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研究小論7編

はじめに

 以下で発表するのは、私が20数年前に発表した小論3編と未公開の小論4編である。私の創価学会研究の歩みを示すとともに、私の研究が私的な研究ではなく、財団法人東洋哲学研究所の公的業務の一環(あるいは間接的には、東洋哲学研究所にそれなりの業務を委託していた宗教法人創価学会の公的業務の一環)としてなされていたことを示すものである。
 第一小論の「宗教的真理の問題をめぐって」は新潟短期大学(現新潟産業大学)から創価大学へ転勤して1年ほどたった頃に雑誌『東洋学術研究』の「研究覚え書き」というコラムに書いたものである。このコラムは、雑誌『東洋学術研究』が販売不振であったことから、内容的に硬い学術論文ばかりでなく、分かりやすく刺激に富む読み物を掲載して欲しいという読者のニーズに応えるために始められたもので、最初のうちは末木文美士、中牧弘允などの宗教学、仏教学の若手研究者や、東洋哲学研究所の研究員などが、自分の研究テーマを分かりやすく、簡潔に述べるという趣旨で書かれている。もちろんコラムの内容自体はそれぞれの執筆者がコラムの趣旨に沿って自由に書いてよいことになっていたが、誰に執筆依頼をするかということは、東洋哲学研究所の研究部の意志決定機関である研究会議で検討され、研究部と事務局で構成される運営委員会で最終決定されるという仕組みになっていた。実際の執筆依頼は事務局が行うが、人選は研究部で行うというのが慣例になっていた。研究員の順番で私が書くことになったとき、テーマに選んだのが、当時の公的業務であった創価学会研究の課題の一つである、古い日蓮教学、あるいは日蓮正宗教学と現代仏教学との整合性の問題であった。
 さてその当時の東洋哲学研究所の事業を示す資料として『東洋哲学研究所所報』がある。これは財団法人としてどのような活動をしているかを、広く知らせるためという一般広報目的とともに、公益法人の幽霊法人化、税制優遇問題が話題にされていたこともあって、文部省、文化庁や税務当局に活動を明確に示すために、1987年から作成され始めた小部数発行の刊行物である。前年に渋谷区代々木上原から八王子の創価大学の隣接地に移転し、心機一転それなりに意欲に満ちていたことが伺われる資料である。1987年の『所報』第1号には移転開所式に出席した中村元、福永光司、平川彰、田丸徳善の錚々たる仏教学者、宗教学者の祝辞が掲載されている。
 それとともに「昭和六十一年度 部門別研究体制概要」が掲載され、当時研究部は六部門体制で運営され、それぞれの部門のテーマ、研究員の配属、研究大綱、関連諸事業が掲載されている。第一部門のテーマは「仏教の歴史的・文献学的研究」であり、菅野博史、野崎至亮、友岡雅弥などが所属している。第二部門の研究テーマは「仏教の思想的・比較宗教学的研究」であり、桐村泰次などが所属しており、関連事業として「総合セミナー『宗教における寛容の問題』」、単行本『内なる世界――インドと日本』(池田大作、カラン・シン対談)の出版」が挙げられている。第三部門のテーマは「仏教と科学」であり、川田洋一などが所属し、関連事業として「生命倫理研究会」が挙げられている。第四部門のテーマは「社会と宗教」であり、中野毅などが所属し、関連事業として「平和講座『仏教の平和思想』の開講」などが挙げられている。第五部門のテーマは「日蓮仏教研究」で川田洋一、小林正博などが所属し、関連事業として「仏教思想研究会」(これについては後に詳しく述べる)、「『講座・教学研究』の発行」が挙げられている。第六部門のテーマは「創価学会研究」で森田康夫、宮田幸一などが所属し、研究大綱として「日蓮正宗の教義、歴史、史料を体系的に研究。さらに在家仏教運動としてそれを展開している創価学会の理念と歴史、その仏教的社会的意義を追求する。上記テーマに関連する史・資料を収集・整理し、一般の研究にも役立ちうるものとする。」とあり、関連事業として「『創価学会の理念と歴史』の執筆協力」が挙げられている。
 このように東洋哲学研究所は創価学会が抱えるさまざまな問題に理論的に対応しようとしたシンクタンクとしての活動と当然財団法人としての公益活動との二重の活動を遂行していた。事業活動内容も講演会活動や敦煌セミナー(段文傑など)や宗教学セミナー(荒木美智雄、森浩一など)のような公益性の高い活動と、研究部員会、牧口セミナー、仏教思想研究会、生命倫理研究会のようなシンクタンクとしての活動が掲載されている。第五部門の仏教思想研究会は年9回開催され、「(1)『末法思想の現状について』『出家成道年代について』、(2)『仏滅年代、釈尊の出家・成道年代について』、(3)『大乗非仏説について』、(4)『仏滅年代と末法の年時について』、(5)『日蓮大聖人の末法観(一)』、(6)『大乗非仏説について』、(7)『日蓮大聖人の末法観(二)』、(8)『日蓮正宗における末法観と五時八教論』、(9)『五時八教について』」とそれぞれの研究会開催日のテーマが掲載されている。この仏教思想研究会の報告書は単に研究所内部にとどまらず、創価学会にも提出されていると聞いている。つまり創価学会が信奉しているとされている日蓮教学や、日蓮正宗教学の重要な要素である、法華経釈尊直説論や日蓮末法誕生説は現代の仏教学、歴史学から見て不整合な理論であるという認識は、東洋哲学研究所では既に共有されており、また創価学会教学部も第一庶務もそれなりに認識していたことである。しかしこの教義の変更は従来の創価学会の主張を変えることでもあり、教義の解釈権を日蓮正宗に握られていた時期でもあり、十分に慎重になされる必要があるという認識も共有されていた。このような状況の中で私の第一論文はいわばアドバルーンとして提示されたにすぎない。この論文に対しては全くクレームもなかったので、この問題を学問的に扱ってもそれほど騒動は起らないだろうという感触を得た。
 第二小論は1989年に『東洋哲学研究所所報』第3号に掲載されたものである。「研究員報告」という項目で、松戸行雄、中野毅とともに一文を掲載した。内容は一読していただければ分かるように、牧口価値論研究会の経過報告と創価学会研究に関する理論的諸問題について述べてある。その中で日蓮遺文研究の問題についても言及している。
 なおこの『所報』第3号によれば、研究体制が従来の六部門体制から10プロジェクト体制に変更になっている。それぞれのプロジェクトのテーマと研究員などの所属を挙げれば(諸般の事情によりそのごく一部のみを挙げる)、1、法華思想の世界性と普遍性、篠原誠、野崎至亮、菅野博史、友岡雅弥、小林正博、2、東西思想の比較研究――東西文化交流を含めて、桐村泰次、陣内由晴、松戸行雄、3、生命科学と宗教、川田洋一、木暮信一、於保哲外、(なお研究会では、「自己決定権に関する社会的コンセンサスへのアプローチ」として後に公明党委員長になる山口那津男も報告している)、4、ニューサイエンスと宗教、岩木正哉、5、環境問題と宗教、滝本安規、山本修一、6、平和と宗教、桐村泰次、高村忠成、7、教育と宗教、川田洋一、鈎治雄、8、現代社会と宗教、中野毅、9、現代経済と仏教、八巻節夫、後藤隆一、10、現代社会と創価学会の役割、森田康夫、宮田幸一などとなっている。
 一見して分かるように、創価学会の宗教的課題は1、10の二つのプロジェクトで扱われているに過ぎず、その他のプロジェクトは宗教が現代社会の諸課題とどのように関係できるかを模索するものであった。また関係者には、創価学会教学部の実質的責任者であった桐村泰次、また創価学会本部の滝本安規、森田康夫などが挙げられており、東洋哲学研究所と創価学会との関係の深さを示している。創価学会は日本最大の新宗教であり、また最大の在家仏教運動団体でもあり、新宗教や在家仏教運動が現代社会の諸問題に関してどのように対処したらいいかを社会ならびに会員に対して説明する責任があると自覚して、このようなプロジェクトを立ち上げたのである。伝統的仏教教団に過ぎない日蓮正宗には、あるいはほとんどの仏教教団には、そのような課題を扱う能力も組織もないが、創価学会はそのような課題に取り組むことによって、それなりの知的な社会層に所属する会員に安心感を与えることができるのである。
 第三小論「私の趣味」は執筆年次が不明であるが、創価大学の学内誌『SUN(Soka University News)』に掲載したものである。内容から判断すると「上記の問題に関する私なりの回答は、南山宗教文化研究所と東洋哲学研究所との間の学術交流「カトリックと創価学会の宗教対話」(近く人文書院より発刊の予定)のシンポジウムにおいて、「創価学会の宗教的理念と諸問題」という発表論文で示した。」とあるから、南山大学と東洋哲学研究所の合同シンポジウムが終了し、人文書院から発刊予定であった時期で、実際に第三文明社に出版社を変更する(1996年)前の執筆時期であると思われる。1995年の南山大学『宗教文化研究所報』第5号には「1994年6月30日 宮田幸一(創価大学、東洋哲学研究所)を囲んで『創価思想の源流――牧口常三郎の思想』をめぐって懇話会を開催した」とあるから1995,6年頃かと思われる。[幸いにHP『牧口常三郎・戸田城聖とその時代掲示板』にこの小論の引用があり、それによると「SUN8号 1996年」である。拙論の記録を残していただいてありがたく思います。(1012/2/27)]
 第四小論「小さな疑問」は『SUN』のために書いた最初の草稿であるが、当時の問題意識を明確に示しているが、字数の問題もあり、またあまりにも個人的過ぎるということでボツにして、未発表のままになっているものである。私の創価学会研究に関する個人的な理由が示されており、同様な問題意識を持った会員もそれなりにいると思う。
 第五小論「法体としての本尊論と法主の権限」は第二次宗門問題が発生したときに、創価学会本部の対策室に対して提出した初期(多分1991年)のレポートである。東洋哲学研究所で創価学会の独自のアイデンティティと日蓮正宗の教義の諸問題について研究していたとはいえ、私はできれば日蓮正宗と喧嘩別れすることは避けたいと思っていた。
 それは第一次宗門問題のときに、県幹部が日蓮正宗の檀徒会に入り、残った創価学会の幹部と骨肉の争いをしたことについて、一方は創価学会を通じて知った日蓮正宗の教義を信じていたのであろうし、他方は教義とは無関係に創価学会の中になんらかのよさを見出して信仰していたのだろうし、その意味では信仰していることが異なったことであるのだが、大衆的宗教運動としての創価学会はそのような多様性を含んでいることは当たり前なのだから、それをことさらどちらかが正しいなどと主張して分派活動をしたら、プロテスタントのように、どこまでも細分化し続けることになりかねないと危惧していたことによる。
 西山茂により日蓮正宗と創価学会との関係は、教団関係論としては内棲型教団関係に分類され、そのような関係にある教団の事例として、英国聖公会(国教会)とメソジストの関係や、日本では本門法華宗と本門仏立講の関係がある。本門仏立講は内棲型教団関係を戦後清算して、本門仏立宗として独立したが、そのときはそれなりの手切れ金を本門法華宗に支払うことで円満に独立することが出来た。新宗教である創価学会と伝統仏教である日蓮正宗は根本的には異質であるから、いつかは両者の関係を清算する必要があるとは思っていたが、教義と儀礼の両方を日蓮正宗に依存しているかぎりは早期の独立は難しいと考えていた。
 (本門仏立講は独立前から本尊として独自の「要の曼荼羅」を制定していたが、創価学会は本尊を日蓮正宗に依存していた。ちなみにどのようにして本門仏立講が独立を円満に勝ち取ったかを考察すると、第一段階として本門仏立講の信仰熱心で宗学への研究心の高い在家信者を本門法華宗の僧侶にさせ、第二段階として本門仏立講による本門法華宗への寺院寄進を進め、出家させた僧侶を寄進寺院の住職にすることにより、本門法華宗内部に自立的な組織を作る。さらに残りの優秀な僧侶を寄進寺院以外の寺院の住職にすることにより支配寺院を増やしていく。そうすると本門法華宗の中核を担っていた関係者たちが本門仏立講に本門法華宗が乗っ取られることを恐れて、本門仏立講出身の僧侶を排斥しようとする。そこで本門仏立講出身の僧侶たちは本門法華宗から出て行く代わりに、本門仏立講の独立を容認させ、さらに寄進寺院を本門法華宗から本門仏立講に返す代償としてそれなりの金銭を本門仏立講から本門法華宗に支払うという経緯をたどった。{たまたま入手した小笠原日堂『曼荼羅国神不敬事件の真相――戦時下宗教弾圧受難の血涙記』に松井日宏の「本書の再版にあたって」という一文があり、その中に本門仏立講が本門法華宗から戦後独立するときの、GHQを介在した交渉過程が記載されていた。そこには「(両者の)会談の場所を文部省とすることに定め、当時の新任早々の宗務課長奥田繁氏に議長のような役をしてもらうことも依頼して十数回の会談を行い、仏立講離脱による宗門の経済的損失等を仏立講側が負担する事までも決定して、ようやくその独立を承諾する事とした」とある。(2012/3/28付記)}創価学会の失敗は、創価学会出身の僧侶たちはそれなりに多かったのにもかかわらず、日蓮正宗支配のための戦略がなく、第二次宗門問題のときに、創価学会ではなく、日蓮正宗についたものが多かったということにある。)
 それがどういう事情かはいまだによく分からないが、第二次宗門問題が生じた。その問題が生じてまだまもない翌年の1月に、創価学会の組織センターの幹部であった東大の先輩から、日蓮正宗の僧侶と新宿の居酒屋で会うから同席して欲しいと言われ、私と中野毅が同席した。そのときの会談の相手は現在教学部長をしている水島公正であった。水島は第一次宗門問題のときは、創価学会批判の中心人物の一人であったが、阿部日顕が創価学会攻撃中止命令を出したとき、自分が出家するときに世話になった師匠から、本山の法主を護るようにという遺言があったため、理としては納得できないが、法主には従うという趣旨の弁明文を『大日蓮』に掲載して、その後正信会とは分かれた経緯を持っていた。
 会談の始め頃に、水島は思い出話を始め、僧侶になりたての若い頃、創価学会の青年部と一緒に折伏活動をしたことを懐かしそうに語り、言外に創価学会との争いはできれば避けたいという寺持ち住職としては当然の意志を示した。そこから話は本題に入り、一体日顕上人はどこまでやるつもりかということを、情報収集を任務としていた先輩幹部が尋ねた。すると水島は自分にもよくわからなかったので、正月になってからある会合で日顕上人に、今回のことは教導が目的なのか、それとも別の意図があるのか、と質問したら、日顕上人から、お前が何をとぼけたことを聞くのか、という顔をされたので、これは本気だなと思ったという話をした。(このときには日蓮正宗にC作戦があったということは知られていず、水島もそれには関与していなかったと思われる。)私も中野もできればどこかで手打ちをしたいのだが、その可能性があるだろうかと尋ねると、水島は両方のボスが先頭切って戦い始めたら誰にも止められない、創価学会でもだれか池田名誉会長を止められる人がいますか、所詮創価学会も宗門もボスが右向けといったら、私もあなたも右向くしかないでしょうという趣旨の話をした。なおも私は食い下がって、江戸時代には法主でも法義に反して造仏をした人もいたでしょうと『随宜論』を持ち出したが、水島は、あれは単純にそうは読めないという趣旨の話をして、『随宜論』に関しては論争する意志があることを匂わした。7時頃から始まった会談も終わったのは12時近くになり、私は終電もなくなり、幸い多摩センターまでの高速バスがあったので、それで終点まで行き、その後30分ほど冬の寒空を仰いで、まだ理論的準備も整っていないのに、日蓮正宗と戦争するのかという、暗澹たる気持ちで、歩いて帰ったことを思い出す。
 それからしばらくすると私も中野も、原田稔や野崎勲が中心となっていた本部の対策室に招集され、行ってみると地湧通信が話題になっていた。その当時はまだ誰がやっているのかは明らかにされていなかったが、私には、こんな謀略が出来るのは山崎正友に鍛えられた北林芳典ぐらいしか思いつかなかったが、彼は盗聴問題で責任を取って本部を辞め、苦労して報恩社という葬儀会社をようやく軌道に乗せたばかりで、そんな余裕はないと思っていたのだが、後で彼だと分かったときには、その異能と熱意に感心した。第二次宗門問題は準備無しで起ったようで、対策室でもどのように教義的に創価学会を正当化するかについては、そもそも日蓮正宗の教義については殆ど知らないスタッフばかりだったので、まだはっきりとはしていなかった。そのうち聖教新聞で日有の『化儀抄』を使って「法体の血脈」と「信心の血脈」の論争を始めた。私は法主を中心にした日蓮正宗の体制を作ったのが日有であり、彼の書いた『化儀抄』には圧倒的に日蓮正宗にとって都合のよい部分が多いのだから、そんな資料を使って教義論争をしても敗北するだけだと思い、日蓮正宗の主張とその主張とは不整合な資料をまとめて報告したのがこの第五論文である。
(上記の記述に関して次のような北林芳典からの訂正依頼がありました。
「私は『地湧』の発信については、私が主体的に関わっているかどうかは別にして『謀略』とは考えていません。宗門は前年12月末、信徒除名ができるように宗規を改悪しました。したがって、法主の座にあった日顕を、いかにそれが正義に基づくとはいっても批判することは、間違いなく信徒の地位を失うことになったのです。したがいまして、信徒の立場にある創価学会員が日蓮大聖人の正法正義にもとづき、宗内世論を喚起するには匿名はやむを得ないものだったのです。したがって、私は『地湧』の言論活動は『謀略』ではなく、抵抗運動であったと思います。いわゆる『レジスタンス』です。
また『地湧』は宗門側においては『怪文書』とのレッテルを貼りたがっておりますが、後日、はまの出版より出版元明記のうえ『地湧からの通信』として出版されております。筆者が匿名でありましても、出版元が明確であり、出版責任者も存在する出版物は、『怪文書』ではありません。ましてや書いてあることは正当なものであったのですから、『怪文書』でもなければ、無論、その行為は『謀略』などであろうはずがありません。
 従いまして、『こんな謀略が出来るのは』を『こんなことができるのは』あるいは『このような言論活動ができるのは』に訂正していただきたく思います。
 『山崎正友に鍛えられた北林芳典』については、余地なく訂正を求めます。私は『山崎正友に鍛えられた』記憶はまったくありません。彼の指示下において活動したことはありますが、それも偏に創価学会を護るためでした。私の得た情報を山崎が手柄にしたことはありますが、私は彼に教わるどころか、彼のもとにいた当時においても嫌悪感しか抱いておりませんでした。よってこの記述は削除いただきたく存じます。
 『彼は盗聴問題で責任をとって本部を辞め』という表現も、まったくの事実誤認です。私が第三文明社を退職したのは、昭和54年6月30日です。退職した理由は山崎正友との戦いを予知してのことでした。彼は私の身分を暴露し、創価学会に迷惑をかけることになってはならないと思い、そうしたのです。言うまでもありませんが、昭和46年に本部職員となったわけですが、爾来、生涯を本部職員で生きていこうと思っていました。未だ、その思いは変りません。
 なお、念のため申し添えておきますが、山崎正友が盗聴事件等を暴露し始めたのは、昭和55年6月のことでした。3億円恐喝既遂の後5億円の恐喝を企図し、あることないことを暴露し始めたのでした。私は山崎が創価学会に対し、そのような攻撃をすることを予見し、前年には職員を辞職しました。よって、『盗聴事件で責任をとって本部を辞め』ということは、私が盗聴事件に関与していないことからしても、まったくの事実誤認です。この箇所も削除していただきたく存じます。
 なお『地湧』の発行についてどのように関わっていたか、あるいは関わっていなかったかについては、生涯一切言わないと、編集長の不和優氏と固い約束をしています。したがいまして、本書面において、私が『地湧』についてどのように関わったか、あるいは関わらなかったかについて、明記することは避けさせていただきます。かかる事情の故に、それについて記載された内容について、訂正を求めることはしません」
 私も一時的に一緒に活動したことがあるとはいえ、北林のことについて詳細を知る立場にはなく、不十分な情報に基づいて、上記のような記述をしたのだが、当人から上記のような訂正依頼がきたので、そのように訂正したいと思います。北林の名誉を傷つける記述をしたことに関しては申し訳なく思います。(2012/3/28訂正)
第六小論「本尊作成に関する諸問題」はほぼ同時期に創価学会が独自に本尊作成をする場合の諸問題についてレポートしたものである。日蓮正宗との非妥協的な対立が避けられないということが明らかになると、多くの会員の自宅にある日顕の本尊をどうするかということが問題になり、学会独自の本尊を作成しようとなった頃に書いたものと思われる。多くのスタッフは教義とは無関係に日蓮の曼荼羅を欲しがっていた。それで実際に候補になりそうな本尊を探したところ、あるにはあったが、摸刻本尊で、当然オリジナルの本尊は別のところにあるから肖像権の問題があり使用できそうになかった。もう少し準備期間があれば、創価学会の財力に物を言わせて、日蓮筆の曼荼羅を何らかの手段で購入するか、肖像権を購入することはできたと思われるが(その場合は堀日亨も言及しているが、埼玉の日蓮宗寺院に安置されている南条時光授与の本尊が第一候補となるかもしれない)、なにせ突発事故みたいなものだから、泥縄式に探すしかなかった。それで次善の策として日興筆の本尊を探すと栃木浄円寺に日興筆の曼荼羅があったという情報が伝えられた。これは『日興上人御本尊集』にNo. 223と表示されている本尊だが、そこには写真版も図版も記載されていず、未調査の曼荼羅とされている。ところがその後の情報では、御厨子に入れるときに、御厨子が曼荼羅よりも小さかったために、曼荼羅の上部が一部分切り取られていて、どうも本尊として使用するには具合が悪いということのようで、この話も立ち消えになった。その後の経過は知らないが、最終的には日寛の曼荼羅を使用することになった。
 その後は創価学会のアイデンティティが日蓮正宗とは異なることを明示するために『牧口常三郎の宗教運動』の執筆に忙しくなり、また日蓮正宗批判もスキャンダル暴露がメインになり、教義的問題は重要視されなくなったので、本部の対策室に出向くこともなくなった。
 第七小論「日興門流における本仏思想の展開」は「1997.3.13」とあるから、多分東洋哲学研究所で行われた研究部員会かプロジェクトの研究会の発表資料であろう。日蓮から日有に至るまでの本仏論に関係する資料を集めただけのものであるが、これらの資料がもとになって、後に日蓮正宗の教義を全面的に批判した『日有の教学思想の諸問題』へと結実していくこととなる。
 その後の本部との関わりは会則変更のときに、意見を聞きたいという連絡があり、本部の検討会に中野毅とともに出席したことがある。私は会則変更の案文を見て、日蓮正宗との関係が削除されたので、特に異議はなかったが、「(教 義)第2条 この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し、日蓮大聖人の御書を根本として、日蓮大聖人の御遺命たる一閻浮提広宣流布を実現することを大願とする。」に関して、創価学会はいつまで古臭い末法理論を採用し続けるのかということと、御書について現行の御書には問題があるから、改定する意志はあるのかという質問をしただけであった。そのときの会議を主催していた野崎勲からは明確な返答がなかったが、会議に出席していた戸田門下生で、男子部長を経験し、国会議員を長年経験した古参の幹部が、御書は戸田先生と堀日亨上人が心血を注いで作られたものだから、そこに問題があるとはどういうことだと反論してきたので、私は文献学的諸問題をこの人に話してもしかたがないと思い、例えば現行の御書には『出家功徳抄』が入っているでしょう、(『出家功徳抄』には「所詮心は兎も角も起れ身をば教の如く、一期出家にてあらば、自ら冥加も有るべし、此の理に背きて還俗せば、仏天の御罰を蒙り、現世には浅ましくなりはて、後生には三悪道に堕ちぬべし、能く能く思案あるべし、身は無智無行にもあれ、形出家にてあらば、里にも喜び某も祝著たるべし、」とあり、内実が伴わなくても出家するだけでもすごいのだという在家仏教にとっては不利な記述がある)、あれを日蓮大聖人の御書だと認めたら、日蓮正宗のスキャンダル批判も無意味になりますよと述べて、納得してもらった経緯があった。そのときにこの世代の人には現行の御書は絶対不可疑の聖典だということが骨の髄まで染込んでいるので文献学的問題を冷静に話し合うことはかなり難しそうだと実感した。
そしてふと思い出したのは、トーマス=クーンが『科学革命の構造』の中で、パラダイムの変更は説得によってではなく、古いパラダイムを信奉している人々が死に絶え、新しいパラダイムを使用して仕事をする人々が増えるという世代交代によってなされるという議論である。創価学会の教義変更も同様のプロセスを経るしかないのかと少し寂しい気はしたが、自分が正しいと思っている人にその誤りを納得させることは非常に困難だと経験的に感じていたので、自分なりに新しいパラダイムで仕事をするしかないかと思った。
 なお私の提出したレポートがどのように対策室の参考資料とされたかは私には分からない。当時対策室には離脱僧侶たちの意見も届いていたようであり、対策室としてはさまざまな情報を総合して、判断したことと思われる。私は創価学会の御用学者を自任しているが、御用学者はクライアントの御用に立たなければ意味がない。そのためにはクライアントが喜びそうな情報だけでなく、厳しい内容の情報も与えて、あらかじめ準備を促すことも必要であり、その意味ではイエスマンであってはいけないと思っている。

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