漆畑は私が『本尊問答抄』の記述を元に「法勝仏劣」論を展開したことに対して次のように主張する。
「『本尊問答抄』の曲解からなる宗祖本仏義否定を破す
宮田は『本尊問答抄』の、
問云、然者汝云何釈迦を以て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。答、上に挙るところの経釈を見給へ、私のぎにはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とするなり。其故は法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目也。釈迦大日総十方諸仏は法華経より出生し給へり。故に全能生を以て本尊とする也 校定一六一六)
との文を
『本尊問答抄』の議論が一番明確に、法は仏よりも勝れているという理由で釈尊像ではなく曼荼羅を本尊とすべきことを述べている(宮田一二〇)
と述べ、大聖人の人法に関する裁定は法勝人劣であると勝手に断定する。そして日蓮正宗の人法一箇という教義そのものを否定している。さらに大聖人もあくまで人であり、法勝人劣の意義よりして信仰対象とはなりえないとするのである。申すまでもなく、この宮田の理解も種脱の筋目に暗い謬解である。即ち『本尊問答抄』の法勝人劣の御指南は、脱益の釈尊についてのものであり、人法一箇の本因妙の仏に対するものではない。その意義は『報恩抄』に明らかである。即ち大聖人は、
天台伝教の弘通し給ざる正法ありや。答、有。求云、何物乎。答云、三あり(中略)一は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔(51)の内の釈迦・多宝、外の諸仏并に上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。主には日本乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無知をきらはず、一同に他事をすてゝ南無妙法蓮華経と唱べし 校定一二六七)
と三大秘法について御指南されているが、特に本尊について、まず標文に『本門の教主釈尊を本尊とすべし』と『釈尊』を本尊と掲げられた後、『釈迦・多宝(乃至)脇士となるべし』と、さらに『釈迦』を脇士とされているのである。この『釈尊』の脇士が『釈迦』であるという一見矛盾ともとれる御指南は、大曼荼羅の相貌によってそれを整合的に拝することができる。つまり、御本尊の中央に大書される『南無妙法蓮華経日蓮』こそ『本門の教主釈尊』である。そしてその主題の左右に示される『南無釈迦牟尼仏・南無多宝如来』こそ脇士たる『釈迦・多宝』であり、『本尊問答抄』に示される法勝人劣の仏なのである。
なぜ主題の『南無妙法蓮華経日蓮』が『本門の教主釈尊』なのかといえば、三位日順師の『本因妙口決』に、
久遠元初の自受用報身とは本行菩薩道の本因妙の日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなり(富要二−八三)
とある如く、大聖人は南無妙法蓮華経の本仏本法を一身に悟られた久遠元初の自受用身であられる。その自受用身は末法に日蓮大聖人として御出現されるのである。大聖人御出現以前の釈尊の化導について、仏身を相対して述べる場合、本因妙の自受用身の御名を一応釈尊とするのである。故に『報恩抄』で標文に掲げられた『教主釈尊』とは、脱益の『釈迦』と別の久遠元初自受用身たる末法の日蓮大聖人と拝すべきなのである。
さらに、大聖人減後、日興上人は大聖人の補処として大曼荼羅を書写されるが、その際必ず『南無妙法蓮華経』(52)の直下に『日蓮』と書写されている。この意義は事行の一念三千・南無妙法蓮華経は日蓮大聖人に具わるという人法一箇の意義を顕されているのである。即ち三位日順師の『誓文』に、
本尊総体の日蓮聖人 (富要二ー二八)
との言がある。この文こそ、日順師が本尊を体現される仏が大聖人であると拝していたことの明証である。宮田は日順師の『誓文』に疑義があるとは一言も述べていなかった。さすがにその根拠はなかったのであろう。つまり、文献の真偽を論ずるまでもなく、上代に宗祖本仏義が存在していたことは動かし難い事実なのである。大聖人は弘安以降の御本尊について『南無妙法蓮華経』の直下に御自身の署名花押を大書されていた。そして日興上人のみがその重大意義を大聖人より相伝され、御本尊に『南無妙法蓮華経日蓮』と書写されていたのである。また、その意義の一端を日興上人より賜った三位日順師が『本尊総体の日蓮聖人』(誓文)『本因妙の日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め』(本因妙口決)等々と宗祖本仏義を述べたのである。
以上述べたように、宗門上代に大聖人を法即人の本尊として拝していたことは明らかであり、宮田が『本尊問答抄』の『法勝人劣』義を大聖人に当てはめて宗祖本仏を否定するのは謬義であることを指摘した。
結 論 宗祖本仏義について
宮田は先に述べるように、『本尊問答抄』の文意を曲解し、宗祖本仏を否定しようとする。さらに曼荼羅のみが本尊であり、御影は本尊ではないとする。しかし、そもそもその大曼荼羅本尊はどなたが御図顕されたものか。大聖人は『諸宗問答抄』に、
真言三部経は大日如来の説歟(中略)大日如来の説法と云はゞ、大日如来の父母と、生ぜし所と、死せ(53)し所を委く沙汰し問べし。一句一偈も大日の父母なし、説所なし、生死の所なし。有名無実の大日如来也。然間殊に法門せめやすかるべき也。若し法門の所詮の理を云はゞ、教主の有無を定て、説教の得不得をば可極事也 (校定五二)
と、真言の邪義を破折し、仏法において、それを顕される教主の有無が重要なことを御指南されている。つまり、教主が在さなければその説法も全て有名無実となるのである。されば末法にあって、妙法を人々に説き聞かせ、大曼荼羅本尊を図顧し、本尊への唱題を勧めて人々を成仏に導かれたのはどなたか。日蓮大聖人なのである。つまり、日興上人は、大聖人を根本の妙法を体現し、自らの命を大曼荼羅と顕された御本仏として、信仰の上からその御影を拝していたのである。そのことは日興上人御書写の御本尊、そし御影に対する敬虔な態度、また日興上人の弟子たる三位日順師の著述にも明らかなのである。宮田の大曼荼羅のみを本尊とし、御影を侮るという姿勢は先の真言の邪義と同轍と指摘するものである。
以上宮田の論を概括的に破折するため、宮田の文献考証の誤謬などを中心に破折した。宮田の論はこの他にも六即を五十二位のような修行の階梯であると誤解している部分など成生論・修行論等にも誤謬が満載されている。これらについての破折は、枚数の関係上、今後の研鑽課題としたい。(54)」
『本尊問答抄』については、きちんとした議論が必要であるから、別の機会に行う予定であるが、漆畑の議論で私が疑問に思うのは、「即ち『本尊問答抄』の法勝人劣の御指南は、脱益の釈尊についてのものであり、人法一箇の本因妙の仏に対するものではない。」という解釈である。少なくとも『本尊問答抄』には「脱益の釈尊」や「人法一箇の本因妙の仏」という表現はない。つまりこれは『本尊問答抄』の議論と日蓮の他の著作の議論との関係をどのように解釈するのかという問題になるのである。日蓮の他の著作の中で本尊を法と仏とに分類して議論している箇所を私は知らないが、その意味では『本尊問答抄』は日蓮の著作の中で最も精密に本尊について議論している著作であると私は考えるが、この点について漆畑は同意してくれるだろうか。
また漆畑は『報恩抄』の解釈においても、奇妙な議論をしている。「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏并に上行等の四菩薩脇士となるべし。」の「本門の教主釈尊」を曼荼羅の「南無妙法蓮華経日蓮」を指すと主張し、それは「久遠元初自受用身たる末法の日蓮大聖人」のことであると主張する。そして「所謂宝塔の内の釈迦・多宝」はその次の部分の「外の諸仏并に上行等の四菩薩」と同格であって、「脇士となるべし」の主語になると解釈している。そしてこの「宝塔の内の釈迦」は脱益の釈尊を指すと主張している。この『報恩抄』を曼荼羅との関係で議論するならば、当然『観心本尊抄』の議論も参照しなければ片手落ちになるだろう。『観心本尊抄』では同様のことを「其本尊為体本師娑婆上宝塔居空塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏釈尊脇士上行等四菩薩文殊弥勒等四菩薩眷属居末座迹化他方大小諸菩薩万民処大地如見雲閣月卿」と述べており、ここでは「南無妙法蓮華経日蓮」ではなく「妙法蓮華経」が中央にあり、その左右に「釈迦牟尼仏多宝仏」がいて、「上行等四菩薩」が「釈尊の脇士」となると述べているように読解できるのだが、漆畑はこの読解に賛成してくれるのだろうか。もし『観心本尊抄』がこのように読解できるのであれば、『報恩抄』の文章も漆畑のように複雑な解釈をすることなく、『観心本尊抄』と同様に「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝外の諸仏(が妙法蓮華経の左右にいて)、并に上行等の四菩薩(が釈尊の)脇士となるべし。」と読解して、「本門の教主釈尊」と「宝塔の内の釈迦」とを別の存在であると解釈する必要がなくなるだろう。漆畑が私の『観心本尊抄』の読解に賛成してくれなければ、これは漢文読解の問題になるから、私にはこれ以上漆畑を説得することはできず、彼と私では使用している言語が違うということに帰着する。
次に漆畑が「三位日順師の『誓文』に、『本尊総体の日蓮聖人』」と書いてあることを根拠に人法一箇論の証拠であると主張していることについて言えば、この『誓文』は起請文の範疇に入る文献であり、起請文については佐藤弘夫の『起請文の精神史』で詳論されているが、『誓文』でも「仏滅後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大漫荼羅・所在の釈迦多宝十方三世諸仏・上行無辺行等普賢文殊等の諸薩?・身子目連等の諸聖・梵帝日月四天竜王等・刹女番神等・天照八幡等・正像の四依竜樹天親天台伝教等・別して本尊総体の日蓮聖人の御罸を蒙り、」と述べて、日順のコスモロジーの中で上位に位置する「大漫荼羅・所在の釈迦多宝十方三世諸仏」等が理念的に勧請され、最後に有縁の具体的な仏神である「本尊総体の日蓮聖人」が「別して」勧請されるという形式を踏んでいる。もし人法一箇の日蓮本仏論が日順にあったら、その日蓮がコスモロジーの下位にあるということは説明されなければならない。むしろ「本尊総体の日蓮聖人」という表現は、この『誓文』という起請文が書かれた「報恩会」の会場に曼荼羅が奉安されていたから、誓約を破ったら曼荼羅にその名前が記入されている日蓮の罰を受けても構わないと誓約しているに過ぎず、もしその会場に日蓮御影が安置されていれば、『清長誓状』にあるように「ほんぞんならびに御しやう人の御ゑい」を有縁の仏神として、それに誓うという形式をとったであろう。
最後に漆畑は『諸宗問答抄』を日蓮親撰としているが、このテキストは西山日代の写本が中途まであるとはいえ、少なくとも系年が『日蓮正宗富士年表』が想定する「建長7年」であるとすれば、日蓮の著作とは言えない。すでに『日有の教学思想の諸問題』でも触れておいたが、冒頭で「問うて云く抑法華宗の法門は天台妙楽伝教等の御釈をば御用い候や如何」と述べて返答者である日蓮を「法華宗」として名指しており、その少し後の箇所で「答て云く天台の御釈を引かれ候は定て天台宗にて御坐候らん」と述べて質問者の宗派を「天台宗」と表現している。建長7年は立宗宣言からわずか2年後であり、まだ『守護国家論』も『立正安国論』も執筆されていない時期であり、日興を含む主だった弟子や檀越も入信していない。このような早い時期に宗派の独立を明言しているのは理解困難であり、これより後の文献である『法華経題目抄』では「根本大師門人 日蓮撰」とあり、天台宗に所属していることを明言していることとも矛盾する。恐らくは日代が日興や日順から日蓮教学として学んだことを日蓮に仮託して書いたか、それとも系年が大幅に間違っているかのどちらかであろう。漆畑は文献批判が嫌いなようだが、私のような素人とは違って、日蓮教学研究のプロなのだから、もう少し慎重に検討すれば、このような疑問ぐらいは生じるだろう。