次いで、漆畑は『御義口伝』に関して次のように述べる。
「『御義口伝』等について
宮田は、
筆者が日蓮本覚思想文献について強い疑義を持っているのは、それらの文献が真蹟、直弟子写本もなく、またそれらを引用した議論もないということにあ(41)る。この日有の無作一仏の議論に同じような議論を展開している『御義口伝』の反映が全く見られないということは『御義口伝』がその当時存在していなかったという疑いを強くさせる (宮田 一五六)
と述べて、『無作三身』等の用語が出てくる本覚思想をもった御書で御真筆・直弟子写本がないものを偽撰の疑いがあるとする。さらに、日有上人の著述に『無作一仏』の語があるのに対し、『御義口伝』に多用されている『無件三身』の語がないのは不自然であり、
『御義口伝』がその当時存在していなかったという疑いを強くさせる (宮田一五六)
等と主張する。そして、いわゆる本覚思想が述べられる御書を否定した結論として、日蓮本仏が後代に創作されたものであるという暴論を展開するのである。
まず、日有上人が御著述に『無作三身』の語を用いていないことをもって『無作三身』が多用される『御義口伝』を偽撰視する宮田の邪説について一言する。
宮田は、日有上人の基本文献を『化儀抄』『連陽房聞書』『下野阿闍梨聞書』の三つと勝手に定めている。わずか三つの文献をもって日有上人の思想を規定し、またその中に『無作三身』の語がないことをもって当時『御義口伝』が存在しなかったなどというのは、柄の無い所に柄をすげるが如き牽強付会の最たるものである。住本寺(のちの要山)から大石寺に帰伏し、日有上人から直接薫陶を受けた左京日教師の『類緊翰集私』(富要二)には『無作三身』の語が度々用いられ、また、
正像末の中に末法の本尊は日蓮聖人にて御座なり。然るに日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次其次に仏法相属して当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり(冨要二−三〇九)
と大聖人こそ末法の本尊であり、その法体は歴代の御法主により受け継がれるという日蓮正宗伝統の宗祖本仏(42)義・三宝義が述べられている。このような明確な宗祖本仏義は久遠実成の釈尊に拘泥する住本寺(要法寺)には見られない思想であり、また、本尊の体たる大聖人の法体血脈を歴代上人が受け継ぐというのも大石寺のみに伝わる正義である。左京日教師が述べる如上の宗門伝統の宗祖本仏義は、日教師が帰依した日有上人の薫育によっていると拝するのが当然である。その日教師が『無作三身』の語を度々用いられていることからも、日有上人の当時に無作三身の語を以って本宗の教義が論じられていたことは明白である。よって日有上人の著述に『無作三身』の語がないということを根拠に『日有上人御在世に『御義口伝』が存在していなかった疑い』(取意)があるという宮田の邪説は雲散霧消するのである。
また、かつて本覚法門が述べられる御書を『文献批判』という手法で偽撰扱いした学者に浅井要麟がおり、その弟子で『御義口伝の研究』、『日蓮教学上に於ける御義口伝の地位』等の論文を発表し『御義口伝』を偽撰視した学者に執行海秀がいる。これらはすでに宗門から破折されたところであるが、宮田が展開する『御義口伝』に関する疑難も浅井、執行らの説と軌を一にするものである。
日興上人は『遺誠置文』に、
当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して (新編一八八四)
と仰せられ、当家においては大聖人直受の師伝すべき極理が存在することを述べられている。日興上人がその一端を記されたものが『御義口伝』なのである。大聖人が『三沢抄』に、
たつのロにて頸をはねられんとせし時よりのち、ふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をいはざりけるとおもひて、さどの国より弟子どもに内々申法門あり (校定一四八二)
と、ロ決の『内々の法門』の存在が記されている。その(43)一方で大聖人は『四菩薩造立抄』に、
地涌の菩薩やがて出させ給はんずらん。先其程四菩薩を建立し奉るべし(校定一七四七)
と仰せられ、『雖近而不見』の富木常忍に対し、上行の再誕たる立場を控えられ、地涌の菩薩の未来出現を述べて、造仏を制止されている。これは、大聖人の御本仏としての境界を知ることのない者に『まこと』の法門を示せば、還って法門に侮りを生じさせることになる故、時に不如意ながらも摂受的な御化導をされたものである。即ち御書の文面だけに大聖人の本意が顕れているのではない。大聖人が入室の弟子に対し、内々に相伝された法門こそ大聖人の随自意の法門を見解く活眼というべきものであり、それなくして正解を得ることはできないのである。
実例を示してみる。『開目抄』『観心本尊抄』は人法本尊開顕の書であるが、特に『開目抄』には、
夫一切衆生の尊敬すべき者三あり。所謂主・師・親これなり (校定五八六)
日蓮は日本国の諸人に主師父母也 (同六六〇)
と末法の主師親が御自身であることの記述がある。この「主師父母」につき不相伝家は一様に読み違えている。
寂照日乾の真蹟対照本、および刊本録内、また明治の高祖遺文録まで殆ど全ての御書が「シタシ父母」「シタシキ父母」と記述し、安国日講の『啓蒙』(九−八九ウ)でも、それを採用して注釈している。しかし先述の左京日教師は『類聚巻集私』に、
開目抄に云はく日蓮は日本国の一切衆生の主なり親なり師匠なり(富要二ー三一二)
と記しており、『関目抄』の該文は大聖人が自ら、末法の主師親三徳兼備の本仏たることを表明されたものとして拝していたことが伺える。当家と不相伝家の文の拝し方につき、どちらが正しいかなど論ずるまでもない。「シ(44)タシキ父母」では「シタシキ」と「父母」との意味の重複であり、日寛上人も御指摘される如く、標文の「夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり」との文と意味が対応しない。
大石寺門流伝統の、末法の主師親が日蓮大聖人であるという拝し方こそ大聖人の御本意を伝えるものである。この事例から明らかな如く、富士門流では、御書の重要な文につき、たとえ御真蹟を見ることができなくても、正しい文意を伝えている。これは、大聖人・日興上人以来、御書のみならず極理を師伝しているからに他ならない。付け加えれば大聖人が『開目抄』に、自ら主師親三徳兼備の仏であることを表明されている以上、宗祖本仏義が後代の創作であるなどとする宮田の邪説は一時に吹き飛ぶのである。
また、大聖人が身延において法華経の御講義をされていたことは『忘持経事』などの御書により伺われるが、『御義口伝』等の口伝法門を伝える御書が偽撰であるならば、身延における御講義や、大聖人の『内々に申す法門』は全て無に帰してしまったということになる。
先の『開目抄』の正意が富士門流だけに伝えられているという実証からも、富士門流に伝えられた『御義口伝』等の口伝法門や、極理を一身に受け継がれる歴代上人の指南こそ、仏法の活眼なのであり、逆にそれを無視してはどんな智者学匠でも法門の網格に迷い、正解を得ることはできないのである。文献批判の糟糠に執し大聖人の本意に迷う宮田も同轍である。(45)」
私が、『御義口伝』では「無作三身」の用語を使用して説明している事柄を、日有が「無作一仏」という用語で説明していることから、日有が『御義口伝』の存在を知らないのではないかと推定したことに対して、漆畑は左京日教の『類緊翰集私』には「無作三身」が使用されており、それは日有の『御義口伝』を通じた薫陶によるものだという議論をしている。しかし左京日教の『類緊翰集私』において「無作三身」がどういう文脈で使用されているかを見てみれば、それは『三大秘法抄』で「寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり」と述べている箇所や『百六箇抄』で「無作三身寂光土に住して三眼三智をもつて九界を知見す云云。」と述べている箇所との関連において使用されているのであり、その出典は日有経由の『御義口伝』ではなく『三大秘法抄』ならびに『百六箇抄』なのである。それくらいのことはネットでキーワード検索すればすぐ分かることなのだから、富士学林研究科で長年教学研鑽を積んできた漆畑に分からないはずがないと思われるのだが、分からなかったとしたらその無能を示していることになり、分かっていながら上記の主張をしているのなら、学問的議論をする者としては不誠実な態度である。
その次に、浅井要麟、執行海秀の『御義口伝』偽撰説に対して宗門から破折されていると漆畑は述べているが、宗門から反論を出すだけで決着するような問題ではなく、むしろ印仏学会などの専門学会で、学会発表、学術論文での論争の上で決着するのでなければ学術的な議論をすることはできない。少なくとも日蓮正宗を代弁する形で、専門学会でそのような主張がなされたということを私はまだ聞いていない。また漆畑は『遺誠置文』を日興作として引用しているが、日興直筆本もなければ、日道以前の写本もなく、また日道作とされる『三師御伝土代』の「日興上人御遺告」の内容とも相違し、またその言及もない『遺誠置文』を日興作と断定することはできないだろう。
また漆畑は『四菩薩造立抄』を日蓮親撰としているが、この文献は冨木常忍宛ではあるが、冨木常忍は多くの日蓮真筆書簡を保存し、また『常修院聖教録』で保管していた本尊、聖教等を克明に記録していたのであるが、その目録にも見当たらず、中山3世日祐の『本尊聖教録』にも見当たらず、また内容的にも迹門不得道(=迹門不読)への批判を述べている点で偽撰の疑いが非常に濃厚な文献資料であるが、私の論文に対して学問的批判をしようとする漆畑がこのような資料までも日蓮親撰と見なしているとは私には信じられない。もしこんな文献が存在していたのであれば、日興門流で重要視された天目の迹門不読説への反論など容易にできたであろうに、『五人所破抄』でもこの文献は全く言及されていない。このようないい加減な文献考証を基にしなければ、日蓮の随自意の法門が理解できないと言うのであれば、その法門は学問的に議論する価値がないというのに等しいのではないだろうか。
次に『開目抄』についての解釈であるが、私が日蓮正宗ならびにその系統を汲む創価学会の『開目抄』解釈に対して疑問を持っているのは、『開目抄』全体の構成を無視して解釈するという点である。『開目抄』を学術論文として考察した場合、主題は漆畑が指摘するように、冒頭の「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり。」という文である。そして儒外内の主師親を順番に考察し、「三には大覚世尊は此一切衆生の大導師大眼目大橋梁大船師大福田等なり」と述べて、内道(仏道)の主師親を明示する。ところがこの大覚世尊の教説は多様であり、その中でも法華経のみが勝れており、その理由は一念三千が法華経のみに説かれているからであり、特に一念三千の中でも重要な二乗作仏と久遠実成は法華経のみに明示されているからだと議論を展開する。そのうえで法華経は未来の修行者のあり方を予言した経典であると日蓮は解釈し、法華経には安楽行品に記述された難を受けない修行者と勧持品に記述された難を受ける修行者とが予言されているが、末法の「破法」の国においては、後者の修行が適切であるとし、日蓮こそ勧持品に予言された修行を実践している「法華経の行者」であり、「日蓮は日本国の諸人にしうし父母(主師親)なり」と述べて、末法時代の日本における主師親が日蓮であることを明示するという議論の構成となっている。
ここで重要なのは主師親として始めの部分で「大覚世尊」が明示され、末尾で「日蓮」が明示されているが、両者の関係はどうなっているのかということである。『開目抄』だけを文章に即して普通に読めば、仏道の主師親は大覚世尊、とりわけ法華経の久遠実成仏であり、日蓮は末法時代の「破法」の国である日本という限定された時代と国における主師親であるということになるだろう。日蓮の他の文献を読めば、日蓮自身は、自分の教えが日本に限定されることなく、月氏(インド)まで広まることを予言しているから、実質的に末法の主師親としての自覚があったということは論理的に成立すると思われる。だから私は日蓮正宗や創価学会の解釈である、日蓮が末法の主師親であるという解釈には同意している。しかしこの『開目抄』においては、末法の主師親である日蓮が、法華経の教主久遠実成仏よりも勝れているという議論までは展開していない。
日興写本のある『上野殿御返事』には「今末法に入りぬりば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし、」という文があり、末法においては久遠実成仏の教説である法華経よりも、日蓮の教説である南無妙法蓮華経が勝れているという主張をしているから、久遠実成仏よりも日蓮が勝れているという主張もこの箇所だけを見れば可能であるが、それに続く「かう申し出だして候もわたくしの計にはあらず、釈迦多宝十方の諸仏地涌千界の御計なり、」と述べて、この主張の根拠を『法華経』に求めているのであり、『観心本尊抄』の末尾において、「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う、四大菩薩の此の人を守護し給わんこと太公周公の文王を摂扶し四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざる者なり。」と述べて、妙法五字を授与する仏が、四大菩薩を召集した久遠実成仏であることを示していると解釈するならば、末法の主師親としての日蓮は、あくまでも仏道全体の主師親である久遠実成仏から、末法の衆生救済という権限を与えられたと日蓮自身も認めていると私は理解している。もし「主師親」という用語が仏だけに適用される術語規定であり、菩薩には適用できないという用語法が仏教内部で確定しているならば、日蓮は末法の主師親であるから、末法の仏であるという主張をしてもかまわないだろう。しかし私は日蓮が使用した「主師親」という用語が仏のみを述語づける用語なのかどうかということについて、専門学会の議論があるのかどうかも知らないので、これ以上の議論はできないから、このことに詳しいどなたかに教示していただければと思っている。
次に漆畑が指摘するように晩年の身延において、日蓮が弟子たちに講義をしたことは事実であると私も考えているが、その講義録が『御義口伝』として伝えられたということは、希望としてはあっても、論証することは困難だと考えている。せめてその講義の一端が、例えば、日興の薫陶を受けた重須学頭の三位日順の文献にでも引用されていれば、信用性は一挙に高まるが、本覚思想について論じている『日順雑集』にも見当たらない現状であれば、日蓮の講義録は作られたとしても、散逸してしまったと諦めるしかないだろう。