以上の考察によって宗教的テキストにおいては、ある宗教的事実が記述されたり、ある宗教的出来事が予言されたりしているような宗教言語の認知的使用があることは明らかである。長い間信仰共同体において、宗教的テキストに記述されていることが宗教的事実であり、また宗教的予言が実現されたことも事実であると信じられ続けてきたことも明らかである。
例えばパスカルはキリスト教が真理を述べ伝えていることを証明するために書いた『パンセ』において、旧約聖書の「モ−セ五書」の歴史的価値を論じている。そこでパスカルは、紀元前十六世紀頃にモ−セが書いた「モ−セ五書」は、モ−セがそれ以前の各時代の実際の目撃者たちによって代々語り伝えられてきた歴史的事実をそのまま記録し、編集したものであると見做して、議論を進めている。そのようなパスカルにしてみれば、旧約聖書の「創世記」に記述された天地創造も大洪水も歴史的事実であり(パスカル §296)、キリスト教を信仰するということは聖書に記述されたことが歴史的事実であると信じることも含むと考えられていた。
ところが現代の宗教哲学者や神学者の中には、宗教言語の認知的機能を否定しようとする傾向があることも知られている。その理由の一つは宗教的テキストが記述していることが事実であると主張することが困難であるということの自覚から生じてきている。
特に生物進化論や宇宙進化論の見解は「創世記」のさまざまな記述とは矛盾すると考えられ、「創世記」が事実を記述しているという主張は、少なくとも自然科学的教育を受けた人々にとっては受け入れられなくなってきた。その結果生じたのは、自然科学の研究領域と宗教の関与する領域の分断という休戦協定である。カトリック系の上智大学で哲学を担当していたアルムブルスタ−は、物理学者ハイゼンベルグが聖書の天地創造の話しと現代物理学は両立するのかという質問に対して「あなたはまだ聖書を自然科学の教科書と見做しているわけですね。私どもは聖書を宗教書として読んでいますけど…」と答えたエピソ−ドを紹介して、そのことを述べている(アルムブルスタ− p. 143)。
これと同じ考えはカトリックの哲学者岩下壯一も『カトリックの信仰』で「旧約聖書は宗教上の聖典であって、科学的著述ではない」(岩下 p. 172)と述べる。岩下は「キリスト教国において起こった科学と宗教との衝突の一半の責任は、偏狭なる神学者にもあること、特に聖書一点張りで、これをなんでも文字通りに解釈せねば承知のできぬ宗教家等や、教養なき一般信徒の意識せざる頑迷等に基づくことが挙げられねばならぬ」(同 p. 169)と述べて、聖書の記述を文字通りに解釈することの危険性を指摘する。
その上で岩下は聖書の「創世記」の記述について「この書の趣意は、天地万物が唯一神ヤ−ヴェによって作られ、人は神に対して他の被造物とは異なれる特殊の関係に立つが故に、当然特殊の義務を有することを教うるにあって、天地形成の天文学的、地質学的乃至は生物学的階梯順序を説明せんためではなかった」(同)と述べて、「創世記」の記述が自然形成の学問的説明を目的としていないことを指摘する。そして岩下は自然科学的研究について「自然科学者は、各自己の諸分科の領域内にある問題について、なんら聖書の記事によって拘束されることなく、研究して学説を立てる絶対の自由を保有するのは当然であると共に、自己の主張を聖書によって裏書きせんとするは極めて愚かなことである」(同 p. 174)と述べて、自然科学的研究と聖書の記述との分断を気前良く認める。
しかし自然科学と聖書の記述との分断はカトリック教会において異端とされたモデルニスムを生み出すが、それに関しては稲垣良典は「二十世紀前半のカトリシズムにとっての最大の思想的危機を生みだしたモデルニズムは、…宗教的真理に関しては不可知論の立場をとり、宗教を主観的な心情の内部に閉じこめた。それは裏からいえば、客観的な実在世界の探求をもっぱら科学にまかせるということであり、理性を科学的理性と同一視することである。…科学と宗教とはいわばべつべつの王国において主権を保持すべきものとされている。これは一見したところ魅惑的な解決のようであるが、じっさいは問題の回避であり、最終的には科学的研究と宗教的信仰の両者を不毛に終わらせるものである」(稲垣 p, 23)と科学と宗教との休戦の危険性について述べている。
自然科学的研究を尊重し、一度聖書のある部分の記述を事実に関する記述から切り離してしまえば、聖書全体の記述が事実から切り離される危険が生じる。単に「創世記」の天地創造の記述が超時間的な創造という出来事を述べていて、時間内の事実とは無関係だと認めることにとどまらず、「創世記」に記述されているアダムから始まるイスラエルの歴史も事実から切り離されるようになる。
岩下は「神は人類に罪の罰と救いの必要を痛感せしむるために、救世主をば直に遣し給わなかった。この数千年の救いの成就するまでの準備の時代が、イエズス・キリストの福音による永遠の生命の新しき約束の時代に対して、旧約時代と呼ばれ、その歴史は旧約聖書中の歴史書に物語られている。」(岩下 p. 278)と述べて、パスカル同様に旧約聖書の記述が人類の歴史的事実の記述であるかのように考えている。このような解釈は例えば信仰的には岩下と対立していたプロテスタントの内村鑑三も「人類の歴史的生命またわずかに六千年に過ぎない」(内村全集13 p. 51)と述べて共有している。
しかし今日において旧約聖書が人類の歴史的出来事を記述していると解釈することは相当困難である。パスカルの時代においても「創世記」に記述された大洪水の後に「箱舟から出たノアの息子は、セム、ハム、ヤフェトであった。…この三人がノアの息子で、全世界の人々は彼らから出て広がったのである」(創世記 9・18)と記述されていることが事実であるかどうか、疑問視されていた。その記述は中国の歴史書の記述と矛盾したからであった(宮田1 p. 250)。その当時と比較しても今日では人類の歴史に関する考古学的研究は進み、大洪水が生じたとされる紀元前二千数百年前より以前に、中国に古代文明があったことが歴史学における通説となっている。
あるいはまた鎌倉仏教においても、その当時の多くの僧侶は、仏教経典が釈迦によって説かれたと考え、また平安後期に釈迦滅後二千年を経過して末法の時代に入ったと信じていた。そのような時代意識、経典意識によって、鎌倉仏教の師祖たちは独自の仏教理解を展開し、新しい仏教運動を展開していった。しかし今日では釈迦の死亡年代に関しては、当時の理解とは大きく異なり、また経典の大部分が釈迦滅後に、編纂、さらには創作されたと仏教学的には考えられている。また末法に関して記述した経典は大部分、中国において作成されたという研究がなされ、仏教においても、学問的研究の発達の結果、その宗教的テキストが事実に関して正しいことを記述しているという考えは維持できなくなってきている。
さて旧約聖書の一部は人類の歴史的事実を記述している可能性は十分あるが、一部はそうではないということになると、旧約聖書の解釈の仕方が学問の発達によって変更を余儀なくされていくことになる。このような学問の発達の宗教的テキストの解釈への影響ということは、科学と宗教との休戦協定を受け入れることが、宗教にとってはかなり不利な状況をもたらすことを示している。
その現れはキリスト教にとって最も重要な教義の一つであるイエスの復活という問題にも、それは事実とは無関係なことではないかという疑念を引き起こしたということにある。岩下は「自らはカトリック教会の信者だと称する近代主義者(モデルニスト)が、いわゆる『信仰のキリスト』と『歴史のキリスト』とを対立せしめて、歴史的にはキリストは単なる人間に過ぎず、この歴史的人物を神格化したのは、初代信徒の情熱的瞑想の作為だと主張するのは、結局キリスト教全部を何ら客観的現実に基礎を有せざる宗教的想像に帰するもので、教会から異端として排斥されたのは当然の運命である」(岩下 p. 339)と述べて、復活の事実性を否定するモデルニスムを厳しく批判する。
しかし復活がどのような事実であるのかに関しては、テキストにおける記述も多様であり、その統一的な解釈は容易ではない。復活に関しては、既に述べたルカの福音書においては肉体的復活として記述されていたが、マタイの福音書の中には別の記述もある。そこでは「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そしてイエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」(マタイ 28・16)となっている。それに関して前田護郎は「復活は疑いうる性質のもの、すなわち信仰の次元のもので、物理的生理的現象と同一視すべきではない」(前田 p. 362)という注釈を加え、肉体的復活を可疑的なものとし、復活は誰もが認識できる物理的生理的現象という意味での歴史的事実ではないことを認める。
また前田は復活についてのマルコの福音書の記述、すなわち「イエスが別の姿で御自身を現された。」(マルコ 16・12)に対して「パウロのいう霊の体。復活体は信仰の次元で把握しうるもの。直接物理的生理的現象ではないが、信徒のはたらきにおいて物理的生理的な姿をとる」(前田 p. 397)という注釈を加えている。この注釈は非信仰者にとっては復活は歴史的事実とは見なされないが、信仰者にとっては歴史的事実と見なされるという歴史的事実に関する信仰者と非信仰者の二重基準説を採用しているようにも思われる。あるいは別の解釈をとれば、信仰者の信仰体験においては復活が歴史的事実として少なくとも主観的には体験されたのであり、つまり復活をノエマ(体験内容)とする信仰体験というノエシス(体験の作用)は心的ではあっても歴史的事実であったとも主張しているとも解釈されうる。
このような復活についての多様な解釈に対して、岩下は復活は原始教会の根本信条であり、死後3日目に弟子たちに出現したことは事実であり、それが単なる心理的錯覚でないことを強調して、「弟子たちが復活せる師を見たという意味が、肉における主を見奉ったという事実を指しているのは到底動かし得ぬ以上、それをその他の意味にいか様に説明しようとも、いずれも独断的な推察たるを免れ得ないのである」(同 p. 586)と述べて、肉体的復活が客観的事実であることを主張する。
しかし岩下はパウロが述べている霊の体としての復活ということには言及しない。パウロは復活について「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえみなされます。」(コリント1 15・13)と述べて、キリストの復活の重要性を強調する。そして復活が事実であることを「聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れ…次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。…最後に…私にも現れました」(同 15・4)と述べて、自分がその証人であることを宣言する。
したがってパウロは復活したキリストに出会ったのであるが、その体験の仕方は、復活したキリストを肉体的に見た仕方とは異なっていた。パウロの体験については「使徒言行録」に「サウロ(パウロ)が旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった」(使徒言行録 9・3)と記述されている。
パウロはイエスと自称する声を聞いたが、その姿を見なかったことが、ここでは示されているが、そのためか、パウロは復活に関して肉体的復活ではなく、霊の体の復活であるという別の見解を持っている。パウロは復活の体を説明するにあたって、天上の体と地上の体、霊の体と自然の命の体、朽ちない体と朽ちる体という区別を導入し、「わたしはあなたがたに神秘を告げます。…わたしちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」(コリント1 15・51)と述べる。ここでは肉の体の復活というルカの福音書の記述は否定され、復活は霊の体として復活することが強調されている。
もっともこの記述に関しては、霊の体は肉の体を否定するものではなく、肉の体を持つことが事実的出来事であるように、霊の体を持つことも事実的出来事であるかのようにも解釈できる。つまりここで、パウロが出会った復活したイエスの体が見えなかったように、霊の体は肉の体と異なって目で見えるものではないことが暗示されている。したがって地上における事実と神の国における事実とは異なった種類に属し、復活とは地上における事実ではなく、神の国における事実であるという事実についての二重基準説を採用しているように思われる。
ちなみにカトリックの「公教要理」には「113 イエズス・キリストはどのように蘇り給うたか。イエズス・キリストは御自分の能力で御霊魂を再び御肉体に合せ、入口の石をとらずに墓より出で給うた。」(岩下 p. 599)とあるように、肉体の復活を伴うというのが伝統的解釈であり、パウロの霊の体の復活というのは正式の教義にはなっていない。
八木誠一はパウロ書簡を根拠にして「キリスト顕現は外的な事件や幻視幻聴ではありえず、『私は死んで私の中にキリストが生きる』としか言いあらわしようのない出来事なのである」(八木 p. 162)と述べて、イエスの弟子たちの宗教的回心という出来事が、弟子たち自身によって、イエスの復活として表現されたという解釈を取り、イエスの肉体的復活という議論を退ける。また荒井献は文献学的研究の成果として「伝承の最古層にはイエスの復活信仰は未だ明確な形で現れていない」(荒井 p. 208)と述べて、歴史としてのイエスとキリストとしてのイエスとを区別することを主張する。
以上のような議論は、復活というキリスト教の根本教義に関して、それは事実であったのか、またもしそれが事実であるとすれば、一体どのような事実であったのかということに関して、信頼すべき根本資料である新約聖書においても見解が異なっていることを示している。イエスの復活があったとされる時代から遠く離れた現代において、この復活をどのように解釈するかは、極めて困難な問題の一つであり、神学者、宗教哲学者の中には、カトリックの「公教要理」のようには理解しないで、パウロのように理解したり、あるいはモデルニストのように理解したりすることもある。これらの解釈の多様は、新約聖書に対する学問的研究が根本教義の解釈にも影響を与え、伝統的解釈をそのまま維持することが困難であるということを示している。
これらの諸問題はあるが、これらの解釈は福音書の叙述をイエスという歴史的個体に生じた事実に関する報告であると見なす点では共通している。しかしこの考えに対して、例えばブルトマンは「史料が私達に与えるものは、実際さしあたりは教団の宣教なのである。ただし教団は勿論それを大部分イエスに帰している。だからと言って、教団がイエスに語らせる言葉は、皆実際彼の語ったものであるということが証明されたことには勿論ならない。多くの言葉については、むしろ教団で初めて成立したこと、他の言葉については、教団の手が加わっていることが証明される。…教団が、イエスとその宣教の姿をどの程度まで客観的に忠実に保存したかというのは、また別の問題である。」(ブルトマン 『イエス』 p. 16)と述べて、福音書は事実に関する報告ではなく、むしろ教団の信仰する教義を物語の形式で叙述しているという考えを提出する。
もちろんこの考えは物語だからつまらない架空の作り話だという主張ではなく、歴史的事実の中の重要な意味を取り出し、それを物語の形式で語るという主張であり、事実との関係はそれなりに保存されている。しかし重点は、事実を客観的に記述するということは、福音書記者の意図にはなかったのであり、宗教的に重要な意味を持つ出来事を宗教的な観点から叙述するということにあったことを、指摘することにある。だから復活という出来事が、宗教的意味を除外して、どのような事実であったのかと、福音書を資料にして問うことは方法論的に誤りであるということになる。このような考えは、宗教的テキストを事実に関して述べたものであると考えて認知的使用として解釈することを拒否するものである。
このように学問的研究が根本教義に対して影響を与えるということは、仏教に関しても同様に当て嵌まる。かっては仏教とは、釈迦が説いた教えであるということは自明なものとして前提されていたが、今日においては、多くの経典の中で、釈迦自身に帰することができるものはほとんどない。特に大乗経典に関しては釈迦滅後数百年経過してから編纂されたものであり、大乗経典が釈迦の説いた教えであるという前提で宗教的救済に関する議論をなすことは、説得力のない議論となっている。
またそのような経典において述べられていることは、事実に関して何かを伝えようとする意図があるのかどうかも疑問視させるような経典も多い。むしろ多くの経典は神話的な表現により、ある重要な宗教的メッセ−ジを伝える意図によって作成されたと考えるほうが、理解しやすいであろう。そのように考えれば、大乗仏教においては、大乗経典が事実に関して何かを記述するという認知的使用をしているとは言えないのであり、大乗経典を事実に関する何らかの記述と見做すということは、根本的誤解であるだろう。