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「光瑞縦横談」と教育・宗教革命(下)(1936年4月号)

                

 七、論策と教育宗教との関係

 「光瑞縦横談」は回を重ねるに従って、益々佳境に入り、その内外古今に通ずる該博なる識見から、真に縦横無尽、天馬の空を行くの慨があり、かの党派に囚はれたり、官僚根性に堕したりして、人気取り根性を脱し能はぬ凡庸政治家などの、とても想ひ及ばざる所。その題目左の如し。
二二 大乗の世界ーー宗教は理智の門から(二・二七)
二三 学問神聖と学園自治ーー青年を悪に駆る学者(二・二八)
二四 外国語尊重の愚ーー漢字制限は可、廃止は不可(二・二九)
二五 我民族の優秀性ーーアメリカの後塵を拝する勿れ(三・一)
二六 危険思想防止策ーー生活安定ーー食料値下げと奢侈匡正(三・三)
二七 国家の大局ーー商工業者も心せよ(三・一二)
二八 自足自給の急務ーー教育制度を改め農を盛にせよ(三・一八)
二九 米価を安くせよーー地租は全廃すべし(三・一六)
三〇 蚕業国管の覚悟ーー農家は『蚕主米従』で行け(三・一七)
三一 電力利用の拡大ーー廉価供給茲に策あり(三・一八)
三二 預金は無利子ーー利子生活は国家の害虫(三・二○)
三三 装丁より内容ーー選択を誤れば身を亡す(三・二一)
三四 体育の本末顛倒(三・二六)
完  春は花・花は桜ーー愛すべし犯すべからず(三・二七)

 八、宗教革命に就て

 「光瑞縦横談」の目標とせる対告者は主に日本国民の指導階級にあるが如く、その内でも政治家などに呼びかけて居るやうであるから、勢ひ政治、産業、外交等の諸般に亘って居るが、大局から達観した根本的改革案であるだけ、それだけ、何れの問題もその徹底的実現を期せんとすれば、教育の改革にその基礎をおかねばならず、而して教育の改革に及ぶと、現世一端だけの研究をなしてゐる科学や道徳範囲だけでは、結局枝葉末節の応急的彌縫策に留らざるを得ずないから、勢ひ宗教革命までに論及しなければならぬことは論を俟たざる所であり、光瑞師の見識と明敏とに於て、それを気付かぬ筈はないと思ふのであるが、何故か、その根柢にまで溯源したものを見ざるを窃かに遭撼として居た所であるが、果然、左の一節の如き、その片鱗の現はれたことは、吾々の教育宗教革命運動を共鳴される少壮教育家藷君が、定めて興味深く熟読さるべき所と思ふ。

  
   「大乗の世界=宗教は理智の門から  
                                     

 私は欲張りである。金が欲しくて仕方がない。だから朝から晩までカネのことばかり考へてゐる。どうかして金がとりたいと思ふから、そのためには外国までノコノコ出かける。国内には昔ほどぽろい儲けがなくなったからだ。
 私は執着の強い人間である。若しこれがなかったら、向ふ三百年や四百年楽に食ってゆけるほどの財産を持ってゐるから、これ程あくせくはしないのである。執着の強い人間は、財産を殖やすことを考へずには一日もぢっとしてゐられない。だから利を求めるに汲々として、世界中を歩き廻ってゐるのだ。
 生れて六十年、今日までの経験によると人間は一日も金なしに生きられるものでない。ただ併し、私は国家の利益と背馳した利益は取ったことがないばかりか、考へたことさへもない。大谷は物質に恬淡ではないが、そのため国家を忘れたやうなことは一刻もないのだ。
 世の宗教家とか教育家とかいはれる人間は、精神慾だけあって、物質慾がないやうなことを言ふから大嫌ひだ。恬淡を装ふのが宗教家、教育家だと心得てゐる。装ふから裏をひっくり返して見れば、裏は泥だらけ、醜悪そのものだ。こんな人間に教育ができると思ったら大間違ひである。
 試みに百日も給料をやらずに置いて見るがよい。どこからか手を出す。盗人人格の宗教家、教育家が皆これだ。空気だけ吸ってゐられるといふ程の智者でも裸では警察がやかましい。裸でゐられるのは漁師だけである。これはフロックコートを着て水へ入るわけにゆかぬからだ。
 こんな宗教家だから、いふことも浅薄である。人が死んで悲しんでゐる時には、一番宗教心を起しやすいから、かういふ時に宗教を説くのが早道だといふ。こんな宗教は本当の宗教ではない。真の宗教は身体が壮健で順境にあり、精神状態も健全な時に完全な理性によって得られるものだ。
 人が悲嘆にくれてゐる時につけ入ったやうな宗教は、再び得意の時がくれば忽ち消えてなくなるのが常である。宗教心は理性から入るもので感情から入るものではない。愚民を惑はしたり人の怯弱につけ入るような宗教は迷信で正信ではないのだ。
 併し人は元来弱いものだから、何か自分以外の強い力に縋らうとする。この心理を利用して、何々教などといふ怪しげなまがひ宗教まで生れるのだ。その甚だしいものになると狐狸妖怪をさへ尊崇することになる。大聖世尊の説く第一義諦から見れば皆な悪夢に襲はれてゐるもので、一切皆空ならば畏るる所もなく、また安心するところもなく、既に自分がないのだから従って他もなく、鬼人などは何処にあらう筈もないのだ。
 人にはまた自我の固執がある。信心をすれば金が儲かるとか寿命が延びるとか思ふのもこの固執のためだ。神仏に祈祷するといふのは、大部分この欲張りからである。千万たび祈祷しても効力のないのは、初めから分り切ってゐる。
 宗教を営業とするものは、かういふ人間から金をしぽりあげるから、狡猾には違ひないが、まだ智慧があるといへる。併しこれに金を出して不可思議大自在力が得られると信ずるものに至っては愚といふよりも痴だ。
 若し祈祷をしなければ人の誠意が通じないやうな神仏ならば、それはインチキな神仏である。大自在力も怪しいものだ。大自在とは、行くところ障りなきをいふので、祈ると祈らぬとに関係なく救済をするものでなければならぬ。その人の誠意、不誠意は問ふところでないのだ。祈祷をすれば、御利益があるといふのは、自我の固執を利用して小利を釣らうとするインチキ宗教のいふことで、もとより神仏の知るところではない。祈祷によって金の儲かるのは、これ等の宗教者と交通機関だけだ。何々電鉄などといって、大資本を擁するものも、これ等の愚民によって養われるものが多い。迷信から生ずる濫費である。
 また信仰は熱烈でなければならぬやうに言ふものがあるが、そんな理屈はない。真の信仰は一切皆空を知るに在る。因縁所生の法は、尽く生滅の仮法で、第一義諦のみが独り真実だといふことを知らなければならない。一切皆な実在せず、ただ如来のみが常住するのだ。それを知るには、先づ自分の存在を否定し、智見を滅して如来の諸智を信ずるに在る。自分に偏って感情や理性で如来を見ようとしても、いつまで経っても見られるものではない。
 自分の心情を存在させ、之によって信を得ようとしても、熱が加はれば加はるほど狂人に近づくだけのこと。丁度鼠の輪回しと同様、力が加はれば益々急転するから輪の外へ出られなくなるのだ。真の信仰は絶対他力によらなければ得られるものではない。
 人が生れると吉といひ、死ぬと凶といふのも変なものである。生があればこそ死があるので、若し死が凶ならば、死の由って来る生も亦、凶でなければならぬ。生を吉とすれば死も亦吉でなければならぬ。人の生死に喜んだり悲しんだりするのは愚人である。更にこれに迷って祈祷したり占ひをしたりするのは至愚の極である。
 吉凶禍福は、本来無いものだ。−切皆空で何があるわけもない。ただ無知の迷情から徒らに吉凶禍福を誤想し卜占祈祷するのみである。自分の影と同じ。影を望まぬならば、先づ自分を空にしてかゝれぱよい。体があって影だけ失くさうとしてもそれは無理な註文である。
 死者を火に焼いて空にするのが火葬である。だから灰は河に流せばそれでよいので、墓碑を建てることは絶対に無用である。葬儀の盛大は死んだ人間よりも、生きてゐる人間の虚栄心からで、死者に対する最大の弔悼は死者の功績を社会にあらはすことだ。若し功績がなかったら、遺族知友が寄って社会に功績を残し、死者を記念すればよい。
 再び言ふが、宗教は感情ではなく、理智から入らねばならぬ。大聖世尊の教へも、智を先にしてゐる。智でなければ世を救ふことはできない。智の極が無上正遍知、或ひは一切智で、この智の発動するのが大慈悲である。一瞬も休むことなく、絶えず活動してゐるが、それには大力が必要である。これは神通力といふのだ。一切皆空、無上正遍知、第一義諦、大乗の世界は遠くして遥かである。」

 光瑞師が社会意識の加はった全体観に立つ「大乗の世界」を闡明し、宗教は感情からでなく、理智から入らねばならぬと云はれるのは、従来の既成宗教に愛想尽かしをしてゐる少壮者に対しては適切の啓蒙である。文部省あたりの所謂「宗教心の涵養」などは、恐らくは盲目的感情の鼓吹から一歩も出ないやうに見受けられるが、それ等に対して真に頂門の一針であらねばなるまい。たゞしかし、大乗の世界とはいへ、その中の権教の程度に於ける空観に停滞し、実教に於ける中道法相の領域にまで至らないやうであるのは物足らぬ所である。大谷師の如き明敏な専門家にしてそんな筈が無いと思はれるのに、何故か、とは吾々がここに於ても訝しく思ふ所である。無上正遍知には一切皆空観だけではまだ達し難かるべく、空仮の両諦の上に中道法相の三諦観がいり然らば当然、諸法実相なる法華経に来らねばなるまい。そこに至れば知慧第一の舎利弗でさへも、信を以て入ったといはれた、況んやそれ以下に於てをや。

                                                               

  九、教育の経済的改革要項

 

 国語は嬰児の時代からの使用によって大部分は少年期の間に覚え込むから学校の仕事は、その経済的の使用法を指導すればよいのであるが、漢字はその上に、少年期か青年期迄に一々記憶させねばならぬので、少青年の学習労力の大部分を占める負担である。それに加へて外国語の詰め込みが中等学校の大きな時間を占領するのである。而もそれが極めて少数なる人々又は階級にしか役に立たず、その他の大部分の国民生活には何の役にも立たぬことが誰れにでも解って居るに拘らず、維新匆匆、欧米崇拝の熱の盛なる時代に一度制定されたといふ単なる理由によって、みすみす有害無益と知りつつも、廃止又は節約をしやうとする有力者もなく、「一将功成り万骨枯る」といふ比喩通りとなって、今日の状態に至って居る。伝統の力といふものは恐ろしいものである。
 そこで学制改革に当っては真先にこの点に大斧鉞を加へなければならない所へ、光瑞師の如き国際的偉人からの思ひ切った提案にしては、自分等の造った原案に執着する教育界大舅小姑でも、それ以上固守するわけには行くまい。

  「外国語尊重の愚=漢字制限可、廃止は不可

 我が国にはまだ、外国語の話せることを誇りとする人間があるやうだ。
 汽車の中に、駅の名に、電車に、看板に、包装紙に、甚しいのは名刺に、英語やローマ字を書いて得意になってゐる。こんな一等国が何所の世界にあらうか。
 私は度々欧洲へ遊ぶが、特殊の国情を有する国以外は、外国語を話すものがない。三、四千万の人口を有する国では絶無といってよい。皆自分の国の国語を尊重して、他国語を必要としないのだ。我が国では反対に、外国語を尊重して、自国の国語を軽蔑してゐる。人口一億になんなんとして、国威隆盛の一等国がこれでよいのか。英米の属領か殖民地なら知らぬこと言霊の国、神国日本が、これでは国辱を通り越してゐるではないか。
 明治の初年、我が国が欧洲の文化を吸収する必要のあった時は、外国語も必要であったらうが、吸収し尽くした今日もなほ外国語を尊重するのは、文部当局の怠慢である。人々は我が国の外交を屈辱外交とか追従外交とかいふが、教育はそれ以上の屈辱と追従を事としてゐるのだ。外務省ばかり攻めて文部省を攻めぬのは、近眼者流である。
 外国の事物で必要があったら、学者が翻訳すればよいのだ。強いて原書を読む必要はない。
 我が国はもっともっと富まなければならぬ。それには百年にも足らない寿命を一時間も無駄に費すべきではない。教育に半生を費すなど以っての外である。若し最高の学問を修めようとすれば、半生以上もかかるであらう。終生学問を仕事とするものはそれでも好いが、普通の人間は生涯の四分の一以上を教育に費すべきでない。
 学校年限の短縮は、度々いはれることであるが、一度も実行された試しのないのは、言ふものが教育者だからである。彼等は教育を短縮されゝぱ自分達の生活が危くなるので、教育を万能とし、一日も長いのが国家の幸福だと考へてゐるのだ。若し教育者が不老長寿の術を心得てゐるのならばそれでも好いが、愈々学校を卒業して何かしようとする時に死んでしまふのでは何にもならぬ。従って今日の教育とは、有為の青年を徒費徒食とするもので、国家の大損害著である。
 教育年限を短縮するには、どうしたら好いかといふのに、先づ無用の学科を廃止すればよい。無用の第一は英語である。我が国は英国の属領でも、アメリカの植民地でもないのだ。従って各人が英語を知る必要はない。外国と通商し、外国に居住するものには必要だが、アトは国語で十分である。漢字制限と共に、英語を全廃すれば、五年の中学は三年に短縮ができる。欧洲文明が国語で解らないやうならば、それは先輩の不熱心からである。更に欧州文明を英語のみで究めるといふことは不可能だ。
 英語は欧洲でも、最も不完全な国語で、その大半はフランス語をかりてゐる。文法も不規則で蒙古語以下である。こんな劣等言語を有難がるのは、皆な英米崇拝の結果で、やがては我が国をインドかフィリッピンにする積りかも知れぬ。その英語も満足に話ができるわけでなく、物が書けるわけでもない無能英語である。こんなものに貴重な時間を割く生徒は、自ら自分の生命を鉋で削るやうなものだ。時計一秒の音は、生命を削る一秒の音と心得なけれぱならぬ。長寿を望むのは、人の情である。今日の教育は学生を短命にすることに努力してゐるのだ。若し長寿を望むものがあると、学校から落伍しなければならぬ。こんな教育が何所の国にあらうか。」

 なほ光瑞師は漢字制限はよいが、廃止は不可といふ、頗る詳細に亘った議論が続いて居るが、紙幅の都合もあって遺憾ながら省略する。但し師はローマ字と漢字を比較しての理由に於て、漢字の保存を力説して居るが、仮名文字の改良に就いて、一考されないやうであるが、もしも吾々の仮名文字を改良して二分の一の扁平にせんとする一提案を見たならば、多少の考へ直される点があらうと信ずる。

 

 一○、危倹思想防止策

 現在の険悪なる世相にのみ幻惑して、之が応急手当にのみ忙殺されて居る行政官や、政治家が、あまりに近視眼的にして、しかも御座なりの取締り、乃至予防策に没頭するが、幾年経っても、一向成績の見るべきものなきを憤慨して、光瑞師が、単刀直入、生活安定=食糧値下の方策を提唱するのは、社会主義者達の最も痛切に主張せんとする所であらうがこれを根本義とするのは無理ではないか。

 「危険思想防止策=生活安定、食糧値下と奢侈匡正

 危険思想に三つある。――左翼の危険思想と、右翼の危険思想とは誰でも知ってゐるが、私はこのほかに中間の危険思想といふのを数へる。
 左の危険思想は国家組織を破壊するもの、右は暴力行為をするもの、その中間は利慾に眼が眩んで国家を忘れるものである。利益があれば、こっそり金塊を外国へ売らうといふ奴である。まだ国産が高いからといって、外国品を買ふのもいけない。高かったら安く出来るやうに研究努力するのが、国民の義務である。これをしない怠け者も、中間の危険思想に入るのだ。
 何れにしても、国家を基準として考へられた利益ならばよいが、少しでも国家の利益に背馳した利益は全部中間の危険思想といってよい。
 しかし中間の危険思想は姑く措き、茲では左右の危険思想に就いて、その治療法を考へて見たいと思ふ。
 政府は十年このかた常に思想の善導を口にして来たが、更にその効果の挙らぬのは何故か。根本を誤ってゐるからである。思想の善導が、宗教と教育で達せられると思ったら大違ひである。十余年前なら兎に角、今日に於ては全く無力だといってよい。そればかりか、用ひる人を誤ると、却って思想を悪化させる惧れさへある。善く用ひて無力、悪く用ると害になる。病人は既に重態だからだ。
 次に刑法を以て思想の善導をしやうとするものがある。之は教育や宗教よりはましだが、劇薬である。良医でも砒石やモルフィネは度々用ひるものでない。況して之を常用したらどんなことになるか。想ひ半ばに過ぎよう。刑罰を峻厳にすれば、暴行も之に比例して甚だしくなるのが常だ。それ故に刑は止む得ず用ひるもので、之を以て思想善導の第一方策とするのは極めて危険である。
 では、根本策は何かといふのに、経済以外にあるものではない。「衣食足りて栄辱を知る」といふ言葉は古くて新しい。いつまで経っても真理である。
 どうしたら衣食が足りるか。物産を豊饒にして、物価を下げる以外にない。物価を下げるには、物産を豊かにすればよいが中でも最大の急務は、食糧品を安くすることである。食糧が安くなれば労銀も値を下げるし、労銀が下れば生産費も下る。生産費が下れば農工商が盛んになるわけだ。之を要するに、食糧の値を下げることは、思想善導の根本義である。
 これまでの政府は、思想の善導を内務省と文部省の仕事だと考へて来た。国民もさう思って来たやうであるが、これが間違ひのもとだ。思想の善導は農林、商工、大蔵三省の仕事で、この三大臣が主となり、それに内務、文部の両大臣は従となって事に当らなければ嘘である。産業経済の三大臣が衣食住の安定をはからなければ、内務、文部の両大臣は手を拱いてゐるほかないのだ。
 その治むべきを治めず、治むべからざるを治めるから、私は笑ふのだ。衣食住が安定しないで、思想の安定はない。思想善導の根本策が経済以外に無いといふのも此の為めである。
 思想の険悪は、いつも不安と不平から来る。不安とは生活費の高いため、不平とは其の処を得ないために起るのだ。そこで第一の安全は自作農である。春播いて秋収穫すれば、決して不平不安の生ずるわけがない。思想も自然と温和になるのが当然だ。
 不平は自分の修養によって、或る程度まで減殺することもできるが、不安は他の脅威を蒙るために起るものだから、修養だけで除くことはむづかしいのだ。聖人孔子でも、若し今日の支那に生まれたら、不安を感ずるに違ひない。危険は他にあって、自分にないからだ。自分にない危険を教育や宗教で除かふとしても、それは無理といふものである。十余年間、掛け声ばかり大きくて、少しも効果の上らないのも、この為めである。
 百万言を費すよりも、一杯の水だ。
 次に不安の原因となるのは奢侈である。生活の向上といふことをよく聞くが、その大部分は奢侈を隠すために用ふる言葉と見てよい。
 世の中には月収百円の人もあり、五十円の人もある。百円で若し収支が償はなければ、五十円の人間はどうすればよいのか。餓死するか、盗賊を兼業しなければなるまい。生活難を訴へるサラリーマンの九割九分迄は奢侈のためで、正当の理由からではない。
 いま都会生活と俸給生活と無用の学枚を廃止し、農村に住み産業に従事して、奢侈を戒め勤倹であれば、不安なく不平なく身健やかに心泰く決して危険思想は発生する余地がないのだ。」

 なるほど農村疲弊や、商工業の苦境などに顕はれる当局の政策としては空疎なる通俗的教説では駄目であるに相違あるまい。さりながらそれ故にとて、物質的方面の社会政策のみでは、いつまで経っても、対症療法の程度を脱し難いと思はねばならぬ。目前に切迫せる窮乏の対策として、それは適切には相違なくても、この行詰りを来した原因に溯って、同一の原因を再び将来に繰返してならぬといふ見地から再思すると、どうしても教育革命に至らねばならぬであらうし、その教育を又現在の如き無価値のものにした原因を再考すると、遂に宗教革命にまで至らねばなるまい。
 この点に至って、吾々と反対の意見となったことを不思議とせざるを得ないが、それは現在と将来の救済時期上の相違もあらうが、これよりは寧ろ宗教本質観の相違によるであらう。なるほど従来の宗教と教育では思想善導は出来ないに相違ないが、是は既成宗教の無力有害を以て云ふので、其以外に善導の証明される宗教があるなら、これほど経済な方策はないではないか。吾々が宗教革命を標榜する所以で現に実行しつつある所であれば、希くば正認再考せられんことを望む。

  一一 教育実際化の法案は是か

 大谷光瑞師の産業国策は教育内容充実の教材として別に参考することにする。左記「体育の本末顛倒」の一項の如きは、現今の文部省の教育施設の誤謬を指摘して、完膚なからしめて居るではないか。
 斯やうなる抜本塞源的改革意見はとても教育界などの局限されたる天地に跼蹐し平安無事に暮して居た月給取りなどの思ひもよらぬ所で、大局高所から国家の遠き将来を見透した憂国の士にあらざれば出来ない所であらう。

   
  「体育の本末顛倒

 学校は学問をする所で、スポーツをする所ではない。
 体育は智育徳育と並んで、軽んずべきではないが、少数の選手にあてはまるスポーツを以て体育と心得たら大間違ひである。況して野球やラクビーに勝つことが、学校の名誉でも心得るのは飛んでもないことだ。
 しかし実情はどうか。中学でさへ、スポーツの選手は勉強しないでも卒業するものがあると聞くし、専門学校では、無試験でこれ等の選手を招聘するといふし、甚だしいのは卒業を延ばしてまで学校に残って貰ふといふことではないか。これでは学校か競技者養成所か分ったものでない。
 学生は、教室で不快な講義を聴くよりも(実際、今の教育者の話ほど不愉快なものはない)、運動場でスポーツをしてゐた方がどれほど面白いか知れないから、これに赴くのは人情である。そのうへ他校と試合をして、優勝すれば全校の教授生徒が狂喜し、凱旋将軍の様に迎へてくれるのだから、青年がスポーツ選手を志すのも無理はない。
 茲に於て、学業はそっちのけで、朝から晩までスポーツに熱中することとなるのだ。しかし青春は夢の如くに過ぎる。歌妓遊女のやがて容色が衰へるのと少しも変るところはないのである。その時に悔いても既に遅いが、罪は本人ばかりにない。社会と学校と父兄とが一緒になって一人の青年を賊するのだ。学校は恐るべき所である。選手をチンドン屋に仕立て、生徒募集に使ふが、チンドン屋の将来は学校の関するところでないのだ。利に走る商人と少しの変るところもない。教育事業は、完全に営利事業となり終ったのである。
 かういふ教育者に、何を言っても無駄かも知れぬが、国家の将来を想ふ時、私は寒心に堪へぬものがある。教育を監督する任にある文部省は、一体どう考へてゐるのであらうか。
 校外の運動競技は、百害あって益がないから、文部当局は断然これを禁止しなければいかん。況して入場料を取ってこの競技を見せるに至っては全く興行と変るところがない。運動と競技とは別物で、競技と興行ともまた別物である。況して体育と興行とは、何の関はるところも無いのだ。
 然るに文部当局は、スポーツの興行を以て体育の最後の目的と確信し、数万人を容れる大競技場に清純なるべき学生を登場させて勝負を争はせ、見物も入場料を払って熱狂してゐる有様は、何といってよいか言ふべき言葉もない。競馬は馬を登場させ、闘犬は犬を登場させ、闘牛は牛を登場させる。今の文部当局は、智徳を磨くことを職分とする清純な学生に牛馬の代役を勤めさせて恥ぢないのだ。我が帝国の教育事業とは、人をして牛馬とすることであらうか。
 『山芋変じて鰻となる』といふ俚俗があるが、『体育変じて興行となる』ことから見れば、少しも不思議は無いのである。  体育の目的は、全枚の生徒全部の体を壮健にする点に在るので、二三の選手を出す所に無いのだ。選ばれた選手も、勝敗を目的に無理な練習をさせられるから、決して健康な体にならず、多く病を得て中途挫折するのが落ちである。これでは健康になるものは一人もゐないのだから、寧ろ体育はやめてしまった方がよい。
 学枚ばかりではない。小学枚も卒業しない一人の少女に莫大な費用をかけて、オリムピックヘスキーに送った所で、日本国民の健康が少しでも増進されるわけでない。すべてが濫費と浪費である。
 若し生徒全体の体育が目的であるならば、私はスポーツを全廃して畑を耕せといひたいのだ。園芸は日光に浴し、新鮮な空気を呼吸し、犁鋤を執て働くから、病人でも薬を用ひないで病が自然に治る。これ以上の体育が又とあらうか。野球、蹴球のやうな末枝と較べれば、天地雲泥の相違である。
 だのに、我が政府は莫大の出費をしてまで末技のスポーツ競技は奨励するが、立国の本である生産の園芸には決して勉めようとしないのだ。我が国民も亦これ気づかず、国を挙げてスポーツ競技に熱中してゐる有様である。国家の将来を想ふものは、この有様を見て慄然とせざるを得ないであらう。
 諸葛孔明は晴耕雨読した賢人である。我が国は人口が多くて土地が狭い。尺土も吝まねばならぬのだ。
 花を養ひ果樹を植え魚を飼ひ鶏兎を育てるのは、国家に対しては忠誠となり、社会に対しては福祉となる。スポーツ競技の比ではないのだ。
 今の青年男女は大部分園芸を百姓のこととして嫌ひ、スポーツに耽って学問を忘れ、男女相擁して淫楽に耽ってゐる。このために国産も挙がらなければ、食糧も不足してゐるのだ。
 最近、文部省が軍事訓練を課したのは、近頃の大出来である。更に進んで園芸の訓練を施したならぱ、十年の後国産も倍加すること疑ひなしである。」

 

 何といふ、今の非常時国家に適切の忠告であらう。吾々が半日学校制度を提唱する趣旨と符節を合はすが如しでないか。月給とりの平穏な生活のみで、荒い社会の生活を味はない教育家や、役人達には、とても想像も出来ぬ所であらう。実際の経済社会の生活と教育社会の生活を往復したものでなければ、気付きも、受け入れも出来ない提案であらう。数年間の独逸へ留学したよりは、実生活へ飛び込んだ方が却って之れ等の理解共鳴に役立つといふ所以である。
 斯様な思ひ切った改革案を吾々如き無名のものが絶叫したとて、肩書万能の教育社会には固より一顧される訳はないが、同じ事でも光瑞師の如き先覚者の言には肯かざるを得まいでないか。教育革命が今の日本の総合的国策の樹立に幹よりは寧ろ根でなければならぬことが解るであらう。
 さて、然らば如何にして右の理想を実現するか。今の教育制度とは全く反対の精神を要する。昔の武士の礼装たる羽織袴でなければ教育は出来ないといふ精神を、今の平民の常装たる法被、股引でなければ真の教育は出来ぬとまで、精神的革命をしなければならぬ。そのためには学問専攻の場所とのみ心得られる大学から小学までの一日学校の制度を全廃して、実業専門の古へに一度返すだけの決心をしなければならぬ。が、そんな事は今日の時勢では云ふべくして、行ふべからざる所であれば、業学併行、普通教育と専門教育との並進の制度に改革するのが最も便利であらう。
 吾々の半日学校制度の提唱せざるを得ない所以である。教学刷新委員会の諸公に一顧の雅量があるや杏や。(完)

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