次ぎに宗教的真理、宗教的理法、神的約束に基づく予言に関する諸問題を考察してみよう。既に見たように旧約聖書のエリヤの発言や日蓮の発言は宗教的意味を帯びた予言をなし、予言された将来の出来事の成就により、ある宗教的真理を決定しようとしたと見做すことができる。この場合はその宗教的予言は、経験的仮説に基づく将来の出来事の予測と同様の機能を持つとみなすことができる(Ferre p. 336)。
しかし現代においてこれらと同じ考えで宗教的予言をなす者はそれほど多くはない。それは第一にはそれらの予言が外れた場合のリアクションが大きいということがあり、その危険を犯してまでも予言をしようという宗教者がそれほど多くはないということがあるだろう。したがってある種の宗教的予言をする場合でも、エリヤや日蓮のように特定の時間に特定の出来事が起こることを予言することは避け、その予言が決定的に反証されないような形で曖昧な予言をするようになる。そうなると宗教的予言をはたして経験的仮説に基づく予言と同様に考えてよいかは問題になる。
第二にはそもそも宗教的真理、宗教的理法、神的約束に基づきどのような予言ができるのかということに関して意見が一致していないという問題もある。この考えは宗教的予言が事実において検証されるという考え自体を否定するようになる。以下においてこのことを詳しく検討してみよう。
まず最初に宗教的予言が経験的仮説に基づく予言と同様な機能を持つことはあるにしても、両者を同じに考えてよいかどうかということを検討してみよう。経験的仮説は、仮説であるという条件、つまり経験される実際の出来事によって許容されるかぎりで成立するという条件をともなっている。経験的仮説に基づく予言は、将来生じる実際の出来事が、その予言と異なっていれば、場合によってはその仮説は誤りであると判定されるかもしれず、その場合はその仮説を捨てるという暗黙の承認をともなう。
現在においても天気予報のようにあまり信頼をおけない経験的仮説に基づく予言もあれば、ある程度信頼のおける天体運動理論に基づく日食に関する予言など、さまざまな予言がある。その予言が1回でも外れたら、その仮説は偽であると判定されるわけではないが、その外れたことに関する合理的説明ができなければ、その経験的仮説に関する信頼が低下し、場合によってはその仮説が捨てられるのはやむを得ない。
しかし、宗教的予言をする人が、自分の予言が外れる場合には、自分の主張が全く誤りであるということを認める用意があるかどうかは疑わしい。むしろ宗教的予言をなす人は、その宗教的真理を全く確信しているから、その宗教的真理に基づく予言の外れる可能性を全く予想しないだろう。つまり宗教的予言には、宗教的祈りが予言されるある出来事の原因として想定されており、その祈りが真剣であるなら、その予言される出来事が生じないかもしれないと考えることを排除するだろう。
また、たとえその予言が外れたとしても、その宗教的真理を動揺させないように、その理由を他の要因に求めるだろう。つまり予言された出来事が生じなかったのは、その宗教的真理が誤っているからではなく、宗教的祈りが真剣でなかったからだというような理由が求められる。このような自分の予言が基づく宗教的真理が偽となる可能性を認めないような宗教的予言という言語行為は、経験的仮説に基づく予言という言語行為とは異なる。これは宗教的信仰(faith)と仮説的信念(belief)との相違に関係する(Price p. 9)。
さらに経験的仮説はその仮説を反証する特定の経験の存在を承認する必要があるという議論がある。例えば天気予報がいくら信頼性が低いからといっても、ある程度には十分信頼することはできる。雪が降るためには上空の気温が一定温度以下になる必要があり、それに基づいて降雪予報をするのであり、上空の気温が高いのに雪が降れば、天気予報のための経験的仮説を全く変更する必要が生じる。
この議論は、ポパ−の反証可能性の議論であるが、フリュ−はそれを宗教哲学に応用して「神学と反証可能性」において、「洗練された宗教的な人々が『結局神は存在しなかった』『神は実際にはわれわれを愛していない』と認めるための十分な理由であると承認するような出来事はないのではないかと、非宗教的な人々は思っている」(Flew P. 15)と述べて、宗教的予言をなす人がある特定の出来事がその予言の基づく宗教的真理に対して決定的な反証であると認める仕方で、予言をするのではないということを指摘する。
例えば新約聖書にはイエスが悪魔から神の子であることを示す奇跡を見せるように誘惑を受けたときに、「神である主を試してはならない」(マタイ 4・7)と答えたと記述しているが、この考えは宗教的真理を検証したり、反証したりすることを、宗教的権威をもって拒否するものである。あるいは仏教においても三世の因果の存在を認めることにより、今世の出来事の原因を過去世の出来事に求め、仏教的因果の検証可能性を原理的に拒否することもある(宮田2 p. 70)。
宗教的予言にはさまざまなものがあるが、新約聖書には神の子であるイエス自身によるいくつかの予言があるが、その中にはイエスの死と復活の予言や、ペトロの離反の予言のように、特定の時に特定の出来事が生じることを予言する場合もあれば、神殿の崩壊の予言や、神の国の到来もしくはイエスの再臨の予言のように、その特定の時を定めない予言もある。前者の予言は、時間的規定があるためにその予言された出来事の実現、もしくは非実現がある程度判断可能であり、新約聖書は前者の予言が成就されたことを記述している。
しかし後者のような予言は、時間的規定がないために判断が難しい。エルサレム神殿はイエスの死後ロ−マによって崩壊させられたため、予言が成就したと判断することはできる。しかし、イエスの再臨に関してはまだ実現していないが、時間的規定がないため、その予言が誤りであったということができる時はない。
ジョン・ヒックは「終末論的検証」という考えを提出し、キリスト教の終末の予言が、もし真であるなら、終末、つまりキリストの再臨という出来事によって検証可能であり、その点では経験的仮説に基づく予言と同様に検証可能であることを述べた(ヒック p. 222)。しかしヒックは、キリスト教の予言が偽となる条件について提示できなかったために、ヒックの終末論的検証という議論は多くの反論を受けた。
あるいは新約聖書にはイエスの死と復活を最初に予言する箇所に「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは、決して死なない者がいる。」(ルカ 9・21)という予言をイエスがなしたことが記述されている。この予言はイエスの持っていた終末観が切迫したものであったことをうかがわせるが、この予言をどう解釈するかは難しい。
最も厳格な解釈をとれば、「神の国を見る」ということが「神の国の到来を見る」ということと同義であり、それはまた後に通常理解されるように「イエスの再臨」ということを意味すると解釈することができる。そうするとイエスの予言が正しいとすれば、生前のイエスを見た人々の中には、イエスの再臨がまだ生じていない現在でも生きている者がいるということが論理的に帰結することになる。
しかしそのような帰結を受け入れることが困難である場合には、「神の国を見る」は神の国の到来の始まりである「イエスの復活を見る」ことであるという多少無理な解釈により、その予言の成就を主張することも可能であろう。
つまり宗教的予言は必ずしも一義的な解釈しか許容しないのではなく、多義的な解釈の余地があるのであるから、その予言が外れて、それが偽であるということを決定的に認めることが困難であるという問題を持っている。経験的仮説なら、それが偽であることを不承不承認めるようなことがあるかもしれないが、宗教的予言の場合は、それが基づく宗教的真理が偽となることを認めることはできるだけ避けようとするのであり、そのために予言自体を曖昧にしておくということが生じるのである。
次ぎに宗教的予言が宗教的真理、宗教的理法、神的約束とどう関係するのかという第二の問題を検討してみよう。エリヤは祈りによって薪に火がつくかどうかにより、その祈りが正しい神への祈りか、偽の神への祈りか判定しようとした。エリヤは「火をもって答える神こそ神であるはずだ」と述べて、この予言が神的約束に基づく予言ではなく、自分の確信として述べている。さいわい人々もエリヤの考えに賛同したから、その予言された出来事によって、人々は神を選択したから、エリヤの予言は有意味になった。
しかし祈りによって火がつくことが、どうして正しい神への祈りであると決定することができる理由になるのだろうか。もし人間には念力、サイコキネシスという特殊な能力があり、その念力が強ければ、薪に火を付けることができるという仮説があったとすれば、正しい神への祈りであろうと、邪悪な鬼神への祈りであろうと、祈り、念力が強ければ火が付くということになり、神選択の基準とするというエリヤの考えは成立しないことになる。
あるいはそもそも祈りによって薪に火がつくということはありえない、火がつくのは何かトリックによるのであり、そのようなトリックを使う宗教は悪い宗教に違いないという仮説が信じられている人々には、エリヤの祈りが予言通りの出来事をもたらしたとすると、エリヤの期待とは全く逆の事態が生じるだろう。
これは日蓮の祈雨の事例にも適用できる。祈雨の成功、失敗と、その信仰する仏教が正しい信仰であるのか、邪な信仰であるのかということが、関係あるということが、承認されていなければ、たとえ祈雨が成功しても、失敗しても、信仰の正邪の判定とは無関係である。日蓮はいくつかの経典を引用して、祈雨が失敗するのは、信仰が邪であるからだということを論証し、祈雨の失敗にもかかわらず、自己の信仰の誤りを認めない良観を大悪人と批判し、またその良観に従う弟子檀那を無知であると批判する。その経典に宗教的権威があるということが一般に承認されていれば、日蓮の主張は適切なものであり、その経典の宗教的権威を承認しない良観は、ある種の一般的に承認されている宗教的ル−ルを破ったということができるだろう。
しかしながらその当時その種の経典にどれほどの宗教的権威が承認されていたのかは不明であり、そのような経典を根拠にしてある種の宗教的予言をするということが、適切な宗教的ル−ルであったのどうかはわからない。神仏習合の鎌倉時代にあっては、多くの神仏が霊験を競いあい、祈雨が成功しても信仰が正しいからではなく、霊験がある、宗教的呪術能力があるというを意味するだけであるという解釈をなされた可能性もある。日蓮の仏教的議論の特徴に経典重視ということがあるが、そのような経典に宗教的権威を置いて、議論をするという考え自体が当然の宗教的ル−ルであったのかどうかは問題にされうる。
これらのことは宗教的予言ということが宗教的に有意味であるためには、ある特殊な因果理論や宗教的ル−ルの承認を前提としなければならず、その特殊な前提とされる因果理論は必ずしも普遍的な妥当性を持たないということを示している。現代においてどのような因果理論がある程度普遍的な妥当性を持つのかということは議論の余地があるが、とりあえず知覚的経験に関する知識や自然科学的知識に基づく因果理論には普遍的な妥当性があるとすれば、それらと異なる因果理論を前提とする議論は、そのような因果理論を前提としない多くの人々にとっては説得力を持たないのである。その意味で宗教的予言という考え方自体が説得力を失いつつあると多くの宗教哲学者たちは考えている。
しかしながらこのことは宗教的祈りや儀礼、行為が自然的出来事と全く無関係であるという議論を帰結するわけではない。宗教的祈りによって発火や降雨という物理的現象が生じるという特殊な宗教的因果理論は一般に承認されにくいが、宗教的祈りによりある種の病気が快癒したり、人生の幸運がもたらされたりするという宗教的因果理論はそれに比べれば承認されやすい。(それは現在でも支配的なフォークサイコロジーと整合的であることによる。)
その背景には現代医学の見解では、精神的ストレスが身体の状態に大きく影響を与えることが承認されており、その意味では身体に関しては方法論的唯物論の因果理論は説得性を持っていないということがあるし、人生の幸運という問題に関して自然科学は何の理論ももっていないということもある。
結局のところ現在までの自然科学は人間や動物の精神的状態が身体的状態とどのような因果関係にあるかについては完全に解明しているわけではない。したがって宗教的祈り、儀礼、行為を通じて精神的、身体的病気が快癒するということが、自然法則に反した奇跡的出来事なのか、それともまだわれわれには知られていない新しい種類の自然法則に則ったごく当たり前の因果的出来事なのか、それを判断することができる状況にはなっていない(Swinburne p. 235)。
したがって従来は宗教的奇跡として見られていたある種の分野においては、自然科学的因果理論とは異なった特殊な宗教的因果理論を前提とする宗教的予言も、成立するかもしれず、そのような分野に関して宗教言語を認知的に使用することの可能性は否定できない。またそのような出来事を非宗教的言語で完全に記述できるという見通しも立っているわけではない。その意味で宗教言語の認知的使用を誤用だとする現代の一部の宗教哲学者の見解が説得力を持っているとは思われない。
『聖書』 新共同訳 日本聖書協会
『日蓮大聖人御書全集』 大石寺版 『創』と略記
『昭和定本日蓮聖人遺文』身延山久遠寺 『定』と略記
パスカル 『パンセ』 田辺保訳 『パスカル著作集IV』 教文館
アルムブルスタ− 「科学時代に似合った宗教心を求めて」 大森莊蔵編『科学と宗教』 放送大学教育振興会所収
岩下壯一 『カトリックの信仰』 講談社学術文庫
宮田幸一1 「パスカルのキリスト教弁証論の構造と諸問題」 『東洋哲学研究所紀要』第7号 (『牧口常三郎はカントを超えたか』第三文明社に収録)
宮田幸一2 「宗教の価値科学的研究の可能性とその意義」 『東洋学術研究』第33巻第2号 (『牧口常三郎はカントを超えたか』第三文明社に収録)
内村鑑三 『内村鑑三信仰著作全集』第13巻 教文館
前田護郎 『世界の名著 聖書』 中央公論社
ブルトマン 『イエス』 川端純四郎、八木誠一訳 未来社
八木誠一 『キリストとイエス』 講談社現代新書
荒井献 『イエスとその時代』 岩波新書
Ferre Frederick Ferre, Basic Modern Philosophy of Religion. London;George Allen & Unwin,1968.
Price H.H.Price, 'Faith and Belief', in Faith and the Philosophers ed. by John Hick.London; Macmillan, 1964.
Flew Antony Flew, 'Theology and Falsification', in The Philosophy of Religion, ed by B. Mitchel. Oxford; Oxford University Press,1971
ヒック 『宗教の哲学』 間瀬啓允、稲垣久和訳 勁草書房
稲垣良典 『現代カトリシズムの思想』 岩波新書
Swinburne R.Swinburne,The Existence of God.Oxford; Clarendon Press,1991