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ナンシー・マーフィー『自由主義と原理主義を超えて』(1)

はじめに

 

私は創価学会という新宗教運動の一つに所属し、その教義の中で、私の受け入れている科学や哲学から見て、受容可能なものは信じているが、受容できないものについては明確に信じることを拒否し、判断不能なものについては判断保留をしている。私が信じている教義は、一例を挙げると、十界互具論であり、これは人間の尊厳と平等という私の受けた戦後民主主義教育の中で刷り込まれた価値観と親和的であると私は解釈している。私が否定する教義は、仏教経典がすべて歴史上の釈尊によって説かれたという中国、日本の伝統的解釈であり、それを前提にしてして作り上げた宗派の教義であり、これは私が教わった歴史学的知識に反すると私には思われる。
私が判断保留しているのは、例えば輪廻説などの形而上学的教義である。また信仰による功徳や罰ということについても判断保留をしている。もちろん社会統計学的に考察すれば、例えば、経済的指標の改善や病気からの回復という事象に関して、信仰の有無ということが統計学的に有意な偏差を示しているという専門学会での報告などは皆無に等しいと私は思っている。しかし同時に、多くの人が、人生には運・不運というものがあり、宗教的行為などが、その運・不運に何らかの影響を与えるらしいと思っていることは、社会的事実のようだと私には思われる。(どの程度の人が、人生に運・不運があると考えるかに関する社会統計について知らないので、私の印象に過ぎないのだが。)
人間の合理的行為が統計学に従った行為であるとは必ずしも言えない。10億円の資産を持つ人が、資産の有効活用として、宝くじを買うことは、期待値が低すぎるから、合理的行為ではないと思われる。しかし数万円程度の余裕資金しかない人が、一攫千金を狙って宝くじを買うことは、たとえ期待値が低くても、非合理とは見なされないだろう。そのときに、その人が宗教的行為と運・不運とが関連しているという人生観を持っていたならば、その人がどこかのご利益があるという社寺仏閣に祈念のために参拝するという行為も非合理ではないだろう。しかしながら数万円程度の余裕資金しかない人が、さらに生活資金をも宝くじ購入に充当し、宗教的に祈念することは、愚かで不合理な行為と見なされるだろう。合理的な行為とは必ずしも統計学に従った行為ではなく、特定の文化を持った社会において、特定の状況に置かれた人によって、それぞれ異なるという、状況依存的な概念である。信仰による功徳・罰という現象は、どういう議論の脈絡にあるかによって、合理的であったり、非合理であったりするので、社会統計学的な考察ですませるわけにはいかないのであり、それゆえ私は判断保留をしているのである。
 このような私の宗教についての考えは、もちろん私が研究した学問的知識からの影響も大きいが、基本的には、創価学会の創立者牧口常三郎の宗教観に大きく影響されている。牧口常三郎は『創価教育学体系』第2巻「第3編 価値論 第5章 価値の系統 第6節 宗教と科学・道徳及び教育との関係」において、彼が選択した日蓮仏法の特質について、3点を挙げて選択の理由としている。
第一に、日蓮仏法の三証という証明方法は、自然科学の帰納法と演繹法との組み合わせと同様な証明方法であるということである。牧口は仏法が幸福獲得のための応用科学(後に価値科学)の法則命題だと考え、その命題を実験証明するという考えを後に『創価教育法の科学的・超宗教的実験証明』の中で展開している。第二に、多くの宗教は信仰対象として神仏の像を措定しているが、牧口はそれらの像は人間の空想力によって生み出されたものでしかないとして、むしろ信仰対象を法とする日蓮仏法が科学と親和的であるとする。その法は、その法に基づいた生活を送れば、仏という幸福境涯に到達できることを約束した法であり、その法の真偽を確かめるための方法が体験的に開示されていると牧口は考えている。第三に、「仏法即世法」という日蓮仏法の教義は、仏法が科学や道徳と矛盾しないばかりではなく、前者が後者を包摂する全体と部分との関係にあると解釈できることを挙げる。
牧口はこの解釈について、「宗教を理解せぬ低級なる科学的解釈として謗法の罪は免れ難いかも知れぬ。切に叱正を待つものである。」と述べて宗派的な伝統的解釈との相違を自覚的に述べている。このように宗教を伝統的解釈ではなく、自分の持っている科学や哲学によって解釈しなおすことによって、宗教を受け入れるという態度は、牧口常三郎や私の特殊な態度ではない。このような態度はこれから紹介するナンシー・マーフィーの著書では「リベラリズム(自由主義)」と命名されている態度であり、19世紀後半のドイツの宗教哲学者シュライアマハーに典型的に見られる態度である。この態度に対置されるのは、「ファンダメンタリズム(原理主義)」と呼ばれる態度であり、聖典が真理を述べているという前提で宗教を受け入れる態度である。
 牧口常三郎を日蓮正宗に導いた三谷素啓は、『立正安国論精釈』において、三証を強調し、また宗教が社会的な影響を与えることを強調するなど、牧口と共有する思想的側面を持つが、時として原理主義的態度を採る場面もある。三谷は同書において、「仏教と科学、その相違の一二を挙げて世の公評に愬う。仏典には蛇身を有する人間が列挙してある。現代の科学は笑殺した。仏典には男子が肩より、股より、あるいは腰部より分娩した旨を証している。現代の科学者は侮笑し憫笑していわく、生殖の科学的根本論理なるものを演説して、仏典の荒唐無稽を高唱す。世上の万事に理論と事実の違う事は殆ど常事である。仏教は如何、経文の事実と違う事あるを知らず。」(同、p. 241)と述べて、仏典が説くことは科学に反しても真理であるという立場を主張しているが、このような態度は原理主義の典型的な態度である。
 創価学会には多様な教育水準の会員がおり、思想的背景もまた多様である。教団としては御書根本を主張しているが、その御書に書かれていることが、自分たちが受けてきた教育によって与えられた知識と異なったとき、どのように考えるかも多様である。学問的知識に対して不信感を持ち、御書の記述を文字通りに受け入れる原理主義的な態度を採る人もいるだろうし、教団に関係する場面では御書の記述を受け入れ、それ以外の場面では学問的知識を受け入れるという使い分けをする人もいるだろうし、両者の矛盾を重要なこととは見なさず、無視する人もいるだろうし、あるいは御書に書いていることで受け入れ難いことがあれば、それを受け入れやすくする自由主義的な解釈を採る人もいるだろう。創価学会が大衆的な宗教運動である限り、教団としてはどれかの解釈に限定して、それとは異なる解釈を異端として排斥することは、教団の分裂をもたらすから、それを避けるためには、解釈の多様性を放置するしかない。
だが解釈の多様性は必要悪として容認されるにすぎないのではなく、むしろ人が宗教に関与する多様な状況、理由の反映であり、宗教の豊かさの現われでもあると見ることもできる。ただその場合に解釈の多様性を放置して、その多様性の根拠に無自覚なままでは宗教の豊かさにはならない。多様性を明確に自覚し、態度の変更は無理にしても、相互に相手の立場を共感しないまでも、理解することが、宗教の豊かさの発見へとつながると私は考えているから、とりあえず自分が信仰をどのように捉えているのかを自己分析し、それを提示したいと思っている。今回ナンシー・マーフィーの『自由主義と原理主義とを超えて』の一部(「前書き」と「序論」)を、翻訳、紹介するのは、現代における信仰の多様性についての考察の一環であり、私の創価学会論の第3部の現代宗教論の一部となる予定の箇所である。

ナンシー=マーフィー (Nancey Murphy) 『リベラリズム(自由主義)とファンダメンタリズム(原理主義)を超えて――どのように近代哲学とポストモダンの哲学が神学的議論を規定するのか』 (Beyond Liberalism and Fundamentalism-----How Modern and Postmodern Philosophy set the Theological Agenda, Trinity Press International, Harrisburg, Pennsylvania, 1996)

目次

前書き
序論
第一部
1 経験それとも聖典
  どのようにして我々は神を知るのか
2 記述それとも表明(expression)
  どのようにして我々は神について語ることができるのか
3 内在それとも介入
  どのようにして神は世界の中で行為するのか
第2部
4 認識論的全体論と神学的方法
5 言語的全体論と宗教言語
6 形而上学的全体論と神の行為
結論

前書き

 神学の学問の世界における私の経歴は、アメリカのキリスト教会の自由主義的 (liberal)立場に所属する教育機関(カリフォルニア、バークリーの連合神学大学院(The Graduate Theological Union)で神学的教育を受けた経歴と、長い間年保守主義的 (conservative) 教育機関(カリフォルニア、パサデナのフラー神学大学院 Fuller Theological Seminary)で授業をしてきた経歴とに分けられる。多様な神学的背景の探検者として、私はしばしば素人的な社会学的考察を行っている。
* 自由主義の陣営に住む人々は、しばしばキリスト教世界が、自分たちと原理主義者からのみ形成されていると考えやすい。
* 福音主義者(evangelicals)は、原理主義者によって、自由主義へのなだらかな斜面を滑っていると見なされている。
* ある宗派 (denomination)と他の宗派との対立よりも深い対立が、同じ宗派内部の自由主義者と保守主義者との間にある。
* ポスト自由主義的神学者は、自由主義者には信仰絶対主義者 (fideist) と見なされ、保守主義者には相対主義者 (relativist) と見なされている。
 これらの誤解と意見の不一致は、そのいくつかは面白くもあるが、ほかのいくつかはほとんど悲劇的であり、故トーマス・クーンが科学の歴史の中に見出した意見の不一致やコミュニケーションの失敗に匹敵する。科学における競合するパラダイムの支持者たちは、話がすれ違い、相手の業績を「本当は科学的ではない」と非難する傾向にある。
 本書のテーマは、近代神学者は二つの全く異なった神学的「パラダイム」を発展させてきたということである。その結果、保守主義者はしばしば、自由主義的神学者が言っていることを理解できない。私の疑問は、多くの保守主義的キリスト教徒は表面的な不一致に着目するが、自分たちのキリスト教の理解と自由主義者の立場との間にはどんなに深い溝があるかに気づいていないということである。なるほど原理主義者が、福音主義へのなだらかな斜面を滑り落ちていくことは可能であるが、福音主義者が自由主義へと滑り落ちていくことは同様には可能ではない。自由主義と福音主義との間には眼に見えない壁があり、「パラダイムの転換」が必要なのである。
 このパラダイム分析が、福音主義的神学が、自由主義者には自己矛盾のように思われるということを説明する。
 アメリカのプロテスタントの間には自由主義と保守主義との分裂があるということは耳新しいことではない。本書の目的はこの分裂の源泉を説明する手助けをしようということである。つまり、近代の哲学的想定 (assumption) は、神学者が近代世界において有意味な仕事をしようとする場合に、限定された選択肢しか与えなかった。神学的主張の正当化、宗教言語の本性、神の行為についての説明などの問題について、利用可能な戦略は二つしかなかった。その選択肢のいずれかを選ぶと、極めて自由主義的な神学か極めて保守主義的な神学になるかのいずれかである。
 しかしながら、自由主義的神学と保守主義的神学との相違は、あらゆる種類の近代の思想家と、私が英米のポストモダンと名づける時代の新しい知的世界の観点を採用する人々との間の相違よりは重要ではない。現在のところ、この哲学的想定の移行は、近代の自由主義と保守主義との間の誤解よりも深い誤解を生み出している。けれども、この革命は左右のキリスト教徒の和解への希望を与えると私は主張する。ポスト自由主義者とポストモダンの福音主義者との間の実りある対話は既に生じている。(注 ティモシー・フィリップス、デニス・オクホルム編『告白の本性―福音主義者とポスト自由主義者との対話 (The Nature of Confession: Evangelicals and Postliberals in Conversation),1996』) 本書の第2部で、新しい哲学的立場を記述し、それに対応して神学がどのようにして発展していくのかの示唆を与えることによって、この運動に貢献したいと思っている。

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