漆畑は私が『開目抄』の「文底秘沈」という言葉に関して、法華経のどの文を指しているかについて、三位日順、日有、日寛に見解の相違があり、それゆえこの教義的に重要な問題に関して相承がきちんと行われていないのではないかと批判したことに対して次のように述べる。
「第二章 浅識からなる教義的誤謬を破す
血脈断絶論を破す
宮田は、
血脈が正しく相承されていないという証拠を『開目抄』の「文底秘沈」の文はどれかという日興門流の議論をたどることによって示した(宮田一七八)
等と述べている。『有師談諸聞書』の中で日有上人は、日昭門跡の「然我実成仏已来」の文を文底とする説を被折し、「如来秘密神通之力」の文の文底であると述べられている(富要ニー一五二)。一方、日寛上人は『三重秘伝抄』等に本因妙の文底であると述べられている。宮田によれば、これらは歴代上人同士の見解の相違であり大石寺に(49)唯授一人の血脈相承が存在しない証拠であるというのである。
これについては平成十七年度御大会の砌、前御法主日顕上人が、
ある記録文書によりますと、九世日有上人が『開目抄』の文底に関する文について『文底とは如来秘密神通之力の文の文底』と語られているということがあり、これに対し日寛上人は、前述の如く本因妙の文とされるところの、文の示し方に相違があるということを問題にする浅識者がおります。しかし前来述べる如く、日寛上人は久遠元初名字本因妙を示すに当たり、文上の寿量品二千余字中、すべて本果の釈尊の化導を説くなかで、わずか十八字の本因妙の文が文と義において便りがある故に、この文を寿量文底の本因本果であると指摘されたのであります。また、日有上人は本果釈尊の一身即三身三身即一身を示す「如来秘密神通之力」の文の文底に、本因本果久遠元初名字三身相即の釈尊すなわち末法出現の日蓮大聖人と、その御所持の妙法蓮華経のましますことをもって、文底とは「如来秘密」の文と示されたのであります。したがって日有上人、日寛上人、共に久遠元初の下種の本仏本法を示し給うことは全く同様であり、なんらの異なりも存しないと拝すべきであります (大白法六八二−二)
と、日有上人・日寛上人ともに、他門流の間違った説を破折する上で、必要上、文便の上から各寿量品の文を挙げられたのであると御指南されている。
つまり、『どの文の文底か』という議論は議論の土俵が文上にある。しかし、文底顕本とは日寛上人が『当流行事抄』に御指南される如く、内証の寿量品二千余字、文々句々全てが文底なのである。故に当家においては寿量品全てを読誦するのである。日有上人・日寛上人が文(50)上脱益摺りの義を破折する上で挙げられた寿量品の文が違うからといって両上人に見解の相違、また血脈の断絶があるなどとするのは、文底仏法の何たるかを知らない、浅識謗法者の戯言である。」
日有の『化儀抄』によればその時代の日蓮の代理人である大石寺住持の日顕から「浅識者」として断罪された一人に私も含まれるらしく、これで永不成仏決定かと一昔前なら畏れるべきなのだろうが、あいにく私が信仰している教義箇条の中にはそのような日有説は含まれていない。「浅識者」の私には日顕ならびに漆畑の言おうとしていることが全く理解できないのでここで何が理解できないかについて説明したい。上述の議論によって日顕ならびに漆畑は寿量品全体が文底という立場に立てば本因妙を示すから日有説の「如来秘密神通之力」の文底でもいいし、日寛説の「我本行菩薩道」でもいいと主張しているのだろうか。日顕によれば「文上の寿量品二千余字中、すべて本果の釈尊の化導を説くなかで、わずか十八字の本因妙の文が文と義において便りがある」と述べていることからすれば、文上から見れば寿量品の中で本因妙を示すのはごく一部分であると主張しているようだ。
ところが漆畑は「内証の寿量品二千余字、文々句々全てが文底なのである」と主張している。この文に出会って久しぶりに学生時代に読んだシェリングの絶対者解釈に対するヘーゲルの『精神現象学』における「闇夜の中ではすべての牛は黒い」という批判を思い浮かべた。漆畑は「内証の」という形容詞をつければ、寿量品の文がすべて文底の文となり、本因妙を指すと主張したいらしい。しかし日顕はそこまでは主張していない。日顕は「如来秘密神通之力」は文上では「本果釈尊の一身即三身三身即一身を示す」のだが、文底では「本因本果久遠元初名字三身相即の釈尊すなわち末法出現の日蓮大聖人と、その御所持の妙法蓮華経のましますこと」を示していると述べて、寿量品の他の文のことには言及していない。漆畑は日寛の『当流行事抄』を根拠として、上述の議論をしているので、日顕も他の文には言及していないけれども、漆畑と同意見であるのかもしれないが、ここでは日顕と漆畑との見解はとりあえず異なるとしておこう。
さて漆畑に教示していただきたいのは「内証の」という言葉にはどのような意味があるのかということである。例えば「日蓮は仏である」という文と「日蓮は内証の仏である」という文とには真理値に相違があるのだろうか。あるいはこれで分かりにくければ、「日興は仏である」という文と「日興は内証の仏である」という文とでは、前者は偽であり、後者は真になるのだろうか。文に「内証の」という形容詞が導入されることによって、文の真理値が変わる事例を示せなければ、その「内証の」という形容詞は文の真理値になんら影響を与えない無意味な言葉であるという議論は論理実証主義が得意とする論法であるが、私は宗教的教義に関する無意味な議論を排除するのにこれはそれなりの有効な論法であると思っている。漆畑の言う「内証の」という言葉は他の言葉に置き換えれば、「日蓮本仏論という立場に立ってみれば」という言葉に置き換えられそうだが、それはまた「文底の立場に立てば」という言葉にも置き換えられるようであり、漆畑の「内証の寿量品二千余字、文々句々全てが文底なのである」という主張は「文底の立場に立てば、寿量品二千余字、文々句々全てが文底なのである」と言っているに過ぎず、論理学でいうトートロジー(同語反復)に過ぎず、「青い空は青い」という文と同様に、真ではあるが、事実に関して何も述べていない文なのである。
私がながながと漆畑の「内証の」という語句に関して議論してきたのは、漆畑はこのことによって私が日寛の『開目抄愚記』を引用して、日有と日寛との見解の相違を指摘したことを無視しようとしているからである。日顕の発言は一部のみ引用されているに過ぎないから、『開目抄愚記』に言及しているかどうかはわからないが、漆畑は全く言及していない。ここで読者の便宜のために、必要箇所を全文引用しよう。(早く『富士宗学要集』や『日蓮宗全書』が電子ファイルになってほしいと念願しているが、しかたがないので老骨に鞭打って入力するが、多分明日は腰痛で一日仕事にならないだろう。)
『開目抄愚記』
「文底秘沈文。
問う、これ何の文と為んや。
答う、他流の古抄に多くの義勢あり。
一に謂く『如来如実知見』等の文なり。この文は能知見を説くと雖も、而も文底に所知見の三千あるが故なりと云々。
ニに謂く『是好良薬』の文なり。これ則ち良薬の体、これ妙法の一念三千なるが故なりと。
三に謂く『如来秘密神通之力』の文なり。これ則ち、文の面は本地相即の三身を説くと雖も、文底に即ち法体の一念三千を含むが故なりと。
四に謂く、但寿量品の題号の妙法なり。これ則ち本尊抄に『一念三千の珠を裏む』(取意)というが故なりと。
五に謂く、通じて寿量一品の文を指す。これ則ち発迹顕本の上に一念三千を顕すが故なりと。
六に謂く『然我実成已来』の文なり。これ則ち秘法抄にこの文を引いて正しく一念三千を証し、御義口伝に事の一念三千に約してこの文を釈する故なりと云々。
今謂く、諸説皆これ人情なり。何ぞ聖旨に関らん。
問う、正義は如何。
答う、これはこれ当流一大事の秘要なり。然りと雖も、今一言を以てこれを示さん。謂く、御相伝に云く本因妙の文なり云々。若し文上を論ぜば只住上に在り。故に『寿命未尽』というなり。若し住上に非ずんば、曷ぞ常寿を得ん。故に大師、この文を釈して『初住に登る時、已に常寿を得たり』と云々。当に知るべし、後々の位に登る所以は並びに前々の所修に由る。故に知んぬ、『我本行菩薩道』の文底に久遠名字の妙法を秘沈し給うことを。蓮祖の本因妙抄に云々。興師の文底大事抄に云々。秘すべし秘すべし云々。」
一読して明らかなように、日寛は『開目抄愚記』において、「内証の寿量品」を論じているのではなく、「文底秘沈文。問う、これ何の文と為んや。」という議論をしているのである。漆畑は「『どの文の文底か』という議論は議論の土俵が文上にある。」と主張するが、日寛が『開目抄愚記』において議論しているのは、文上についてなのである。漆畑が「日有上人・日寛上人が文(50)上脱益摺りの義を破折する上で挙げられた寿量品の文が違うからといって両上人に見解の相違、また血脈の断絶があるなどとするのは、文底仏法の何たるかを知らない、浅識謗法者の戯言である。」と主張してが、それは『開目抄愚記』を書いた当人である日寛を「文底仏法の何たるかを知らない、浅識謗法者の戯言である。」と非難していることになるのである。しかも日有の説である第3の「如来秘密神通之力」について「諸説皆これ人情なり。何ぞ聖旨に関らん。」とばっさりと切り捨てているのである。また漆畑の主張する「内証の寿量品」は第5の議論と同様であるだろう。
日顕の弁明を好意的に解釈して、「他流の古抄」で「『如来秘密神通之力』の文なり。これ則ち、文の面は本地相即の三身を説くと雖も、文底に即ち法体の一念三千を含むが故なりと。」と述べられている言明と、日有が『下野阿闍梨聞書』で「仰せに云はく・西山方の僧・大宝律師来りて問ふて云はく日尊門徒に開目抄に云はく・一念三千の法門は本門寿量品の文の底にしづめたり云云是は何れの文底にしづめたまふやと云ふ時、日有上人仰せに云はく日昭門跡なんどには然我実成仏已来の文という、さて日興上人は此の上に一重遊ばされたるげに候、但し門跡の化儀化法・興上の如く興行有つてこそ何の文底にしづめたまふをも得意申して然るべく候とて置きければ、頻りに問ふ間だ興上如来秘密神通之力の文底にしづめ御座すと遊ばされて候、其の故は然我実成仏已来の文は本果妙の所に諸仏御座す、既に当宗は本因妙の所に宗旨を建立する故なり彼の文にては有るべからず、さて如来秘密神通之力の文は本因妙を説かるゝなり」と述べた言明とは異なっているから、前者の言明は誤っているが、後者の言明は正しいというオースティン流の言明真理値説を採用しているとしてみよう。だが前者で「如来秘密神通之力」の文が文底秘沈の文だとされた理由は「文の面は本地相即の三身を説くと雖も、文底に即ち法体の一念三千を含むが故なりと。」と説明されており、この説明は日顕の「日有上人は本果釈尊の一身即三身三身即一身を示す『如来秘密神通之力』の文の文底に、本因本果久遠元初名字三身相即の釈尊すなわち末法出現の日蓮大聖人と、その御所持の妙法蓮華経のましますことをもって、文底とは『如来秘密』の文と示されたのであります。」という説明と同じである。したがって前者の説明が誤っているなら、論理的に後者の説明も誤っているということになる。
以上見てきたように日寛の『開目抄愚記』は日有の見解を否定していると解釈するのが普通の読み方だと思うが、そのような読み方を漆畑は「文底仏法の何たるかを知らない、浅識謗法者の戯言である。」と否定する。私には文底仏法を知れば、普通の日本語が正しく読めなくなると漆畑が言っているように思えるのだが、それについては読者の判断にお任せする。