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2−4−3 宗教的信念の適切な理解の諸問題

 

一方においてさまざまな状況への宗教的反応は外的な理解可能性の規準によっては十分に評価され得ない。他方宗教的信念とそのような状況との結合は空想的であってはならない。ここに宗教的信念を適切に理解することが困難な理由がある。例えばある信者が「すべての苦悩には目的がある」と言う場合、その信者は苦悩を真面目に考えていないと非信者から非難されるかもしれない。あるいは信者が「死は永い眠りである」と言うとき、信者は死を真面目に考えていないと非難されるかもしれない。
 この場合、信者が苦悩や死について非難されたのは、われわれ(それには信者も非信者も含まれる)がこれらの出来事について日常的に知っていることを規準にして非難されている。われわれが既に知っていることを、信者が無視したり、歪めたりしているので、信者は空想的であるとして非難されているのである。もし信者によって語られることが、状況についてのわれわれの理解を歪めるものであるなら、その宗教の名のもとで言われることは、その歪曲を正当化することはできないし、その宗教は迷信となるであろう(Phillips p. 70)。
だから宗教的信念は状況に対して適切に理解され信じられる場合と、不適切に理解され信じられる場合とがある。イエスは弟子に「両親から離れよ」(イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」ルカ 18・29−30)と言った。これは不適切に理解されれば、子供に両親を見捨てよと命令したと理解される。しかし適切に理解されれば、信者にとって愛する者(=両親)の死は自分の人生の意味をなくさせることではないと教えていると理解される。自分の人生の意味を、この世の中にではなく、神の中に見出だす可能性を生じさせている。
 場合によってはある人にとって不運な子供の死は神の愛を無意味にさせるかもしれない。その人は神の愛を信じたいが信じられない。しかしこれは神が人々を愛しているという仮説がテストされ、子どもの死という反証例が見付けられ、仮説への信頼が失われるということではない。その人は子どもの死という状況の中で宗教的な仕方で反応する気になれない、彼はその状況に対して宗教的像を使用しないというのがより真相に近いとフィリップスは解釈する(同 71)。もし信者が宗教的信念を仮説として理解し、ある出来事によってその仮説が否定されうると考えているなら、その人は宗教的信念を適切に理解し信じていることにはならないだろう。(宗教的世界像ではなく科学的世界像が支配的な社会においては、宗教的信念は仮説と見なされやすいが、そのような見方が適切であるのか、不適切であるのかの判断基準をフィリップスはどのように考えているのだろうか。)
 宗教哲学者は宗教的信念の意味は部分的に宗教以外の生活との関係に依存しているということを正しく認識しているが、この依存を認識してしかも宗教的信念を独自の言語ゲームだと主張することは矛盾していると誤って結論づけている。この結論にいたるのは、彼等が宗教的信念と非宗教的事実との関係は、正当化されるものと正当化するもの、帰結とその理由との関係であると想定しているからであるが、これはひどい混同であるとフィリップスは考える(同 72)。宗教的信念が部分的に非宗教的事実に依存していると言うことは、その信念が事実によって正当化されたり、推論されたりすると言うことではない。フィリップスはそのことを例で示そうとする。
 ボクサーが試合前に十字を切る。母が産まれた子供のために聖母マリアの像に花輪を捧げる。両親が事故で死にかけている子供のために祈る。これらの行為は間違った行為なのか、それとも宗教的行為なのか。この問いへの回答は、当事者がその行為についてどう言うか、彼等の期待は何か、何がその行為を無意味にするか、などによる。ボクサーは十字を切ることによりダメ−ジを受けないと考えているのか。母は花輪を捧げることは子どもの将来の幸福をもたらすと考えているのだろうか。両親は子供の回復への真の祈りは子供の回復を引き起こすと信じているのだろうか。これらの問いに肯定的に答えられるなら、その信念はテスト可能な仮説となり、その信念は、事実上、間違いで、両者の関係を一種の因果関係と見做すことになるとフィリップスは考える。彼らはそう考えることにより、誤って推論し、それにより彼らが既に知っていることと矛盾していることになる。彼らはその行為を、理論、反復可能性、説明的力などが重要な特徴となる仮説という体系の中に置き、結果的にその行為は間違いであると証明されるとフィリップスは考える。
 しかしその行為は仮説とは無関係な別の意味を持っているだろうとフィリップスは指摘する。多分ボクサーは十字を切るという行為によって、彼が戦いに勝つようにという希望を表現しているのかもしれない。母は子供の誕生を神の恵みとして崇めているかもしれない。両親は死にかけている子どもを助けてほしいという彼等の欲望を神に告げているのかもしれない。ここでは宗教的信念はテスト可能な仮説ではなく、そういう状況への反応の仕方として現れている。それらは信仰と信頼を表現している。

2−4−4 宗教的信念と迷信との相違

 宗教的信念と迷信との相違は特に重要であるのでフィリップスはさらに詳しく説明する。
 母が聖母マリアに新生児を捧げ、その子を守るように祈る。タイラーの『未開的文化』における議論を援用すれば、彼はその祈りの行為を「想定された結果(=新生児の将来の幸福)と全く無関係な過程への盲目的な信念」として記述するだろう(Tyloy, p. 120)。しかしこの記述において「信念」「過程」「関係」ということはこの脈絡でどういう意味なのか。タイラーにとって想定された結果とは子供の将来の物質的幸福であり、無関係な過程とは、子供を聖母マリアの像に捧げることと子供の将来の幸福との間に想定される結合であるだろう。無関係さはどのように証明されるかと言えば、単純に、聖母の祝福を受けた子供の物質的幸福とそうでない子供の物資的幸福とを統計的に比較することでよい。その結果は統計的にランダムになるだろう(同 73)。
 この考えは祈りの効果は同じ病気にかかっている二人の患者の一方は医学的に治療され、他方は祈りだけをする、その二人を観察することによって示されるという意見を思い出させる。この考えは、祈りは他の物事の対処方法と競合する一つの物事の対処方法であり、両者の方法の優位性は実験的に決定できるとしている。
(フィリップスのこの対比は必ずしも適切ではない。医療行為に否定的な宗教もあるが、医療行為を肯定した上で、その行為が成功するように祈るという宗教もある。医学が進歩した現在でも治療が困難な病気も多い。不安な状態にある患者が医療行為が成功して、病気を克服できるように祈ることは、それなりにありふれた出来事であろう。後者においては宗教は医学、科学と対立的な役割を果たすわけではなく、患者の精神的ケアの役割を果たしていると見なすこともできる。そして病気の克服に成功した場合、患者が祈りと病気の克服の間に因果関係を見出すこともあるだろう。そのような経験をした患者にとって、社会的統計がランダムであることはどういう意味を持つのだろうか。確率的には必ず損をするのに、なぜ人は宝くじを買うのだろうか。ほんのわずかな可能性でも他に目的達成の手段が見つからない場合には、その可能性にかけるというということが、合理的なことか、非合理的なことか、筆者にはわからないが、個人的な実存的情況が、社会的統計を無視させることはあるだろう。しかも経済的格差により十分な医療行為を受けられない人が、宗教的祈りに頼らざるを得ないということ、多くの社会で経済的格差が拡大しているということまで考えると、宗教的祈りと医療行為とを単純に比較するというフィリップスの議論には私はあまり共感を覚えない。
 牧口常三郎は『創価教育学体系梗概』において「如何なる場合でも信は生活力の増大であり、不信は生活力の減退であり、疑惑はその停滞である。たとえつまらない迷信にしても無信に比すれば一時限りでは増進である。況や非迷信においてをや」(牧口 p. 415)と述べて、迷信のそれなりの効用を述べる。宗教を行為の規範としては受容していない大多数の日本人が幸福を願って宗教的儀礼を行うという現象は、フィリップスにとっては、迷信的行為として解釈されるだろうが、何らかの行為を迷信として非難することは、所持している世界像が異なるために、相手の行為を理解できないと言っているにすぎないというのがウィトゲンシュタインの『確実性について』の議論であったことはフィリップスも当然知っているだろう。ウィトゲンシュタインは「迷信」という言葉の使用については、注意すべきだと警告していると思われるのだが、フィリップスが迷信を注意深く扱っているようには思えない。)
 さてもちろん子供を聖母に捧げる母が、タイラーが記述するような期待を持つかもしれないことはフィリップスも否定しない。そしてこれが母の期待であるなら、彼女の行為は迷信であるとフィリップスは言う。
 この場合この脈絡で迷信的行為を特徴づけているのは、まず第一に、聖母マリアと長い間呼ばれてきたある人が、我々の祈りに応えて、個人の生活の過程を決定し、害から守り、事業を成功させることができるという非存在的な疑似因果的な結合、仮説に関する信念への信頼がある。第二に、聖母は、聖母自身への言及なしに理解可能な目的、つまり危害からの解放、事業の成功という目的に対する手段となっている。換言すれば、聖母を称える行為はそれ自体では重要ではなく、手段としてのみ重要である。
 聖母は幸運を与える力という身分に引き下げられている。人々は他の方法によってより安価により豊富に目的を達成することができるかもしれない。この場合子供を聖母に捧げる行為は将来の出来事との関連で有効かどうか統計的に証明されるだろう。
 しかしこの見方では聖母を称えることの宗教的性格が全く無視されている。少なくともその宗教的性格は目的を達成する方法の中の一つとしてその有効性に還元されている。子供を聖母に捧げることは迷信である場合もあるし、そうでない場合もある。ある母は尊崇と感謝の行為の中で子供を聖母に捧げるかもしれない。例えばある母は子供の誕生において他者に喜びの挨拶をする。この挨拶の行為には、多くの信念や態度が連合している。新しい命の誕生に直面した驚異と感謝、子供の誕生を神の恵みと考える謙譲などが連合している。
 ではこのような挨拶として祈りを理解した場合、子供に求められた保護はどうなるのか。認識すべき重要なことは、保護は物質的幸福としてではなく、人格的徳や態度との関連で理解されなければならないということである。これらの徳や態度は全て聖母の人格に含まれている。信者にとっては、聖母はこれらの徳と態度の模範、パラダイムであり、徳と態度が聖母の神聖さを構成している。聖母の保護が求められる場合、その保護は聖母の神聖さの保護であり、母は子供の人生がこれらの徳に向かうように願うのである。そのような方向づけの最初の行為が子供を聖母に捧げることであり、この方向づけを信者は聖母の祝福と呼ぶのである。
 この二人の母の違いをより明瞭にすると、前者においては将来の子どもの物質的保護が、子供を聖母に捧げることや聖母の神聖さが効果的かどうかを決定するが、後者においては聖母の神聖さ、人格的徳と態度が子どもに与えられるべき保護の性質を決定する。

2−4−5 反応としての宗教的儀礼

 

タイラーは、難産で死にかけた母の顔に産まれたばかりの子供の顔を近づけ、母の最後の息を子どもに吸わせようとするフロリダのセミノル族の事例を次のように考察する。タイラーは、彼らが魂は息であり、魂は身体から離れ移動できると信じ、だから死んだ母の子供を母の顔の近くに置きその魂を受け継ぐと信じていると解釈する(Tylor, p. 391)。タイラーが観察しているものは奇妙な方法による疑似的な力の想定された移動である。タイラーはそのような移動は社会的ルールによって伝承されたと考えるか、そのような移動は自然的であるというかもしれない。
 しかしフィリップスはタイラーとは全く異なった像を持つ(同 76)。その像においては死んだ母と子の関係が重要である。母は子を生む中でその命をなくし、命の息は母から子へ伝わる。これは母の愛と犠牲を表現するとても美しい行為である。しかしこれをタイラーのように一般的な魂の移動という、母と子の関係の外側に置くことはできない。死者の側には誰を置いても構わないというわけではない。母の最後の息に表現された愛と犠牲の表現はもし別の子が置かれたら冒涜されるだろう。
 宗教的信念の規則の内的整合性は、その規則が目的を持つということを証明しないから、宗教的信念が秘教的ゲームでないことを証明するためには、宗教的実践と生活の他の諸相との関係を見る必要がある。この関係こそ占星術は迷信であり、ある場合の宗教的実践は迷信とは異なることを理解させるものである。もっともほかのいわゆる宗教的実践は迷信であることがわかるかもしれないが。
 ここで重要なことは、宗教的信念の正当性の証明を求めることは意味がないということである。子どもを聖母に捧げるという献身の行為は子供の誕生がなければ生じなかったというのは正しい。宗教的信念と子供の誕生との結合は空想的であってはならないというのも正しい。その結合は迷信であってはならない。しかし子供の誕生は宗教的反応を評価させる証拠ではない。人々は子供の誕生に対して様々な反応をする。ある者は誕生するとき神に感謝を捧げる。ある者は子供が生まれて責任を持つことを嘆くかもしれない。これらの反応は誕生への反応であり、それから切り離して意味を持ち得ない。
 この場合人々はこのように反応するとしか言えない。ある仕方で反応する人は別の仕方で反応する人を、浅薄で、瑣末で、空想的で、無意味、悪だと見做す。しかし反応の力は外的な方法によっては正当化されえない。それは示されるのみである。これは宗教的反応においても正しく、宗教的信念は絶対的性格と価値を持つ。
 哲学は宗教的信念に関する誤解を解明するかもしれない。それは宗教への反論の素朴さを示したり、いくつかの宗教的信念は迷信であることを示すかもしれない。しかし哲学は宗教的信念には賛成でも反対でもなく、宗教的信念の文法を解明すれば、哲学の仕事は終わる。この解明の結果、人は宗教的信念を信じないまでも、反対することを止めるかもしれないし、他の人は宗教を一層憎むかもしれない。その結果は予測できないが、それは哲学の仕事ではないとフィリップスは考える。

「追記 webに掲載するに当たってさまざまな追記をしたが、それらは( )によって示されている。なおこの論文は妻がなくなり、その後娘の養育もあり、長い間中断したままであるが、この議論は創価学会研究第3部現代宗教論の議論と関連しているので、いずれ再開するつもりである。」

使用文献一覧

牧口常三郎 『創価教育学体系梗概』 牧口常三郎全集第8巻所収 第三文明社 1984
ウイトゲンシュタイン 『ウィトゲンシュタイン全集』(大修館書店)巻数と頁数のみを表記した
R. Swinburne 'Intellectual Autobiography' in Reason and the Christian Religion ed. by A. G. Padgett (Clarendon Press Oxford 1994)
A. J. Ayer Language,Truth and Logic (Penguin Books 1990)
J. Wisdom 'Gods' in Philosophy and Psycho-Analysis (Basil Blackwell 1957)
A. Flew 'Theology and Falsification' in The Philosophy of Religion ed. by B. Mitchell (Oxford U.P 1971)
D. Z. Phillips 'Religious Beliefs and Language-games' in Wittgenstein and Religion (St. Martin's Press 1993)
E. B. Tylor Primitive Culture in The Collected Works of Edward Burnett Tylor, Vol. III(Routledge/Thoemmes Press London 1994)
R. Rhees 'Wittgenstein's Builder' in Discussion of Wittgenstein(Schocken Books New York 1970)

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