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『本尊問答抄』について(1)

 

1 問題の所在

 私は既に発表した『日有の教学思想の諸問題』の付録「『創価学会研究』理念編第1部『日蓮正宗論』の概要」において次のように述べた。
 「日蓮本仏論を採用しなくても、創価学会が日蓮の正統を継承しているということは、日蓮正宗も他の日蓮宗も、日蓮の『本尊問答抄』の議論に反して法本尊以外に人本尊を立てているが、創価学会だけが日蓮の教えの通り法本尊のみを本尊としているという点に求めることができる。」
 さらに追記として次のような文章を付加した。

 

 「追記 『本尊問答抄』には真蹟がなく、日興写本が一部あるのみであり、これに対して、「曼陀羅正意を立てる日興門流の祖、日興上人の写本しか残されていない遺文を使って、『本門の本尊とは、南無妙法蓮華経だ』と論じても、日興門流以外の人たちの納得は得られないと思います。ですから、僕は、本尊問答抄は真蹟が無いので考察の基礎資料とはしない、という姿勢で考えています。」という見解もある(ネットに掲載されている『富士門流信徒の掲示板』のスレッド「本尊と曼荼羅」の「93問答迷人」書き込み(http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/))。しかし『本尊問答抄』に関しては、他の日興写本の信頼性によって、日興門流以外でも日蓮親撰と認める学者が多いと私は理解している。日蓮親撰ということを前提にしたうえで、日蓮宗に所属する川蝉は、「『本尊問答抄』は、真言教学になずんで居た人達に対して、大日如来でなく釈尊を本尊とすべしと説明し納得させるには、大日如来と久遠本仏釈尊との違いなどを論拠を挙げて長々と説明しなければならない。それよりも、法勝を面に出して「法華経の題目を以て本尊とすべし」と断定したほうが、理解させやすい。そこで法勝の義を面にして論述されている、と先学(優陀那院日輝・本尊略弁)が、説明しています。」と『本尊問答抄』の意義を説明し、「宗祖にとっては、法華経の題目は法華経の肝心であり、久遠釈尊の証悟でありますから、法華経の題目=釈尊でありましょう。ですから、『本尊問答抄』は、この御書では、『釈尊本尊を否定するばかりではなく、『法華勝釈尊劣』を明言しております。』と云って『法本尊正当説』であると単純には断定できないのです。」( 『富士門流信徒の掲示板』の別スレッド「日蓮聖人の本尊観」の「28」の書き込み(http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1028023669/))と述べて、法本尊正当説に対して異議を申し立てる。この問題については、第2部の「日蓮論」で検討する予定であるが、第一部の「日蓮正宗論」では必要ないと考える。」(2009/3/30)

 

 さらに漆畑正善が「創価大学教授・宮田幸一の『日有の教学思想の諸問題』を破折せよ」において、私の『本尊問答抄』に対する解釈を批判したことに対して、次のように述べた。

 

 「『本尊問答抄』については、きちんとした議論が必要であるから、別の機会に行う予定であるが、漆畑の議論で私が疑問に思うのは、『即ち『本尊問答抄』の法勝人劣の御指南は、脱益の釈尊についてのものであり、人法一箇の本因妙の仏に対するものではない。』という解釈である。少なくとも『本尊問答抄』には『脱益の釈尊』や『人法一箇の本因妙の仏』という表現はない。つまりこれは『本尊問答抄』の議論と日蓮の他の著作の議論との関係をどのように解釈するのかという問題になるのである。日蓮の他の著作の中で本尊を法と仏とに分類して議論している箇所を私は知らないが、その意味では『本尊問答抄』は日蓮の著作の中で最も精密に本尊について議論している著作であると私は考えるが、この点について漆畑は同意してくれるだろうか。」

 

 私の主張は創価学会の本尊論=曼荼羅本尊正意説が、日蓮正宗の本尊論(本因妙の仏像=日蓮御影プラス曼荼羅説)や日蓮宗の本尊論(久遠実成仏像プラス曼荼羅説)とは違うということを示し、創価学会がそのような本尊論を採用するのは『本尊問答抄』によるのだということにある。しかし私の解釈に対して日蓮正宗の側も日蓮宗の側もそれぞれの立場から批判を加えているので、私の考えを説明したい。
 私の論点は第一に、そもそも『本尊問答抄』というテキストには何が述べられているのかという点において、私や日蓮正宗、日蓮宗の間に果たして合意が形成できるのかということである。これは『本尊問答抄』という古文のテキストをどのように読むのかという読解問題であるが、この点で合意ができなければ、どんな議論もかみ合わなくなる。しかしこの点に関してある程度古文の読解能力がある人々の間に大きな相違があるとは思えず、しかも上記のように日蓮宗の川蝉(村田征昭)も日蓮正宗の漆畑正善も『本尊問答抄』が表面的には法勝を主張していることを容認しているらしいので、私は楽観している。
 第二に、『本尊問答抄』の本尊論は日蓮の他の著作の本尊論とどういう関係があるのか、という問題である。この点においても、日蓮遺文の調査という学術的な問題であるから、ある程度私は合意形成が可能であると考えている。
 第三に『本尊問答抄』の本尊論と他の著作の本尊論が整合的であれば何の問題も生じないが、不整合である場合、それらの著作の価値をどのように評価するのかという問題、つまりどの著作の本尊論を重要と考えるのかという問題である。この点では多分三者の主張の隔たりは大きいと思われる。
 第四にそれでもなおかつ私が曼荼羅正意説にこだわる理由を説明したい。

 

 2 『本尊問答抄』の大意

 『本尊問答抄』の本文や大意については、ネットで検索すれば、容易に見つけることができるので、詳しく述べることはしないが、議論の必要上大事な要点だけ挙げておこう。以下の文中で私の注釈は( )によって表記する。なお引用に関しても紙媒体の頁番号を付けるのは煩わしいし、ネット検索が容易にできるのでしない。
 まず冒頭で、「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」と述べて、「法華経の題目」を本尊とすべきことを明示する。次いで文献的根拠を検討し、『法華経』法師品の「薬王在在処処に若しは説き若しは読み若しは誦し若しは書き若しは経巻所住の処には皆応に七宝の塔を起てて極めて高広厳飾なら令むべし復舎利を安んずることを須いじ所以は何ん此の中には已に如来の全身有す」(ここで経巻の中に如来の全身があると述べていることは、後で述べる能生・所生の議論とは別である)、『涅槃経』如来性品の「復次に迦葉諸仏の師とする所は所謂法なり是の故に如来恭敬供養す法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり」(これは能生・所生の議論である)、天台大師智の『法華三昧懺儀』の「道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置し亦必ずしも形像舎利並びに余の経典を安くべからず唯法華経一部を置け」(これは『法華経』法師品の指示に従っている)という文章を挙げる。
 これに対して智の『摩訶止観』や不空の『法華観智儀軌』では仏像を本尊とすることを述べていると疑問を呈したことに対して、智の『摩訶止観』よりも同じ智の『法華三昧懺儀』を重視すべきこと、また不空の『法華観智儀軌』(密教系の法華絵曼荼羅の図顕の方法を示している)は『法華経』宝塔品の文章を根拠としており、『法華観智儀軌』では「法華経の教主」を本尊としているが、それは「法華経の正意」ではないとする。(『法華経』法師品には経巻を安置せよという指示があるが、『法華経』宝塔品には教主釈尊を本尊とせよという指示はないから『法華観智儀軌』で「法華経の教主」を本尊とすることは不空の独断であり、「法華経の正意」ではない、と主張していると、これまでの文章との続きの上からは解釈できるが、別の解釈として宝塔品の教主釈尊は迹門の教主であり、本門の教主でないから「法華経の正意」ではないとしている解釈もありうる。しかしこの『本尊問答抄』では本迹の教主の議論はしていないからこの解釈は強引だと思われる。それでも「法華経の本意」がこの『本尊問答抄』内部で述べられていることでとりあえず完結するのか(これは前者の解釈である)、それとも例えば本迹の議論など他の著作で「法華経の正意」として扱われていることを参照しなければ理解できないことなのか(これは後者の解釈である)は、この『本尊問答抄』全体の解釈に大きく関わってくる)。次いで日蓮は「上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊・法華経の行者の正意なり」と述べて「上に挙ぐる所の本尊」すなわち冒頭の文にある「法華経の題目」を本尊とすることを再度主張する(だがこれまでの議論を詳細に見てくると「法華経」を本尊とせよという議論はあったが、「法華経の題目」を本尊とせよという議論はなかった)。
 次いで上述の議論を別の論点から展開し、他の宗派では仏像を本尊としているのに対して、なぜ天台宗だけ法華経を本尊とするのか、また「仏と経といづれか勝れたるや」という疑問を提出し、「本尊とは勝れたるを用うべし」と答え、「仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし」と答えたことに対して、再び「云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや」という疑問を提出し、「上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり」と上述の議論を繰り返して述べた上に、その理由として、「法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり」と述べて、『法華経』から釈尊、十方の諸仏が生じた(=『法華経』を修行することにより成仏できたと解釈するしかないだろう)から、『法華経』は能生であるがゆえに本尊とするのだと主張する(これは「仏と経といづれか勝れたるや」という議論との関連で述べられているから、法華経=能生が勝れ、仏=所生が劣っているという議論だと解釈するしかないだろう)。その上で『法華経』が能生であるという文献的根拠を『法華経』の結経とされる法華三部経の一つである『普賢経』の文章を引用して示す。そして「此等の経文仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神なり」と述べて、能生、所生の議論をまとめ(ここでは仏=所生=身、法華経=能生=神(たましい)という対応関係が確認できると思われる)、次いでその議論の適用例として「然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」と述べて、開眼供養は能生の法華経によるべきであり、「今木画の二像をまうけて大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすはもとも逆なり」と述べて、密教系の開眼供養を否定する(この開眼供養の議論は全体の文脈の中での解釈が難しい。法華経により開眼供養すれば仏像を本尊としてもよいということを含意しているのか、それとも密教系の開眼供養を否定するための前振り、導入部分に過ぎないのか、前者であればこれまで述べてきたことと整合的ではなく、後者であれば、仏像は本尊ではないのだから不必要な議論であろう)。
 次いで真言密教批判を展開するが、この部分は本尊論とはほぼ無関係な議論であり、省略する。最後の部分で「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず」と述べて冒頭の本尊が、日蓮が図顕した曼荼羅であることを示し(どうして冒頭の「法華経の題目」としての本尊が日蓮図顕の曼荼羅になるのかは説明されていない)、日蓮は『法華経』でこの本尊を弘通すると予言されている上行菩薩ではないが、上行菩薩に先駆けて弘通して諸難を受けていると述べて(この文の解釈も難しい。三位日順の『摧邪立正抄』で、この文を日像門流では日蓮が上行菩薩ではないことの証文と見なし、日興門流では日蓮が上行菩薩の振る舞いをしていることを通じて上行菩薩だと主張している証文だと見なしており、水掛け論になっていることを述べている。)、「他事をすてて此の御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給い候へ」と『本尊問答抄』を与えた浄顕房に対して修行の仕方を教示している。

 

 多分素直に読解すれば、『本尊問答抄』では、法華経は能生であり、仏は所生であるという理論的根拠から、能生の法華経が勝れており、それゆえ「法華経の題目」を本尊とすべきであり、その「法華経の題目」を本尊とした具体的な本尊は日蓮が図顕した曼荼羅であるという理論構成になっていると思われる。
 だがこの理論構成には多くの問題も含まれている。『法華経』の中で仏舎利ではなく経巻を安置せよと指示している法師品では、その理論的根拠として能生・所生の議論ではなく、経巻に如来の全身が在るからだと述べていることにより、経巻が仏より勝れているという能生・所生の議論を無効にしているとも解釈できる。日蓮はこの『本尊問答抄』では、『法華経』からの引用に限定すれば、『法華経』法師品だけを本尊論に関する『法華経』の指示であるとしているから、たとえ法華三部経の一つである『普賢経』に能生・所生の議論があっても、その議論が『法華経』法師品の議論よりも優先するということは示していない。能生・所生という議論は『本尊問答抄』にとって決定的に重要な議論なのだが、その議論は『涅槃経』『普賢経』の議論でしかないということは『本尊問答抄』の素直な読解を危うくさせる。
 しかも法師品は法華経を安置せよと指示しており、智の『法華三昧懺儀』もその指示に従っているのに、なぜ『法華経』ではなく「法華経の題目」が本尊となるのだろうか。このことも何も説明されていない。例えば初期の著作の『唱法華題目抄』では「法華経の肝心たる方便寿量の一念三千久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり、・・・故に妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり諸仏諸経の題目は法華経の所開なり妙法は能開なりとしりて法華経の題目を唱うべし。」と述べて、題目即ち「妙法蓮華経」の一部分である「妙法」に「法華経の肝心」の法門が含まれているから、「法華経の題目」は尊いのだという説明をしているが、この『本尊問答抄』ではそのような説明は何もない。
 しかも文末でその「法華経の題目」を本尊とすることが日蓮図顕の曼荼羅とされているが、両者が同一であることの理由も何も説明されていない。曼荼羅全体が法華経の題目の本尊に当たるのか、それとも中央にある「南無妙法蓮華経」が、あるいはその一部の「妙法蓮華経」が、あるいは日蓮正宗が解釈するように「南無妙法蓮華経日蓮」が「法華経の題目」の本尊に当たるのか、説明は何もない。
 また開眼供養の議論も全体の議論とどのように関係しているのかも不明である。能生の法華経で開眼供養すれば、仏像を本尊とすることは容認されていると解釈すべきか(そう解釈すれば、仏像ではなく法華経を本尊とすべきという全体の議論との整合性がなくなる)、あるいは真言による開眼供養を否定するための導入部分にすぎないのか、どちらかの解釈をとるべきかに関する指示は『本尊問答抄』にはない。
 また「法華経の正意」についても明確な説明がなされているかどうか、解釈が分かれるところである。『本尊問答抄』の文脈からは「法華経の正意」とは最初の部分に述べられた法華経法師品が経巻を本尊とせよと指示していることを指すと思われるし、さらにその後で「上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊・法華経の行者の正意なり」と述べ、さらにその後で「上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり」と述べて、法華経法師品と智の『法華三昧懺儀』の議論を重視していることを繰り返し確認しているから、私は『本尊問答抄』内部の文脈だけで、「法華経の正意」を理解することは可能だと思っているが、後に述べる優陀那日輝は「法華経の正意」とは本迹の教主の区別であり、不空が宝塔品によって釈尊を本尊としているのは迹門の始成正覚の仏であるから「法華経の正意」ではないとしているのだという解釈をし、その解釈を後に述べるように日蓮宗の村田征昭は支持しているのだから、問題としては残しておく必要があるだろう。
 これらの点から『本尊問答抄』は説明を要する箇所がそれなりに残っている、不完全あるいは不十分な議論であると見なすこともできるだろう。

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