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漆畑正善論文「創価大学教授・宮田幸一の『日有の教学思想の諸問題』を破折せよ」を検討する(4)

3−3 『本因妙口決』の問題

 

次に漆畑は『本因妙口決』に関して次のように述べる。

「『本因妙口決』について
 宮田は、
 三位日順の『本因妙口決』をもって、日時以前に『本因妙抄』が存在したことを主張する人もあるが、『本因妙抄口決』には、三位日順が生きていた時代には(45)使われなかった『日蓮宗』という用語が頻出している(『富要』2-72,「宗全』2-298)。彼のほかのテキストでは『法華宗』という用語を使用している。『日蓮宗』という用語は、天台法華宗が、日蓮系の教団に対して、『法華宗』という用語の使用を禁止した天文法華の乱以後に、自称として使用するようになるある種屈辱的な意味を帯びた用語である。また三位日順のほかの著作との思想内容上の相違も大きく『本因妙抄口決』を三位日順の著作とするのは、困難である           (宮田一五一)
と、誠に雑ぱくな議論をもって三位日順師の『本因妙口決』を偽書とし、また『本因妙抄』をも否定する。『本因妙抄』『本因妙口決』こそ宗祖本仏そのものズバリが述べられている文献であり、『本因妙口決』を偽書としなければ、上代に日蓮本仏論がなかったとする宮田の論自体が根底から否定される。故に宮田は何としても偽書とせねばならないのである。この点については宮田の悪論の根を絶つ為にも明確に破折しておきたい。
 まず宮田が述べる『本因妙口決』に『日蓮宗』との呼称が出てくるのはおかしいとの疑難について述べる。宮田は『日蓮宗』との呼称が天文法乱以後に使われるようになった屈辱的な用語であるとするが、これは全くの嘘である。天文以前、大永年間の妙本寺文書に、
 安州北部法華日蓮宗妙本寺の事 (冨要八ー八三)
と記された文書が残っている。この文書は『千葉県史』(資料編・中世3)にも収録されている真筆が残る文書である。このことからも分かるように、『天文法乱』以降屈辱的に『日蓮宗』を名乗るようになったのは大聖人滅後より『天台沙門』を名乗っていた五老僧の門流であり、富士門流にあって『日蓮宗』の呼称は屈辱的でも何でもないのである。むしろ日興上人は『申状』に、
 抑伝教大師所弘法華者猶以迹門也。先師聖人所(46)弘法華者併以本門也。浅深炳焉也  (歴全一ー七五)
 早対治爾前迹門謗法       (同七八)
と、大聖人の法華本門の仏法と、天台の像法過時の迹門の仏法とでは勝劣浅深が歴然であることを述べられ、それのみか『爾前述門の謗法』とまで述べられるのである。即ち、富士門流は積極的に大聖人所弘の仏法と天台法華宗との区別つけようとする立場であり、信条として日蓮宗を名乗ることに何の憚りもないのである。さらに日順師の『五人所破抄』には、
 天台法華宗の沙門日向日頂謹んで言上す(中略)祖師伝教大師が延暦年中に始めて叡山に登り法華宗を弘通したまふ云云  (傍点筆者・新編一八七六)
と、日向・日頂が『天台法華宗沙門』を名乗り、『祖師伝教』と述べたことに対し、
 何ぞ地涌の菩薩を指して苟しくも天台の末弟と称せんや   (同一八七七) と批判しているのである。以上は一例であるが、この他にも三位日順師が著述全般に『法華宗』の語を漬極的に用いられたものは殆ど存在しない。むしろ否定的な意味で用いることが多いのである。
 日順師の著述中、『日蓮宗』の語については、宮田が主張するように『本因妙口決』以外には出てこない。しかし『本因妙口決』では、その語が用いられる必然性があるのである。同書に、
 初に妙法五字の二とは迹門台家の題目は不変真如の理性に於いて之れを立つるなり(中略)高祖立正観抄にの玉はく妙とは不可思議○天台の己証は天台御思慮の及ぶ所の法門なり今此の妙法は諸仏の師なり、経文の如くんば久遠実成妙覚極果の極仏の境界にして爾前迹門諸仏菩薩の境界に非ず等云云、伝教云はく三世諸仏未だ手を懸けざる所と云云 (富要二ー七二)(47)
とある如く、特に台家と当家の教相上の対比が詳細に述べられている。天台大師の名を冠する『天台宗』に対して、当家の教相上の異目を述べる場合、末法本門の教主日蓮大聖人の名を冠した『日蓮宗』との呼称こそ適当であり、その呼称を用いる必要があったのである。これは先に掲げた日興上人の申状や、『五人所破抄』の内容とも符節を合すものである。
 以上述べる如く、『本因妙口決』に『日蓮宗』の語が用いられていても、それを偽撰とする根拠にはならない。むしろ『日蓮宗』の語の初見と見るべきである。
 また宮田の、
 ほかの著作との思想内容上の相違も大きく『本因妙抄口決』を三位日順の著作とするのは,困難である (宮田一五一)
との主張であるが、このような暴論が『教授』の論文とは噴飯ものである。
大聖人の御書においても、真蹟が伝わらない御書につき、思想内容から真偽を判ずるというのは最終手段である。あくまで基本は綿密な書誌学的見地より系年や真偽の判断が下されるのであり、それが土台となって、鎌倉期、佐渡期、身延期等の御書の思想的な特色が判明するのである。さらに思想内容が体系的に明らかにされても、尚かつ思想内容からの真偽判定は慎重になされなければならない。なぜならば、特定の御書にだけ述べられる特別な内容もあるからである。例えば大聖人立宗以後、建長六年の『不動愛染感見記』には他のどの御書にも見られない、
 自大日如来至日蓮廿三代嫡々相承 (校定三六)
という大日如来から大聖人への『相承』について記されている。この御書は真蹟が伝えられていることにより真撰たることが疑いないが、写本で伝承されていたとしたら、間違いなく偽撰説の生じる御書である。(48)
 このように数多くの御書が伝えられる大聖人の御著作においてさえ、真偽の判定に思想内容をもってすることは難しいのである。伝承される著述が少ない三位日順師のものにおいては尚更である。三位日順師の著作には『五人所破抄』『表白』『用心抄』『日順阿闍梨血脈』『誓文』『本門心底抄』『摧邪立正抄』『念真所破抄』『本因妙口決』『日順雑集』等が伝えられているが、そのどれもがそれぞれに特色をもった内容であり、この中から三位日順師の思想的な標準を定めて真偽を判断することなど凡そ不可能である。宮田は『本因妙口決』に『ほかの著作との思想内容上の相違』があるとしているが、宮田自身、三位日順師の思想について標準がどこにあるかなど、一切言及していない。宮田の、思想内容から真偽を判断するという態度は、極めて非常識で恣意的なものと言わなければならない。
 以上述べたように、宮田が『本因妙口決』を日順師の著作ではないとする根拠は全て否定されるのであり、従って『本因妙抄』が偽作であるとする根拠もないと断ずる。(49)」

 私は『本因妙口決』に「日蓮宗」という用語が頻出することの不自然さを理由の一つとして、『本因妙口決』が三位日順の著作ではないと判断したが、漆畑は天文法華の乱以前の日郷門流の保田妙本寺の文書を持ち出して「日蓮宗」という用語は既に使用されていたと主張している。私は他にもいろいろ課題を抱えているので、その資料までは眼を通していなかったので、おやおやこれは一本取られたかなと最初は思ったが、よく読むと「日蓮宗」ではなく「法華日蓮宗」と書いてあった。私には両者には大きな違いがあると思われる。
 両者の相違を説明するには、「法華宗」という宗号の使用を禁止するよう天台宗が要求した理由についての説明が必要であるようだ。最澄は『請入唐請益表』において、奈良仏教の中核をなす三論宗と法相宗を竜樹、世親の論書を根拠とする論宗として批判し、それに対して天台宗は法華経を根拠とする経宗であるとしてその優位を主張した(『伝教大師全集』第4冊 p. 719)。朝廷に年分度者を要請する『山家学生式』にも『天台法華宗年分学生式』(『伝教大師全集』第1冊 p. 5)という宗名を使用し、天台宗と法華経との密接な関係を誇示した。しかし最澄が実際に入唐して将来したものは円、密、禅、戒の四宗であり、朝廷には特に密教儀式が歓迎された。最澄が唐で学んだ密教は空海が将来した密教に比べると不十分なものであったので、最澄の弟子である円仁、円珍は積極的に密教を導入し、天台宗は天台法華宗という宗名を持ちながらも、密教化が進んでいた。また中国天台宗の実質的な開祖である智の『摩訶止観』で説かれる修行方法である四種三昧には観想念仏が含まれており、天台宗は法華経とは直接結びつかない多様な修行を含みながらも、天台法華宗という宗名を維持していた。
 日蓮は日本の天台法華宗が密教化した原因は円仁、円珍にあると批判しているが、むしろ最澄自身が中国天台宗にはなかった密教を積極的に天台法華宗に導入したのであり、密教を学ぶために空海に対して弟子としての礼をとったのであるが、日蓮は最澄の密教化に関する責任を追及することはない。また日蓮は日本の天台法華宗の僧侶が称名念仏の修行を容認していることを批判するが、その遠因は智が『摩訶止観』の四種三昧の中で観想念仏の修行を認めたことにあり、その観想念仏の修行ができない下品下生の衆生が行う修行である称名念仏は、法然の『選択集』における専修思想に基づかなければ、天台法華宗においても許容範囲にある。日蓮は法華経のみに基づく修行を提唱するが、それは智も最澄も求めていなかった修行であり、天台法華宗からすれば、兼修が当然のことであり、日蓮が法華専修を求めるのは、法然の称名念仏の専修思想と同様の異端の議論と見なされうるものであった。

 日蓮死後、田舎にいた日興には幕府からの特別な要求はなかったが、鎌倉に活動拠点としての道場、寺院を持っていた日昭、日朗は、幕府から国祷を要求され、その所属宗派を明示する必要に迫られたときには、非公認の法華宗、日蓮宗という名称を使用することができず、天台法華宗に所属することを明示して、宗教活動を容認された。日朗の弟子日像は何度も弾圧を受けながらも京都に活動拠点を持つことに成功し、建武の新政のときに後醍醐天皇から「妙顕寺は勅願寺と為して、殊に一乗円頓の宗旨を弘め、宜しく四海泰平の精祈を凝すべし」という綸旨を得ることに成功した。日朗門流ではこの綸旨の獲得をもって宗派公許を喧伝した。この綸旨は日蓮が鎌倉幕府に執拗に要求した他宗の禁圧を含むものではないが、天皇の勅願寺としての寺格と布教活動を認めた文書であり、また後に足利将軍の祈願所にも認められたから、日蓮系教団は京都においては朝廷、幕府の両方から宗派としての独立を認められたといってよい。ただしこの綸旨には「一乗円頓の宗旨」という表現が使用され、それは「法華経の宗旨」を意味していた。つまり綸旨は日蓮派法華宗を公認したのであり、法華経と関係のない日蓮宗を公認したわけではなかった。応仁の乱の後に、京都の商工業者に日蓮系教団が浸透すると、天台法華宗との対立が激しくなったが、天文法華の乱のときに、天台法華宗が日蓮系教団に法華宗の宗号停止を要求したのは、綸旨で認められた日蓮派法華宗の公認取り消しを要求したのに等しかった。乱の敗北後、日蓮系教団は京都を追放されたが、後に延暦寺に多額の上納金を納め、他宗批判をしないという条件で京都に戻ることを許され、天台法華宗に遠慮して、法華宗以外に日蓮宗という宗号を使用するようになった。
これは関西における歴史的事情であり、関東では天台法華宗は大きな武力を持つこともなく、宗号にはそれほどこだわらなかったようであるから、日蓮系教団がそれぞれ宗派公認問題とは別次元で、自称で宗号を使用していたと見てよいだろう。だから屈辱的な意味ではなく、主体的に「日蓮宗」という言葉を使用していてもありかなとは思われるが、そのうえで保田妙本寺の宗号を見ると「日蓮宗」ではなく「法華日蓮宗」という宗号を使用している。これは天台法華宗と区別する意味で日蓮派法華宗と名乗っていると解釈することもでき、法華経との関連が明示されている。したがって法華経との関連を明示しない「日蓮宗」とは大きな隔たりがあると私には思われるのだが、どうだろうか。

そのうえで漆畑の『本因妙口決』で「日蓮宗」という用語の使用に関する議論を見ていくと、天台法華宗と日蓮系法華宗との区別をするために、「日蓮宗」という用語の使用の必然性があったのであり、「日蓮宗」という用語使用の初出であると主張している。法華経迹門に基づく天台法華宗と法華経本門に基づく日蓮系法華宗との区別は漆畑が言うように日興以来の日興門流の特徴的な議論であるが、日興は『四十九院申状』では「法華宗」という宗号を使用し、また幕府、朝廷への『申状』では宗号を使用せず、「日蓮聖人弟子」を宗号の代わりに使用している。前者においては四十九院が天台法華宗に所属するからその宗号を使用し、後者においては日蓮系教団が公認されていないから宗号を使用しなかったと思われる。
天台法華宗と区別するために日蓮系教団を指す場合どのような宗号を使用していたかを調べてみるのも無駄ではあるまい。(検索に便利なので、nb資料室作成の「富士宗学要集目次」を使用させていただいた。頻繁に使用させていただき厚く感謝申し上げる。)三位日順の場合、『五人所破抄』では日蓮系教団を指す場合に宗号を使用せず、「迹門」「本門」の用語で区別し、「法華宗」は「天台法華宗」の意味で日向、日頂の『申状』の引用文中で使用されている。『表白』や『用心抄』でも宗号の使用はなく、台当の区別は「迹門」「本門」という用語でなされている。『誓文』や『本門心底抄』でも宗号は使用せず、「当家」「当宗」「自門」「自宗」などと呼んでいる。『日順阿闍梨血脈抄』では1箇所だけ日蓮系教団の通称として「法華宗」という宗号を使用している。『摧邪立正抄』では「天台法華宗」と同義として「法華宗」を使用している箇所と、「法華宗を難ずるは大謗法の義なり、汝等専ら諸宗謗法の義門に同じて弥大聖の本意を失ふ異類なり。」と述べて、自派を含めて日蓮系教団を「法華宗」という名称で肯定的に呼んでいる箇所とがある。あるいは「他宗の難破は今且く是れを置く、法華門徒豈に愁嘆せざらんや。」と述べて、日像門流の非難に対して、自派を含めて「法華門徒」と呼んでいる箇所もある。自派のみを指す場合には「富山」などを使用している。『念真所破抄』では「天台法華宗」と区別するため「近代出来の法華宗」、「当世法華宗」、「法華宗と号する一類の邪師」などと他の宗派から呼ばれていたことを示す箇所と、「法華宗は源と久成如来の付嘱を受けて専ら広宣流布の妙法を弘む」や「今流布の法華宗は結要付嘱の明拠・上行菩薩の所伝なり。」と述べて、自派を積極的に「法華宗」と呼んでいる箇所もある。『日順雑集』では波木井実長が日蓮によって「法華宗」に帰依したことや「天台宗」と「法花宗」との相違を述べるなど、「法華宗」「法花宗」を肯定的に使用している。これらに対して唯一『本因妙口決』では「日蓮宗」のみを使用し、「天台法華宗」の使用もなく「天台宗」で統一されている。以上三位日順の宗号使用の事例を見てきたが、台当の相違を強調しているのは、多くの三位日順の著作が示しているところであり、特に『本因妙口決』のみに限ったことではなく、漆畑が主張する『本因妙口決』独自の必然性は私には見えない。

ついでに三位日順以後の宗号使用の事例も検討してみよう。漆畑は『本因妙口決』における三位日順の「日蓮宗」という宗号使用は最も初期の事例だと主張するが、その宗号使用はどのように継承されたのであろうか。日順と同時代の日道の『三師御伝土代』には「熱原の法華宗」という用語と、既に述べた日頂日向の申状の引用とがある。前者は日道が自派の信者をその用語で呼んだものであるから、「法華宗」という宗号が日道周辺でも使用されていたことがわかる。既に引用した『五人所破抄見聞』には自宗を「法華宗」「法花宗」「本門法花宗」と呼んでいる箇所と日頂日向の申状の引用がある。日時写本とされる『本因妙抄』には「法華本門宗」という宗号が使用されている。『本因妙口決』ではこの「法華本門宗」が使用されずに、「日蓮宗」が使用されている。次に『富士宗学要集』では西山8世日眼作とされた『日眼御談』には「日蓮宗」が多数使用されているが、『日蓮正宗富士年表』には西山8世日眼は掲載されているが、『日眼御談』の書名は掲載されていない。(富士年表作成委員として、阿部信雄、早瀬義寛の名が出ているので、『日眼御談』が西山8世日眼作ではないというのが日蓮正宗の公式見解と見なしてよいだろう。)
次に資料が比較的豊富な日有の使用例を検討しよう。『有師化儀抄』では「法華宗」「法花宗」が多数使用されているが、「日蓮宗」の使用例はない。『有師談諸聞書』では「当門徒」「法華宗」が使用されている。『雑雑聞書』では宗号の使用はなく、「当家」「当流」「当宗」「当門流」「富士門流」が使用されている。
次に『有師物語聴聞抄佳跡上』であるが、筆者の大石寺31世日因が 「日因私に云く此の丁聞書誰人之を記するや未だ其の人を見聞せざるなり、然るに南条日住の聞記百二十一個有り之に准して之を思うに恐くは是南条日住の聞書なるべし或は亦日有上人の御直記なるか。」と冒頭に書いてある通り、聞書自体の筆者は不明であり、しかも日因の資料鑑定能力の低さは「末世に於て日蓮か形をきざみつる事は泉阿闍梨無んば造仏しがたし、爾も闍浮第一の弟子なり、然るに予は妙法蓮華経の中の字を取て日蓮と名乗り候間彼の泉の阿闍梨には法の字を取て日法となづけて候、然る間日蓮や前き日法やさき日蓮やさきと云ふ意を以て日法となつけて候、定て弟子達うらやましくやをもはんずらん、又はあだみめねみやすらん、兎に角末代に於て法華宗たらん者は日法一人を信仰せば日蓮を信仰するに成るべきなり。」という現在の日蓮正宗のどの僧侶も認めないであろう御書を引用して、日興によって違背の僧として断罪された日法を賞賛するということを見ても分かろう。このように信憑性の薄い資料に宗号として「法華宗」「法華本門宗」「本門宗」の他に「日蓮宗」も多用されている。
次いで資料の多い左京日教の使用例を見てみよう。『百五十箇条』では「本門法華宗」「法花宗」という宗号を使用している。『穆作抄』では「法華宗」「法花宗」を使用している。『五段荒量』では「法花宗」を使用している。『類聚翰集私』では「法華宗」「日蓮法華宗」「法花宗」を使用しているが、「日蓮宗」の使用例はない。『六人立義破立抄私記』には「法華宗」「法花宗」が使用され、『四信五品抄見聞抜書』には「法華宗」「本門法華宗」「法花宗」が使用されている。

以上見てきたように「日蓮宗」という宗号が使用されているのは問題となっている『本因妙口決』、日蓮正宗から認められていない『日眼御談』、資料的に信憑性を欠く『有師物語聴聞抄佳跡上』のみであり、日道から左京日教に至るまで「法華宗」を宗号として使用し、特に必要な場合は「本門法華宗」(『五人所破抄』、『百五十箇条』、『四信五品抄見聞抜書』)「法華本門宗」(『本因妙抄』)「日蓮法華宗」(『類聚翰集私』)という宗号を使用している。日興門流で教学上大きな活躍をした三位日順の『本因妙口決』に「日蓮宗」の宗号が使用されながらも、それ以後日興門流で使用されなかった理由をどのように説明できるのだろうか。(前に保田妙本寺の資料に「法華日蓮宗」という使用例があったことについて述べたが、左京日教が『類聚翰集私』で「日蓮法華宗」と述べたことと同様な意味、すなわち日蓮派法華宗という意味の使用例だと私は解釈している。)
ついでに一言述べれば、私はその歴史的事実を疑っているが、堀日亨によれば、日蓮は晩年の弘安4年に日目(『日蓮正宗富士年表』では日興)に朝廷へ申状を代奏させ、翌年園城寺の学僧の審議を経て、天皇(後宇多天皇か)から「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」という下文(綸旨)を得たという。身延にいた日蓮に対して「富士山麓」という下文を与えたということも奇異だが、日像に対する後醍醐天皇の綸旨には発給者の氏名官職が記載されているが、この園城寺経由の綸旨にはそれが発給された事情が全く明らかになっていず、この出来事を歴史的事実だと主張するのは、日蓮正宗関係者のみであろうと思われるが、少なくとも日興の晩年にはそのような文書の存在が日興門流で主張され、「日蓮御影、園城寺申状、下文」を三箇の重宝として日興が弟子の日目、日善、日仙にその守護を厳命し、三人の誓状とされるものが残っている。この下文には「法華」と明言されており、この誓状が書かれたときには、三位日順は健在であったから、もし下文の文言が上記の通りであったら、「法華」という言葉が使用されていることを知っていたと思われるが(『日順雑集』には三人の誓状が引用されている)、そうすれば宗号として「法華宗」を使用するのが自然だと思われる。
次に私が三位日順の著作に関する考察を抜きにして、他の著作と『本因妙口決』との思想的差異から日順作であることを疑問視したことに対して、漆畑は非難しているが、三位日順は初期の日興門流を知るためには重要であるから、日蓮正宗論で別項を立てて論じる予定であるとだけ言っておこう。

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