漆畑は序論において以下のように、議論の展開を示している。(以下引用中の( )内の数字は『富士学報』のページ番号を示す。)
「 序 論
創価大学の宮田幸一は学術研究に名を借りて日蓮正宗批判、および創価学会擁護論を展開している。その内容は最終的に、
@「日蓮本仏論」は宗開両祖の頃にはなく、日時上人・日有上人によって創作展開されたものである。
Aまた「日蓮本仏」はその継承者としての大石寺住持の権威を認めることにつながりやすい(=創価学会の自立の障害になりやすい)(※要旨 宮田一七九)
として、「日蓮本仏」を否定してしまえば、それ以後の歴代上人の存在を全て否定でき、創価学会に好都合であるというのである。まことに自分勝手で、慙愧の欠片もない言い分である。
宮田の論は杜撰な文献考証を元に、自分に都合の良い文献のみを用い、自説の展開に支障のある文献は全て否定するというところにベースがあると思われる。つまり宗祖本仏につながる『本因妙抄』『御義口伝』等の御書(38)や、内容の関連する三位日順師の『本因妙口決』等の文献、および大聖人から日興上人への『二箇相承』は全て疑義ありとしてその存在を認めないのである。
宮田のロジックが恣意的で杜撰な文献考証の上に展開されていることを考えれば、逆にその文献考証の誤謬を破折することにより、宮田の議論の土俵を壊すことができ、その邪説を一刀両断できると考えられる。また宮田が『二箇相承』を否定し『本因妙抄』『御義口伝』等を新たな角度から偽撰視することこそ、由々しき問題であり、宗祖本仏義を受け継ぐ当家として明確に破折しなければならない問題とも考えられる。
よって当論では宮田の誤った文献考証をまず破折し、後に宮田論文(論文中、「宮田」と略称)の主要な内容である、宗祖本仏義否定を破折することとする。(39)」
その上で、「本論 第1章 文献考証の杜撰さを指弾す」としていくつかの文献考証を展開し、「第2章 浅識からなる教義的誤謬を破す」として宗祖本仏論の議論を展開する。第1章の文献考証に関する問題は、宗派を超えた学術的な議論が可能な問題であり、私としても興味がある問題なので、きちんと検討したいが、第2章に関しては、文献考証や解釈の問題ならば検討のしようがあるが、「文底読み」などという議論になると検討もできないことをあらかじめお断りしておく。
漆畑は『二箇相承』の問題について以下のように議論を展開する。
「 二箇相承について
先にも述べたが、宮田が否定する文献とは二箇相承および『御義口伝』『本因妙口決』等である。まず、二箇相承についてであるが、宮田がそれを否定する根拠として、
日興から日道に至るまで、日興門流が日蓮の正義を維持しているが、他の門流はそこから転落したという意味での日興正統論はあるが、血脈相承の議論は全くない。相承書は問題が生じたときに裁判資料として使用される性質の文書であり、日興が身延離山の時や、他の門流との教義論争の時に、その資料を使用しなかったのは当時の裁判制度から見れば理解しがたいことであるから、私は二箇相承が存在しなかったと考えている(宮田一七八)(39)
と述べている。つまり、大石寺に大聖人以来唯授一人の血脈相承なるものは元々存在しないと言いたいのである。そもそも身延離山とは日興上人が大聖人正統の後継者か否かを争ったものではなく、訴訟で解決できる案件でもない。それは『原殿御返事』の内容を検討すれば一目瞭然である。同書に、
いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ詮にて候へ(聖典五六〇)
とあることからも明らかな通り、日興上人は身延を追い出されたのではなく、大聖人の正義を守るために自らの意志で身延を後にされたのである。また、離山の原因である地頭の謗法を改めさせるのに訴訟をもってそれを行うなど、およそ不可能である。なぜなら、仏像造立や社参そのものは世法の上で直ちに不当な行いではないからである。宮田が「当時の裁判制度」などと主張し二箇相承を否定するのは、こけおどし以外の何物でもない。
また南条時光の子で妙蓮寺四世の妙蓮寺日眼師は『五人所破抄見聞』の中に、
一瓶法水を日興に御付嘱あり、日興も寂を示玉次第に譲玉て当時末代の法主処帰集る処の法花経法頭にて在す也、可秘不可口外、六老僧雖有法主は白蓮阿闍梨奉限也(富要四−九)
日目上人四十二度の天奏に依て禁裡より御納収の御下文備右、広宣流布必当門徒可在也 (同一一)
と、大聖人から日興上人への血脈相承を拝信し、日興上人の後に富士門流を背負て立つ日目上人の天奏の功を讃えている。
この中で特筆されるのが、日興上人への血脈相承につき『秘す可し』とされている点である。口決法門の内容は日興上人の内証に受け継がれているものであり、何人も略取が不可能なものである。また、その法門の継承者ではない日眼師が『秘すべし』と述べる必然性もない。(40)この秘すべき内容とは一体何かといえば、本門戒壇の大御本尊や相承書等の具体的な重宝を『秘す可し』とされているとするのが至当である。即ち『富士年表』の一五六九年永禄十二年の項に、
二月四日重須諸堂焼失
六月七日大石寺諸堂焼失(中略)
十二月武田信玄 駿河岩本実相寺を焼く
とあり、十三世日院上人の代に、勢力拡大を狙う武田信玄が、当時今川家に所領を安堵されていたと考えられる重須と大石寺、他にも岩本実相寺などを次々と焼き払ったことについて記されている。このように、鎌倉・室町・戦国時代など権力者が次々と台頭する状況下にあって寺院をめぐる情勢は極めて不安定であり、資産や重宝を守り抜くことは至難であった。
また西山日春が武田勝頼と通じ、重須から二箇相承および大聖人・日興上人の御本尊数十幅を奪い取ったという傍若無人な事件はあまりに有名である。それについては重須日殿の訴状が西山に現存するなど、客観的な証拠も数多く残っている。
つまり、世情が不安定な状況下で著述中に重宝の存在を書き記すことは、それを護持する上で支障があったのであり、上代の文献にその記述がないことはむしろ当然なのである。宮田が上代の文献中に二箇相承の記述がないことをもってその存在を否定するのは、あまりに短絡であり、血脈を否定せんが為の自分勝手な議論と断ぜざるをえない。(41)」
漆畑は、私が二箇相承は裁判資料としての価値があると述べたことの意味を理解していないように思われるが、私自身もその意味を十分には述べていなかったので、ここで説明しよう。私が特に注目しているのは、『池上相承書』の「身延山久遠寺の別当たるべきなり」という記述である。この文章が意味していることは、久遠寺の最高責任者である別当としての地位は、地頭の波木井実長の委任や、他の老僧たちの委任によるものではなく、日蓮自身によって指名されたということである。日興は久遠寺の別当として日蓮から譲られた権限と責任を行使する立場にあるということを意味している。その重要な責任の中には寺宝の管理・維持ということが含まれていると考えてもよいだろう。冨木常忍は『常修院本尊聖教録』に寺宝(本尊・聖教等)について克明に記録し、また『置文』において自分の死後にその寺宝をどのように管理するかを指示している。あるいは日昭にも文献的な問題はあるにしても譲状があり、寺宝などの管理を指示している。寺院の最高責任者は、寺宝の管理・維持だけではなく、場合によっては寺院を移転する権限も有していた。たとえば日朗門流の摩訶一日印の後継指名を受けた日静は京都布教のために鎌倉の本勝寺を京都に移転し、本国寺を創建した。つまり師匠から寺院の別当として指名された者は、寺院の管理運営に関しては非常に大きな権限と責任を持っていると考えられるのである。[なお京都本圀寺のHPには「本圀寺略暦」が掲載されてあり、「貞和元年(1345)日靜上人、光明天皇の勅命により、堀川小路西、六条坊門小路南、大宮大路東、七条大路北の12町に寺地を賜り、寺を都に移転する。※日靜上人は足利尊氏の叔父であり、同上人を開基とする。(鎌倉期の寺伝には異説あり)」とあり、日興の事例と単純には比較できないのではあるが。(2012/2/26)付加]
それではこれらの事例と比較して、日興は久遠寺の別当として、寺宝の管理・維持に関してどのような責任を果たしたのであろうか。久遠寺の寺宝といえるものはいったい何なのだろうか。それは現在に至るまで久遠寺に特別な地位を与えている日蓮の墓所というセールスポイントである。墓所の管理運営に関しては、墓番制度の念書を老僧間で作成し、またその制度が機能しなくなったことを嘆いた『美作房御返事』も伝えられていることから、重要視されていた責務であることが伺われる。しかし日興が地頭の不法を指摘し、並びに地頭の事実上のアドバイザーである日向への厳しい見解を示しているのにもかかわらず、日興は身延離山のときに日蓮の墓所を移さなかったのである。日興は『美作房御返事』において「地頭の不法ならん時は我も住まじ」という日蓮の遺言があったことを明記しているが、地頭の不法が生じたと日興が判断したのにもかかわらず、どうして墓所を移さなかったのか、あるいは移せなかったのか、その理由が説明されなければならない。
鎌倉仏教の始祖たちの墓所はいろいろな理由で何回も移動している。法然の墓所は、比叡山延暦寺の破壊を恐れて、弟子たちが移転し、分骨し、現在は数箇所の寺院が墓所として伝えられている。親鸞の墓所に関しても、親鸞の孫の覚恵と唯善の間で墓所の管理権をめぐって争い、敗れた唯善は墓所を破壊し、遺骨の一部を関東に持っていくという骨肉の争いを展開したことが伝えられている。墓所の移転ということがありふれた事例であり、しかも日蓮の遺言があったにも関わらず、久遠寺の管理責任を日蓮から直接指名された日興が、墓所の移転をしなかったということは説明が必要なことである。日興が身延離山をしたときには、波木井実長は鎌倉在住であったから、日興が弟子、檀那を動員して日蓮の遺骨を墓所から引き上げることは物理的に可能であったと思われるし、また『池上相承書』があったなら、その法的権限もあったと思われる。たとえ波木井氏が遺骨の返還訴訟を起こしたとしても、『池上相承書』があれば訴訟に敗北することはありえない。
ところが日興は墓所の管理権を放棄し、墓所を波木井氏、日向が管理することを黙認しているのである。日興は久遠寺の別当として日蓮から委任された重要な責務である墓所の管理を放棄しているのであり、もし『池上相承書』があったとしたら、責任を放棄した無能な弟子と言わざるを得ない。私は日興が墓所を移転しなかった理由は、日興が無能で無責任であったからではなく、日興には墓所を移転させる権限がなかった、つまり『池上相承書』が存在しなかったからだと考えている。
もう一点日興が久遠寺の別当としての寺宝の管理権を持っていなかった事例を証拠立てるものとして、漆畑も引用している『原殿御返事』の追申部分の記述がある。そこでは涅槃経を自分の経典だと誤認して持ってきたが、日蓮の経典なので返却するということが述べられている。もし日興が日蓮から久遠寺の別当に指名されていたなら、それらの聖教類の管理権は日興にあり、日興が身延離山とともに、久遠寺から搬出する権利があったと当時の慣例から推測できる。日蓮の所持していた経典だから返却するという日興の記述には、自分には日蓮が所持していたものを持ち出す権利がないことを日興が認めていたことになるだろう。
私が裁判資料となると述べたのは、譲状には強力な法的効力があり、それがあれば当然実行できたであろうことが、いくつか推測できるのにもかかわらず、なんらそれらを実行していないということが不自然だから、相承書が存在しないと判断しただけであり、地頭の謗法を裁判でやめさせることなどは譲状があったとしても実行不可能な部類に入ることは当然である。漆畑は墓所を移転しなかったことや日蓮の所有物を搬出しなかったことについて、なんらかの説明が可能なのだろうか。
漆畑の引用した「いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ詮にて候へ」ということは、法の付属を受けたという『身延相承書』とは整合的であっても、久遠寺の別当の指名を受けたという『池上相承書』とは無関係である。私は日興が日蓮の一部の教義に関して他の老僧よりも忠実に、厳格に解釈して継承し、自分のみが日蓮の正義を継承しているという自負を持っていることは認めるが、その自負の根拠が『二箇相承』であるというのは本末転倒だろうと思っている。日興の正統性は『二箇相承』の問題ではなく、日興がどのような法義を継承し、他の老僧たちがそれに対してどのように解釈し、対応したかを明らかにすることによって示されうると私は考えている。
次に『五人所破抄見聞』についてであるが、私もこの資料については漆畑とは別の論点で注目している。この資料は日蓮本仏論の最古の資料の一つと見なされているが、もう一つの資料である『本因妙抄』とは別の系統の本仏論が展開されている資料である。日蓮本仏論というと「久遠元初の自受用報身・無作本有の妙法を直に唱ふ。」という本覚思想の濃厚な『本因妙抄』の記述が一般的であるが、この『五人所破抄見聞』では「威音王仏と釈迦牟尼とは迹仏也、不軽と日蓮とは本仏也、威音王仏と釈迦仏とは三十二相八十種好の無常の仏陀、不軽と上行とは唯名字初信の常住の本仏也」(『富要』4−1)と述べて、日蓮のみならず、不軽菩薩も本仏であると明示し、その理由に関して、両者とも下種の行を教示したからだと主張している。もちろん『本因妙抄』と同一の記述もあるので、両者の関係については慎重に検討しなければならないが、少なくとも『本因妙抄』を日蓮の御書として、権威的に使用している箇所はない。
またこの『五人所破抄見聞』で不軽と日蓮を並べて本仏とするという議論は、三位日順が『用心抄』で「一念信解は是本門立行の首め文、不軽には威音王の昔を引きて弘経の大士を証し、神力には釈迦の末法を以つて上行菩薩に付す、彼は読誦を専にせず、打擲すれば高声に汝等皆行菩薩道と唱へ、此は結要の付囑を受け誹謗すれば猶強ひて南無妙法蓮華経と勧めたり、礼拝と経題と殊なりと雖も、此経は大人を宣示するなり、杖木と罵詈と是れ同し信伏随従豈に然らざらんや。」と述べて、不軽と上行日蓮とを並べて本門立行の始めの修行を提示したとしていることに通じ、ここに不軽日蓮同格本仏論が形成される理論的下地を想定することも可能だろう。
さてこの作者日眼と、多分日興の正統を継いだとこの文献中では推測される日目、その後の日道、日郷の分流との関係は、不明であるので、「可秘」と書いてあるから、「口決法門の内容は日興上人の内証に受け継がれているものであり、何人も略取が不可能なものである。また、その法門の継承者ではない日眼師が『秘すべし』と述べる必然性もない。」とする漆畑の主張がよくわからない。もし法門の継承者を当時の大石寺6世日時と想定しているなら、日眼が日時から『本因妙抄』などの口伝法門を伝授されたならば、「可秘」の約束をしただろうし(当時の口伝法門が秘密厳守を約束させたうえで伝授されたことは多くの資料が示している)、あるいはその当時『二箇相承』とされる文献が大石寺ではなく北山本門寺にのみに伝承されていたなら、そちらの方を法門継承者と考えていたのかも知れず(『五人所破抄見聞』が大石寺の南条日住の写本で伝えられていることから推測すれば、日眼と大石寺の密接な関係が推定できる)、いずれにせよ、重要な資料の閲覧、法門の伝授には秘密厳守が通例であるから、「可秘」とする必然性はむしろあったと思われるのだが、どうしてこのような漆畑の結論が出てくるのか、私には理解できない。
次に『二箇相承』についての上代の記録がないことについて、「このように、鎌倉・室町・戦国時代など権力者が次々と台頭する状況下にあって寺院をめぐる情勢は極めて不安定であり、資産や重宝を守り抜くことは至難であった。」ので、「世情が不安定な状況下で著述中に重宝の存在を書き記すことは、それを護持する上で支障があったのであり、上代の文献にその記述がないことはむしろ当然なのである。」と漆畑は主張しているが、この議論も私にはよく理解できない。僧侶の譲状は私物(所領など)の遺産相続という側面と公的な寺宝の管理権の継承という側面との両方を持ち、また譲状の相手が複数の場合もあるから、私物や寺宝について区分して明記することも多かった。中山2世日高は『置文』でどの寺院の本尊と聖教を誰に譲るか、詳細に記述しているし、日朗の弟子日印も『譲状』で日静と日深とに何を譲るか、明記している。日興門流でも「日蓮御影園城寺申状御下文」の三箇の重宝の守護を命じた文書などが残っており、重要な寺宝を明記してその管理を指示することは通例であって、「記述がないのが当然である」と漆畑が判断する根拠がわからない。また日興から日道に至る資料を見ても、本尊紛失事件などについて記述はあるが、かなり後世の出来事である戦国時代に生じたような甲斐と駿河との争いが起こらなければ、戦略的に見ても重要でない富士周辺の寺院運営に武士による危険が迫っている様子は伺うことはできない。