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2ー3 宗教的信念の外的理解可能性について

 宗教的信念を独自の言語ゲームと見なすことを批判する宗教哲学者は、信者と非信者とに共通の理解可能性の規準によって、宗教的信念が妥当かどうか判断できるということを示そうとする。彼らは、信者も非信者も共通の理解可能性の規準を使用するのでなければ、宗教的信念を秘教的ゲ−ムと見なすことは避けられないと主張する。しかしフィリップスは信者と非信者に共通の理解可能性の規準があるという主張に対して疑問を投げかける。
 フィリップスはウィトゲンシュタインの『美学、心理学、宗教的信念に関する講義と会話』における、信者が信じていることを非信者が信じていないと言う場合、両者は矛盾しているのだろうかという問題提起(ウィトゲンシュタイン 10-225)を手がかりにして考察する。もし両者が矛盾しているなら、両者は共通の理解を共有し、同じゲームをしている。その場合、両者は事実については異なった見解を持つが、論理においては同一であり、不一致を解決するために同じ言語使用のルール、共通の理解可能性の規準に訴える。しかしヴィトゲンシュタインは両者が矛盾しているとは考えない(同 10-230)。
 フィリップスはそのことを示すために次のような考察に訴える。神の存在を信じることはユニコーンの存在を信じることとは違う。その違いの理由は神の実在はものの実在と同じ種類の実在ではないからだ。神は存在するもののひとつではなく、「神」という言葉はものの名前ではない。神の実在は、それ以外のものに適用される共通の方法によって評価されない(Phillips p. 62)。
 フィリップスは「神」という言葉が、ものの名前と共通の論理的文法に従わないという結論に対する理由として、次のような説明をする。何かがあると言うときには、そのものが存在しなくなるということは有意味である。しかし信者は神が存在しなくなると言うことを望まないが、その理由は神が永遠に存在するだろうと信者が考えるからではなく、神が存在しなくなると言うことは信者にとっては無意味だからだ。また神を信じないことは恐ろしいことだと信者は言うが、もし神を信じることがものの存在を信じることであるならば、そのものが存在しなくなると言うことがどうして恐ろしいことなのだろうか。
 (私は親しい家族がなくなると考えることが恐ろしいことだという経験的意識を持っている。しかも実際にそのことが生じて、私には世界が何か変わったように思われた。人間にはPTSDという精神的出来事が起こりうるのだから、信者の中に神の不在を恐ろしいこととみなす人がいることは容易に考えられうるが、それが大多数の信仰のあり方かどうかは宗教社会学的調査の結果を待つしかないだろう。「神」という言葉の論理的文法が変化しているのかもしれないということをフィリップスは感じていないのだろうか。)
   だが多くの宗教哲学者はこのような論理的文法的相違を、宗教的信念が言語使用に関して重大な過ちを犯している証拠だと見なしている。かれらは宗教的言述のいわゆる「論理的特殊性」を、われわれが慣れ親しんでいる非宗教的話し方の派生物、歪曲、誤用であると考える。この場合神の「実在」は「実在」一般についてのより広い理解可能性の規準に従うのであり、宗教的信念はそれを誤解していると彼らは言う。
 宗教哲学者がするように、もし宗教的信念が通常の理解可能性の規準によって判断されるならば、宗教的信念は誤り、歪曲、幻想、間違いであることが示される。だがこの結論は哲学的な深い偏見であるとフィリップスは考える。この偏見の一つの特徴は一般性への切望であり、ある脈絡で理解可能性の規準となるものは、すべての脈絡でも理解可能性の規準となると主張することにある。これは「実在」「信念」という言葉の用法がすべての脈絡で同一であると主張することであり、これらの言葉のひとつの用法をすべての用法の典型として不当に過大評価することである。フィリップスはウィトゲンシュタインの言語ゲーム論における家族的類似の考えは、「信念」「存在」という言葉が持つ異なった用法に注意し、一般性への切望に抵抗する考えだと指摘する(同 63)。
 一般性への切望がもつ重要な欠点の一つは、信念には証拠や理由がなければ何も信じられないと考えることである。しかし宗教的信念にいつも証拠や理由を尋ねることが有意味であるとは言えない。ウィトゲンシュタインは最後の審判について、それを信じるのにどんな証拠があるのかと尋ねる(ウィトゲンシュタイン 10-227)。
 ある場合には、最後の審判は生じたり、生じなかったりする未来の出来事としても考えられ得る(ヒックの終末論的検証理論はその事例だろう)。この場合、生じると信じる人も、生じないと信じる人も、論理的には同じレベルにあり、同じ言語ゲームをしている。すなわちかれらは未来への出来事に関する仮説への信念、半信半疑、不信などを表現しているのである。
 信者と非信者とが共通の言葉を使用し、それなりに共通の理解をすることをウィトゲンシュタインは「ある意味では、私は彼(信者)の言うことをみな理解する――『神』『審判』などの英語を私は理解する。私は『自分はこれを信じない』と言うことができようし、私がそうした考えや、それに結びついた何物も心に懐いていないという意味で、そのように言うことは真実であろう。しかし、私が当の物事に矛盾しうるということではないのである」(同 10-230)と限定付きで認めている。
 しかし宗教的信念は常に仮説と見なされるべきであろうか。ある人が病気になり、「これは罰だ。」と言い、他の人が「私も病気だが、罰とは思わない。」と言う場合、後者は罰と言う人と反対のことを信じているのではなく、全く別様に考えているのであり、ウィトゲンシュタインはそのことを両者は別の像を持っていると表現する(同 10-229)。後者は、前者の発言を否定して、病気は罰ではなく、功徳であると述べているのではなく、病気は罰とは無関係であると主張しているのである。ウィトゲンシュタインが上記の引用で「しかし、私が当の物事に矛盾しうるということではないのである」と述べていることは、このことを意味している。
   だからある宗教的像を使用しないことは、仮説を信じないこと(=仮説の主張することとは反対のことを信じること)とは全く異なるのである。ある宗教的像を信じることは、例えば、その像を信頼することであり、その像のために犠牲になることであり、その像に自分の生活を規制させることである。宗教的像を信じないということは、その像がその人の思考や生活において何の役割も果たさないということである。最後の審判のような信念は、未来の出来事に関する仮説ではなく、信者にとってはかれらの思考を支配し、決定づけているかぎり、絶対的なものである。この場合絶対的信念は評価の対象ではなく評価の規準である。だから宗教的信念を仮説と見做すことはその性格を見誤ることである。
ウィトゲンシュタインは「宗教的な対話にあっては、我々は『私はかくかくのことが起こると信じる』といった表現を用い、それを科学の中で用いるのとは違った仕方で用いる。」(同 10-232)と述べて、同じような表現でも、宗教的信念と科学的仮説という異なった脈絡で使用された場合には、異なった使用規則に従うことを示している。(このウィトゲンシュタンの考えは、宗教的世界像と科学的世界像の分断という議論に向かいやすい。宮田2参照)

2ー4 宗教=秘教的ゲーム論への反論

 

 宗教的信念は独自の言語ゲームであるという考えは、それと表面的には似ている「宗教は語り得ない領域に属するから、神学の中に多くのナンセンスがあることは当たり前だ。」という考えと混同してはいけないとフィリップスは主張する。後者は、宗教は理解不可能だと主張しているが、前者は、宗教が理解不可能だと主張してはいない。それどころか、宗教的実践の内部には何が言われ得るのか、何が言うことができないのかという規準がある。だから信者は宗教の内部において間違った発言をすることもありうる(Phillips p. 67)。
 しかし宗教的信念は信者が従ったり、従うのに失敗したりするルールを持った独自の言語ゲームであると論ずることは、そのルールが目的を持つことを示すことにはならないという批判がありうる。そこでフィリップスは宗教が独自の言語使用のルールを持つがつまらない秘教的ゲームであるとする批判を検討する。

2−4−1 秘教的ゲームの事例

 ウィトゲンシュタインの『哲学探究』の冒頭での大工の言語ゲームの事例を考察しながら、この大工の使用する言語の奇妙さは大工たちが仕事のための命令言語だけしか持たず他の言語を全く話さないという状況設定にあるというラッシュ・リースの指摘(Rhees, p. 76)を手がかりに、フィリップスは言語ゲームと生活との関連を考察する。これでは大工たちが言語を話しているとも言えない。子供達は言語を大人から教わるが、仕事を教えることは仕事の命令言語によってだけではできないだろう。大工たちがしていることは、実際に家を建てるという行為よりも、石積みゲーム、信号への適切な反応ゲ−ムという秘教的ゲームに似ている(Phillips p. 68)。
 リースが強調しているのは、言語を学ぶことは単に一般的に何がなされているかを学ぶこととは同じではないということである。言語を学ぶことは、質問したり、答えたり、ある表現が他の表現とどういう意味で関係しているのかを尋ねることと関係している。大工によって使用された表現は、その表現が直接指示している仕事の中には完全にはその意味を持ち得ない。その表現が他の脈絡とどう結合しているのか知ることなしには、表現の意味を知ることはできない。命令し、それに従うということがどういうことかが学ばれなければ、命令言語に反応することもできないが、命令し、それに従うということを学ぶには、それらの言語ゲームが生活の中でどのような状況の中で成立するのかを適切に知らなければならない。
 子供が有意味な言述と単語の寄せ集めの区別を知るようになる時、彼はその区別を家族が彼に話し掛け、答える仕方から学ぶ。このようにして彼は言葉がいかに結合されているか、人々がお互いに話すことがどのように有意味になるかを知る。それはあれこれの表現の意味を、例えば辞書により学ぶこととは似ていない。

2−4−2 宗教と他の生活形式との関連

 

 リースの指摘したことは、宗教にも適用できるとフィリップスは言う。もし宗教的礼拝を礼拝の形式の外部にあるすべてのものから切断したら、礼拝であることをやめ、秘教的ゲームになるだろう。例えば礼拝の実際の行為と礼拝の行為のリハーサル、真似事とはどこに違いがあるのか。身体的振舞いは同じであるから、その答えは礼拝の行為を他の生活から切断して考察するならば見出すことはできない。相違はその行為が礼拝者の生活において持つ目的、その行為が持つ生活の他の特徴との関係に関連している。宗教は、宗教への言及なしには全く理解不可能な人間の経験の諸相、つまり誕生、死、喜び、悲しみ、絶望、希望、幸運、不運などに、関連しているのであり、これらと宗教との結合は偶然ではない(同 69)。(現代においてはこれらを宗教への言及なしには全く不可能な経験であるというフィリップスの見解がどれほど支持されるかは問題にされうると筆者は考えている。)
 したがって宗教的信念の力は、部分的には、宗教の外側にあるものに依存している。例えば、「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ 14・27)というイエスの言葉を考えると、イエスの教えと世間の教えの対比の力は、論理的に、対比される両方に依存している。宗教的信念は孤立した言語ゲームと見なされたり、他の生活形式から切断され得るのではなく、実際には宗教的信念は他の生活形式との関係が考慮に入れられなければ、理解されることができないのである。
 例えばある人は教会内だけで礼拝をするが、一歩教会の外に出れば非信者と同様の行為をするということもある。フィリップスは、これは偽の礼拝であると考える。信者の生活を規制するという生活上の意味を失った宗教的実践はどういうものになるのか。それは日常的平凡さと対比される魅力あるゲームであるが、教会の外部では何物へも関係しない秘教的ゲームでしかない。

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