄牛を選ばせて、裂いて薪の上に載せ、火をつけずにおく。わたしにも1頭の雄牛を同じようにして、薪の上に載せ、火をつけずにおく。そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。」(列王記 18・22)
 旧約聖書には、バアルの預言者たちがその神バアルに祈っても火がつかなかったのに対して、エリヤがイスラエルの神に祈ると火がつき、人々はイスラエルの神こそ真の神であることを承認し、バアルの預言者たちを殺害したと記述している。
 このエリヤの発言は、神に祈ることによって火のついていない薪に火をつけることができるという宗教的理法が成立していることが前提となって、はじめて有意味な発言となっている。またその理法の成立を民衆が認めている場合に、その予言の成就の成否は民衆の神選択にとって決定的な実験として見なされる。
 また新約聖書にもイエスの予言がいくつか記述されている。その中で最も重要なのはイエス自身の死と復活の予言であるが、その他にもユダの裏切りやペテロの離反の予言、神殿の崩壊の予言、また復活後は聖霊降臨の予言、再臨の予言などがある。新約聖書はこれらの予言のいくつかは既に成就されたことを記述し、また残りの予言も成就するであろうと確信していることを記述している。
 あるいは鎌倉時代に日蓮の布教を敵視していた極楽寺良観が祈雨の儀式を行うにあたって、日蓮が「現証に付て事を切らんと思う処に、彼(良観)常に雨を心に任せて下す由披露あり、古へも又雨を以て得失をあらはす例これ多し…七日が間に若一雨も下らば御弟子となりて二百五十戒具さに持たん上に、念仏無間地獄と申す事ひがよみなりけりと申すべし」(下山御消息 『創』p. 349、『定』p. 1321)と良観に伝えたのも、正しく仏教を信仰する者の祈雨は成功するが、邪に仏教を信仰する者の祈雨は失敗するという宗教的理法の成立を前提とした発言である。
このテキストでは良観が日蓮の申出を承認したかどうかは不明であるが、良観の祈雨は失敗し、日蓮は良観のその後の行動に対して「両火(良観)房真の人ならば忽に邪見をもひるがへし跡をも山林にかくすべきに其の義なくして面を弟子檀那等にさらす」(同 『創』p. 350、『定』p. 1323)と批判していることから、良観も申出は承認したが、不誠実な形で約束したと日蓮は判断したと推測される。
 ここでエリヤの場合と異なり、良観の弟子檀那等が祈雨に失敗した良観を見捨てること無く相変わらず良観を支持し続けたことは、彼等が正しく仏教を信仰する者の祈雨は成功するが、邪に仏教を信仰する者の祈雨は失敗するという宗教的理法の成立を承認していないからだと推測することもできよう。日蓮は「古へも又雨を以て得失をあらはす例これ多し」と述べて、祈雨の成功、失敗が「現証に付て事を切る」ことであり、信仰の正邪を判定する実験的出来事であると考えている。
 しかし日蓮は同時に「又祈雨の事はたとひ雨下らせりとも雨の形貌を以て祈る者の賢・不賢を知る事あり」(同 『創』p. 350、『定』p. 1322)と述べて、例え祈雨に成功したとしても、その雨の降り方により、また仏教の信仰の正邪の判定が区別できることを述べている。したがって祈雨の成功が決定的な実験であるとは必ずしもみなしていないのであり、祈雨に関する宗教的理法が上述のような単純な命題ではなく、複雑な命題であることが示されている。
 これらの事例は、事実の生起に関して宗教的真理、宗教的理法、神的約束に基づく予言が可能であり、その予言の成就は事実によって判定されうると考えられていることを示している。宗教的祈りと薪の発火や降雨との間にある種の因果関係を想定することは、現代の自然科学の因果理論においては容認されていない。しかし、そのような自然科学の因果理論の成立を承認していない人々にとっては、それとは異なった因果理論を持つことも可能である。
 自然科学の因果理論においては、方法論的唯物論を採用しているために、精神、心の動きが物の動きに因果的影響を与えることは認められない。しかし、日常生活における因果理論では、心の動きである意志がその人の身体を動かすことは承認されており、その意味では方法論的唯物論を採用する自然科学の因果理論のみが因果理論として成立するわけではない。(意志的行為を因果理論の枠組みで理解することには哲学的に多くの問題が含まれているが、今はフォークサイコロジー(日常的心身二元論)が文化のなかで多数説であると私は考えている。)宗教的祈り、儀礼、行為が、さまざまな出来事に対して因果的影響を与えることを承認することは人類の歴史に現れたさまざまな文化の中ではよく見られることであり、一概にそのような因果関係の存在を否定することもできない。
 通常の自然科学とは異なった独特の因果理論を前提とした宗教的真理、宗教的理法、神的約束に基づく予言は、未来の事実に関して、何らかの予測を行うことであり、その点では宗教言語の認知的使用の例と見ることができる。

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