1994年に、長年オクスフォードでキリスト教哲学を担当してきたR.スウィンバーンの還暦記念論文集『理性とキリスト教』が出版されたが、その中でスウィンバーンが「知的自叙伝」として、1950年代のオクスフォードの雰囲気と自分の宗教哲学への動機について大要次のように証言している。
1954年オクスフォードの大学院生になったとき、キリスト教徒になった。
当時の世界観は、知識人の間では、反キリスト教的であり、唯物論が科学的とされて好まれていた。神が人間イエスに受肉したという個体化の秘蹟は文字通りのスキャンダル、ばかげたこととみなされた。進歩への信頼があり、それはキリスト教を捨てることであった。私の本能はキリスト教を好んだ。
しかし教会が現代の世界観の主張や議論をまじめに受け取ろうとしないことに驚いた。説教は現代科学、倫理学、哲学と無関係であり、宗教は「信仰」の出来事であるということを強調するだけであった。説教師はなぜ信仰の飛躍をしなければならないのか説明できなかった。
その怠惰な無関心の背景には、理性はキリスト教的神学体系の基礎付けには役立たないという神学的態度があった。当時の最も影響のあった神学者はカール・バルトであったが、かれを含むドイツの神学者は200年前からの大陸哲学、つまりヘーゲル、ニーチェ、ハイデッガー、サルトルを信奉していた。しかし彼らの議論は杜撰であると英米哲学者は感じていた。彼らは哲学を科学よりも文学に近いものと考えていた。さらにキルケゴールの世界観の選択は理性的な事柄でないという見解も影響が強かった。
形而上学的問題は1950年代のオクスフォードでは奇妙な立場にあった。英米哲学ではヒュームの懐疑論が論理実証主義を生み出し、唯一の実在するものは、目に見えるものなどであり、知識は感覚されるものに限定すべきだという見解が強かった。この観点は「有意味な命題は観察によって検証できるものに限る」という検証原理によって体系化された。検証主義者は神に関する命題は偽ではなく、無意味であるとした。
オクスフォードでは論理実証主義の影響のために、哲学者はその仕事を言葉が日常的に意味するものを教えること、無意味な哲学的命題を語るのを避けることを教えることに限定した。「創造する」の日常的意味を知れば、「神が世界を創造する」という無意味な使用を避けることができる。オクスフォードの日常言語学派の教祖はJ.L.オースティンだった。彼の授業に参加できて、幸運だと思っている。日常言語の微妙さ、言葉の日常的意味から始めることの重要さを学んだ。形而上学的言語は日常言語から出発し、説明されるべきである。日常言語学派は日常言語を越えたものには共感を示さなかった。議論の明晰さと徹底性を教えた。その点ではオクスフォードの哲学を評価している。しかし検証原理を信じる理由はないと思った。「検証」を「決定的な検証」ではなく、「証拠や議論によって確証される、支持されること」と考えれば、キリスト教の有神論を含む形而上学理論も検証可能であり、有意味であることになるのではないか。
1950年代のオクスフォードの哲学のドグマは嫌いだったが、明晰さと厳密さの道具としては好きだった。その道具をキリスト教の神学に使えると思った。それが私の使命と思った。アングリカンの説教師になろうとしたが、そのかわりに職業的哲学者になった。
(Swinburne p. 1〜4)
スウィンバーンは、論理実証主義の影響が、1936年のエイヤーの『言語、真理、論理』の出版以後、表面的にはその影響が消えたかに見えた1950年代のオクスフォードの日常言語学派にまで及んでいたことを述べている。スウィンバーンの理論科学と調和的な自然神学の形成については、別の機会に述べる予定であるが、とりあえず今回は論理実証主義の議論が宗教哲学に対して与えた影響について見てみよう。
エイヤーは『言語、真理、論理』の「第1章 形而上学の除去」において、哲学が超越的な実在の知識を与えるという形而上学のテーゼを論駁し、形而上学者が言語の有意味な使用を支配する規則に違反していると非難し、事実に関する言明の有意味性をテストする規準として検証可能性を提案し、事実に関する言明が真正であるためには、その言明の真偽の決定に対して可能な観察が関連していなければならないという検証原理を述べ、形而上学的命題はトートロジーも経験的仮説も表現しない命題であり、真偽の規準とは無関係な無意味な命題であると主張した。
このような形而上学批判をした後でエイヤーは「第6章 倫理学と神学の批判」において、倫理的な価値の主張は科学的ではなくて、情緒的であり、それ故真でも偽でもないと述べ、その意味では形而上学の主張と同じ部類に属することを主張する。次いで超越的な神の存在証明が不可能であり、また神が存在しそうだということの証明も不可能であり、超越的な神が存在するという主張は形而上学的な主張であり、それ故文字通りには有意味ではないとする。
エイヤーはこの主張は通常の意味での無神論や不可知論を主張するものではないとしているが、実際にはスウィンバーンが述べているように、宗教的主張が事実について何も述べていない、ナンセンスな主張であると受け取られたのである。宗教的主張が真偽にかかわらないならば、真偽にかかわる科学的命題と論理的に矛盾することもない。そして神学者が、神は人間の理解を超えており、信仰の対象であっても、理性の対象ではないと主張するときには、エイヤー自身の主張と整合する。
このエイヤーの『言語、真理、論理』における主張は、事実の世界と価値の世界との二分法を前提とし、科学は事実にかかわり、宗教は価値にかかわり、両者は無関係であるという休戦協定の主張である。この休戦協定が宗教にとって不利であることは前回述べたが、この二分法はその後も多くの人によって主張され続けた。
ジョン・ウィズダムは『神』という論文で、「神の実在のような説明的仮説が、初めは経験的なものとされながらも、次第に経験的ではなくなる過程を示す」(Wisdom p. 154)ために有名な庭師のたとえを述べながら、有神論者と無神論者はともに「態度の表明」(同 p. 156)をしているのであり、事実に関する言明をしているのではないと主張した。ウィズダムは神の実在について主張する人と、それを否定する人との相違を、絵画や自然の風景を見て、「それは美しい」と言う人と、「そこには美しさは見えない」と言う人との相違として、説明した。
アントニー・フリューは「神学と反証」と題したシンポジウムで、ウィズダムの『神』を引用しつつ、神の存在は証明可能ではないばかりではなく、また反証可能でもないことを次のように述べる。神は父が子を愛するように人々を愛するというが、子どもが不治の病で苦しんでいるとき、地上の父は子を助けるために狂ったように努力するが、天の神は気にしていることの明確な徴を示すことはない。神の愛は人間の愛とは異なり、計り知れない愛であるという正当化がされ、その苦しみと神の愛との両立が主張されたとしても、その神の愛を保証することは、何の役に立つのか、と問う。そして神は人々を愛していない、あるいは神は存在しないということを主張するためには、どのようなことが生じなければならないのかという神の愛、あるいは神の存在への反証可能性の条件が示されない限り、そのような主張は事実に関して何も主張していないと述べる(Flew p. 15)。
以上のような論理実証主義の影響を受けて、宗教的言明は事実に関しては何も主張しない言明であり、ある態度表明、感情表現であるという宗教言語の非認知的解釈が宗教哲学者の間では主流になったが、その流れの中で、後期ヴィトゲンシュタインの議論を援用しながら独特の議論をしているのが、D.Z.フィリップスを代表とするいわゆる「ヴィトゲンシュタイン的信仰主義」と呼ばれる宗教哲学者たちである。1993年にフィリップスの宗教哲学に関する論文集『ヴィトゲンシュタインと宗教』が出版されたが、同年カリフォルニアのクレアモント大学院で開催された第14回宗教哲学会で、フィリップスが同大学院の宗教哲学の教授に招聘されたことを記念して、上記の論文集を主題にした討論が行われた。その時の参加者の発表論文集『哲学と宗教的信念の文法』が1995年に出版されたので、この両者の論文集での議論をたどりながら、言語ゲーム論を使用した宗教哲学について考察してみたい。(ただし今回は諸般の事情でフィリップスの議論の紹介にとどめておく。)フィリップスの主張は1970年に発表した「宗教的信念と言語ゲーム」によくまとめられているので、そこでの議論を参照しつつ、彼の議論を見てみよう。
フィリップスは宗教的信念を表現する言語ゲームは、他の種類の言語ゲームとは明確に区別されており、他の種類の言語ゲームの規則によって、宗教的信念に関する言語ゲームの有意味性を判定することを、論理的文法的誤謬であると主張する。
しかしこの主張に対して、例えば、ロナルド・ヘップバーン、ジョン・ヒック、カイ・ニールセンなどの宗教哲学者は、宗教的言語ゲームが他の言語ゲームから切断されるという誤解を招く印象を与えると反論してきた。フィリップスはこれらの反論にもかかわらず、宗教的信念は独自の言語ゲームであるという立場を取る。
だがそう主張することによりいくつかの点で不安が生じることもフィリップスは認める。そのひとつの不安は、もし宗教的信念が独自の自足的な (self-sufficient)(より悪意のある翻訳をすれば「自己満足的な」)言語ゲームであるならば、なぜ人々が宗教的信念を育成すべきか説明するのが困難であるというものである。この見方では宗教的信念は、秘教的な(オタク的な)ゲーム、趣味のようなものになり、生活の他の場面ではほとんど意味がないものになる (Philipps p. 57)。
他の不安は、宗教的信念が可能な批判の外側に立ち、有意味性の宗教的規準が宗教的言語ゲームに内在的であることを主張することは、他の仕方では無意味であると見做されることの疑似正当化(quasi-justification)として働くというものである(同)。
宗教的信念を独自の言語ゲームとして見なすことはこれらの不安を生じさせ、しかもこの不安にはそれなりに正当な理由があることもフィリップスは認める。そしてこの不安を除く試みが宗教的信念の論理的文法に関して混乱をもたらすこともあるので、フィリップスはこの問題を慎重に検討する。
フィリップスを批判する宗教哲学者は、宗教的信念が自己満足的な秘教的なゲ−ムとなることを恐れて、宗教的信念が独自の言語ゲームであることを否定する。そして宗教的信念の重要性、有用性を示し、人々に神を信ずる理由を与えるべきだと彼らは考える。しかしフィリップスは宗教的信念の有用性に外的理由を与えることが、宗教的信念の論理的文法に関する誤解に基づくことを示そうとする。
まずフィリップスはウィトゲンシュタインの『倫理学講義』における絶対的価値判断と相対的価値判断(ウィトゲンシュタイン 5-384)との区別に言及する。ヴィトゲンシュタインは、「良い」「大事だ」などの言葉が相対的な意味で使用される場合と、倫理的あるいは絶対的意味で使用される場合とを区別する。相対的意味での使用とは、「この椅子はよい」とは、ある目的の達成(例えば安楽にする)に手段として適切であることを意味する。この場合、事情が異なればその判断も変わる。例えば安楽ではなく、仕事をするためには、同じ椅子が悪いと判断されたりする。
絶対的意味での使用とは次の例で示される。例えばテニスの下手な人が「自分が下手 (badly) なのは知っているが、もっと上手 (better) になりたいとは思わない」と言っても、人々は咎めない事例を挙げ、これは相対的価値判断を表現した言明であるとする。それに対してある人がひどい嘘をついたので、その人を非難した場合、その人が「自分が悪い (badly) ことをしたのは知っているが、もっと良い (better) ことをしたいとは思わない。」と言えば、人々は咎める事例を挙げ、これは絶対的価値判断を表現した言明であるとする(同)。
ウィトゲンシュタインは、相対的価値判断は単なる事実の叙述に過ぎず、価値判断としての外見を完全になくしてしまう形にすることができるが、絶対的価値判断についてはそうできないという点に両者の相違を見ている。例えば「この椅子はよい」は「この椅子は長時間座っていても疲れない」に書き換えることができる。しかし事実に関するどんな記述も倫理的判断、絶対的価値評価を含まないとウィトゲンシュタインは考える(この点では前期の『論理哲学論考』の事実と価値の二分法は変わっていない)。
フィリップスはこのウィトゲンシュタインの相対的価値判断と、絶対的価値判断との区別を理論的前提として、信仰に外的理由を与えることは宗教的信念を相対的価値判断と見なしているからであると主張する。例えば、「神は最強だから、神を信じなさい」という言明は、相対的価値判断である。この場合もし悪魔が最強なら、悪魔を信じるべきだという言明に変わりうる。つまり、神への信仰はより遠くの目的(力の獲得)の手段として考えられている。ここでは目的が重要で、手段は相対的に重要なだけである(Phillips 58)。
フィリップスはこの考えは多くの信者が持っている神への信仰の絶対的価値判断という性格を曲解していると考える。宗教的信念はこのような仕方で考えられるべきではなく、神の神聖さは外的な考察によっては正当化されないと主張する。ちょうど人になぜ善くあらねばならないか理由を与えることができないのと同様に、神を信ずるように述べて、相手が「信じないとどうなる」と聞かれて、何か答えがあるだろうかと、フィリップスは自問する。(筆者は有用性を重視する支配的な現代文化の影響のため、絶対的価値判断として信仰を持つ人と、宗教を幸福になるための手段であると考え、相対的価値判断として信仰を持つ人とが混在していると考えている。この点で多くの信者が絶対的価値判断をしているというフィリップスの主張は宗教社会学的な調査結果に基づく主張とは思われない。)
もし信じないと恐ろしいことが生じると言うことによって信じさせることはできないし、たとえ実際に恐ろしいことが生じ、それによって信じたとしても、その人は神を信じていることにはならないし、むしろ単に自分にとって最善のこと(=恐ろしいことを避けるための手段として神への信仰が有効であるということ)を信じているにすぎないとフィリップスは答える(同 59)。この場合その人は恐ろしいことを避けるための政策を持つかもしれないが、神への信仰を持つことにはならない。
(フィリップスは手段的信仰という現象を認めていないようだが、世界中で、多様な新宗教が生活上の効用、有用性を強く主張しているという現象はどのように説明されるのだろうか。信仰は絶対的価値判断であるというウィトゲンシュタイン、フィリップスの考えは説得力をまだ持っているのだろうか。牧口常三郎は、宗教が権威であった時代は終了し、生活の役に立たない宗教を人々が信じ続けることはないと明確に主張しているが、私も牧口の意見に共感している。宮田1参照)
さらにフィリップスは宗教的信念を相対的価値判断と考える場合と、絶対的価値判断と考える場合との相違を次の二つの信じ方の相違として示す。1、「神は最強の存在である。神を信じるべきだ。」この議論では力は世俗的力という唯一の概念しかなく、たまたま神は我々人間より力が強いだけだが、その力は同じ種類の力である。2、「多くの戦いがあり、時には悪が勝ち、善が負けることもある。しかし恐れる必要はない。なぜなら最後の勝利は神のものだから。」この議論では善と悪という観点で物事が考えられ、最終的に善が勝利するという信仰が表明されている。多くの信者にとっては、結果、出来事が、神が勝利するかどうかを決定するのではなく、神への信仰が、何が勝利と見做されるかを決定するのであるから、1の相対的価値判断と2の絶対的価値判断は混同することはできない。
そして1の相対的価値判断、すなわち出来事を世俗的に見る見方と、2の絶対的価値判断、すなわち出来事への宗教的反応との間には緊張が存在することを、フィリップスは次のように指摘する。多くの信者にとって、神の愛が、何が重要かを決定するのだから、信者が成功と見ることが世俗的な見方では失敗と見え、信者にとって喜び、勝利であることが、世俗的には悲しみ、敗北となることがあり、キリストの十字架がそのような事例であるとキリスト教徒は信じているとする。
(私はフィリップスのこの議論に説得力があるとは思えない。キリストの十字架もその後の復活という出来事によって、世俗的にも勝利とされるから、キリスト教の信仰が成立すると思われる。もし十字架のままで終わり、復活がなかったらキリスト教は成立するだろうか。復活が歴史的事実であるという主張にキリスト教がどれほど固執しているかは既に指摘した。また多くの信者にとっては、宗教が最終的世界観を決定するという考えをフィリップスはとっているが、私は世俗的世界観も信者に対して強力に影響を与えているとみなしている。)
宗教的信念に対して外的正当化を与えようとする宗教哲学者の試みは、宗教的信念の持つ絶対的価値判断としての性格を見失い、それを相対的価値判断として扱い、宗教的信念は他の世俗的目的を達成するために手段として有効であることを示そうとするものである。その場合、世俗的見方と宗教的見方との間の緊張は否定されてしまうが、そのことは宗教哲学者の宗教的信念についての説明は宗教的信念の本性を曲解していることを示しているとフィリップスは結論づける(同 60)。