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研究覚書き 宗教的真理の問題をめぐって  東洋学術研究第28巻第2号 1989

 フッサ−ル現象学の課題はある命題が真理であるということを言うためには、いかなる言語的、論理的そして認識論的条件があるのかということを解明することであったと見ることができる。その場合彼は、神や他人の心という言葉を含んだ命題はその条件を超越していると考えた。つまり宗教的命題は真理条件を持たないと考えたのである。
 だが問題はここから始まるのである。宗教が人間や世界について検証不可能な命題によって究極的な意味世界を提示する場面においては、確かに真理条件を持たないであろう。だがどの宗教もそのような場面しか持たないということはない。その宗教が置かれた歴史的文化的状況の中で、自己の宗教の真理性を主張し、証明しようと努力してきたのである。つまり日常的な生活世界の中に、説得性ある真理条件を設定しようとする知的努力をしてきたのである。日常的な生活世界と究極的な意味世界を結ぶ回路の創造=説得性ある真理条件の提示にこそ宗教の存続の可能性がある。
 私は日蓮の文証、理証、現証という考えはこの宗教的真理条件の提示という努力の現われであると思っている。シンクレティズムの風潮が強い宗教土壌の中で宗教的真理を主張しつづけた日蓮はその一方で自己の主張の真理条件を提示しているのである。
 現代において日蓮の宗教が発展しうるかどうかは、日蓮の提示した真理条件がどれほど説得性があるのか、またその条件に照らして、はたして日蓮の宗教は真理であると言うことができるか、という問題の解決にかかっている。少なくとも仏教学からは大乗非仏説、末法年代に関して日蓮は真理を誤認しているという批判がある。つまり第2の問題をクリア−していないと批判されているのである。日蓮の宗教を知的頽廃から救うためにはこの批判への説得性ある回答が必要である。そのためには日蓮の宗教についての伝統的解釈の変更も必要であろう。

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